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「コナンくん?」


 結局、妃先生の法律事務所に到着したのは夕方になってからだった。予報通り雨は上がり、今はオレンジ色の夕焼けが辺りを強く照らしている。
 温くなった保冷パックはショルダーバッグにしまい、折り畳み傘の持ち手部分を痛くない指の側面に引っ掛け向かっていると、事務所が入っている高層ビルのエントランスからコナンくんが飛び出してくるのを目撃した。距離があるため向こうがこちらに気付くことはなく、彼は敷地を出て灰色のアスファルトに足をつけるなり、スケボーに乗って一目散に大通りの方向へと向かっていった。わたしの知っているスケボーと違い、助走も何もなくものすごいスピードが出ていたので、やっぱりあれも阿笠博士の発明品なんだろうと確信する。わたしだったらひっくり返りそうなものだけれど、コナンくんはサッカーが得意らしいから体幹もしっかりしているのだろう。
 引き止める術のないわたしは遠ざかる彼を見送るだけして、予定通りビルへ入ることにした。昨日は特に何も言ってなかったけど、きっと用事があるのだろう。蘭ちゃんが事務所にいてくれるのであればコナンくんの離席は特に問題がないと感じた。
 エントランスでエレベーターを待つ間、先ほど自分で納得したことに疑問を浮かべていた。コナンくんって、サッカー得意なんだっけ?見たことない。そういえばクール便に閉じ込められた日、少年探偵団でサッカーをしていたってあとで聞いたな。でもなんか、コナンくんは特別上手だという印象がある。

 あ、サッカーボールが出てくるベルトだ。数日前、少年探偵団のみんなからそんな話を聞いた。会話の内容を思い出すと、ふふ、と一人笑みがこぼれた。阿笠博士の発明ってユニークなんだと思った瞬間でもある。しかもサッカーボールは花火にもなるというから驚きだ。本格的らしいし、いつか見てみたいなあ。
 天才少年のコナンくんにサッカーを印象づけたのはそれかもしれない。頭がいいだけじゃなくスポーツもできるのだ。そりゃあ歩美ちゃんが夢中になるのも頷ける。前に閉じ込められたコンテナの中でもそんな話をしたなあ。あのときはまだ、同じ空間に遺体が乗っているなんて思いもしなかったし、すぐに降りられると思っていたからのん気にしていた。光彦くんに、わたしがコナンくんのことをすきなんじゃないかって勘繰られたのも、今となっては楽しい思い出だ。もちろん、今でもすぐに違うって否定するけれど。


「それにわたし、安室さん一筋だよ!」


 一階に着いたエレベーターに乗り込み、事務所の階のパネルに触れる。ふう、と吐いた息をすぐに吸い込む。肺の中さえ心許ない。


「そうだよ!お姉さん、探偵のお兄さんの恋人だもんねっ」


 本当に、そうなりたかったなあ。





 廊下を歩いた先の事務所は照明が点いておらず、壁一面の窓から差す夕日だけで照度が保てていた。開けっぱなしのドアから覗き込むとすぐに蘭ちゃんが気付いてくれ、招き入れてくれる。入ってすぐ、右手の壁に