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 わたしたちが今いる警視庁に、宇宙から無人探査機のカプセルが墜落する。そんな荒唐無稽な事態にも関わらず警察は迅速に対応し、近隣住民の避難誘導を開始したらしい。警視庁を中心とした半径一キロ圏内にいる人々が避難の対象で、渦中の建物にいたわたしたちは一番に近い順番で大型人員輸送車に乗せられた。
 無人探査機はくちょう。そういえばもうすぐ地球に帰ってくるというニュースを見た気がする。でもだからってなんで警視庁に墜落するなんて事態になったのか、先ほどの停電は何だったのか、なんで復旧できなかったのか、考えてもわからず、かといって警察の人に聞ける状況でもなく、流されるまま輸送車に揺られるしかできなかった。座席は避難住民で満席だ。後ろに蘭ちゃんや毛利さんが座っているので心細くはないのが救いだった。誘導担当としてこの車に乗っている目暮警部は車内の先頭に立ち、これから東京湾の埋立地、エッジオブオーシャンに向かうこと、この輸送車に乗る人たちは施設の一つであるカジノタワーに避難することを告げた。「そうだ。新一に連絡しなくちゃ。園子たちと避難してるって…」後ろの席に座る蘭ちゃんの声を背に、落ち着かない気分のまま窓の外を見やる。彼女の隣に座る園子ちゃんが先ほど指し示した通り、窓からは遠くのほうに、けれど一際輝くカジノタワーが見えた。わたしたちはあそこに避難するらしい。

 安室さんは今どこにいるんだろう。


「…あ、新一?今、エッジオブオーシャンのカジノタワーに避難してる。この留守電聞いたら電話して…」


 新一くんというのは、蘭ちゃんの幼なじみの男の子だそうだ。前に聞いた。高校生探偵という忙しい身で、滅多に帰ってこないらしい。高校を休まないといけないほど多忙を極めているというのだから、きっといつも東京にいるとは限らないのだろう。そんな彼を、今このとき蘭ちゃんは間違いなく案じているのだ。その気持ちは、よくわかる。どこにいるのかわからないからこそ、危険な目に遭っていないか心配になる。ただわたしの場合、蘭ちゃんのように連絡を取ることは物理的にも関係的にもできないのだけれど。
 じくじくと痛む両手の、指先だけを顔の前で合わせる。安室さんはわたしがどこにいようが気にしないだろう。でも、わたしは知りたい。案じることをやめられない。こんな事態の中、とにかく無事を知りたい。もうわたしを見限ろうが、この先一緒にいられなかろうが、ただ心配でならない。

 安室さん、わたしまだ安室さんのことすきです。

 口をぎゅっと噤む。安室さんは今、他の人と探偵の仕事をしている。たぶんそうだ。昨日否定しなかったもの。聞き込みや張り込みを、どこでやっているんだろう。毛利さんを助けるための調査だったのなら、もう不起訴の情報を耳にして、今ごろ胸を撫で下ろしているだろうか。昨日は警視庁に差し入れを持って行ったらしいから、もしかしたら、釈放されると知ったら同じように向かっているかもしれない。……近くに、いたかもしれない。違う輸送車に乗っていて、エッジオブオーシャンで会えるかもしれない。
 昨日、電話口で話していた冷たい口調の安室さんを思い出す。普段の安室さんは、あんな風じゃない。いつも温度のある優しい声をしている。だからあれは、わざと厳格な態度を取っているんだとわかる。なんでそんなことしてるんだろう。普通しないと思う。安室さんは人見知りしないし、依頼人や刑事さんなど付き合いの浅い人にも物腰が柔らかくて愛想のいい人だ。なのにわたしに隠している捜査のときだけ違うなんて、何か理由があるに違いない。
 それに、一緒に捜査する人たちに偽名を使って、依頼人や調査対象の人には本名を教えるって、やっぱりおかしい。意味がない、普通逆だ……。


「………」


 無意識に指の背で口を押さえる。
 なんか変なこと考えてるな、わたし。





 エッジオブオーシャンに到着すると、目暮警部の指示通りカジノタワーの展望デッキへと登った。やっぱり早い便の輸送車だったらしく、わたしたちが登ったときには最上階にはほとんど人がいなかった。エレベーターは忙しなく上下移動を繰り返し、続々と人が集まってくる。頼れる存在の毛利さんのそばには蘭ちゃん、妃先生、園子ちゃんが自然と集まり、カプセルの落下地点である警視庁や、そこにいる警察の人たちのことを案じているようだった。
 わたしも例に漏れずそわそわして落ち着けず、しばらく蘭ちゃんたちといたあとは少し離れて展望デッキの窓際へと移動した。カジノタワーの最上階は一面ガラス張りになっており、今いる方角からはエッジオブオーシャンを一望することができた。きっと反対側はオーシャンビューになっているのだろう。残念ながらまもなく八時を回るこんな時間では、絶景の海も真っ黒に塗り潰されているだろう。
 開業前にもかかわらず、エッジオブオーシャン一帯は施設や車両の明かりによって一見賑わっているように錯覚する。今避難先として解放されているのはカジノタワーと正面のショッピングモールだけのため、それ以外の施設やビルは暗くてよく見えない。そういえば、と右方向に目を凝らすと、爆破事件のあった国際会議場が、闇に身を隠しながら鎮座しているのが見えた。
 それから、空を見上げる。星はいくつも見えない。夕方までの雨雲が消えようが東京の空はこんなものだろう。こんな空からカプセルが落下してくるなんて想像もつかない。それでも、たとえ警視庁でなくとも近くに落ちることが予想されているのだ。東京のどこかに落ちる。もしかしたら自分の家かもしれないし、知り合いが被害に巻き込まれるかもしれない。見えない星に指先を合わせ、目を閉じる。

 どうか安室さんが無事でありますように。わたしにしていた隠し事を全部なかったことにしてでも、あなたが無事ならいい。そういう精神。そういう精神でずっといられたら、もしかしたら安室さんともずっと一緒にいられたのかもしれない。

 隠し事を詮索することを、安室さんは明らかに嫌がっていた。だからわたしは気付かないふりをしていればいいと思って、我慢したこともあった。昨日も、何も気にしないって態度でいれば、前まで通り仲良くいられたんだろうか。隠し事に気付いていながら見て見ぬふりをして、そんなわたしを安室さんも知らんぷりして何も言わないで、

 でもそれってわたし、全然幸せじゃないよ。


「…?」


 ふと、空で一粒の光が灯った。ぼうっと見ているとやがて消えてしまい、もはや何も残っていない。もしかして、流れ星?わ、生まれて初めて見た。こんな感じなんだな。もしかしたらまた見えるかもとしばらく同じ方角を見上げていると、次はもっとはっきり、さっきより大きな赤い光が見えた。それはほんの一瞬で、同じく跡形もなくなってしまう。
 すごい!今日は流星群が降る日だったのか!満月だし、相当幻想的な夜だ。こんな事態でもなければ、わくわくして空を見上げる人が大勢いただろうに。
 二度も流れ星を見られた幸運に気分は少し浮上する。胸の前で指先を合わせる。なんだか大丈夫な気がしてきた。カプセルは落ちても大丈夫なところに落ちて、みんな無事で、何事もなくてよかったねって笑いながら輸送車に乗り込む未来が想像できた。きっとこのあといいことが起こるぞ。

 もう一つ見られるかもと空を見上げていたものの、さすがに三つ目は流れてこなかった。余韻に浸ったのち、流れ星のことを報告しようと蘭ちゃんたちへ駆け寄る。視界の隅で展望デッキ中央のエレベーターが到着したのがわかった。
 あれ?と思う。さっきまで定員ギリギリの人数を乗せ、開いた途端人が溢れ出てくるような運行をしていたのに、今エレベーターから出てきたのはスーツ姿の男性一人だけだった。緊迫した表情の男性は周りの人たちの注目を集めたまま、声を張り上げる。


「警察です。皆さん、落ち着いて聞いてください。これから避難先を変更します。速やかにここから移動してください」


 周囲がざわつく。誰かが、何でですか、と不満と疑問の声を上げる。避難者の気持ちは皆同じで、相手が警察といえどすぐに従おうとはしなかった。警察の人は、一瞬苦々しい表情を浮かべ、逡巡ののち、こう告げた。


「落ち着いて聞いてください。カプセルの落下予想地点が変更されました。新たな落下予想地点は、エッジオブオーシャンです。ですから、皆さん、速やかにここを降りてください」


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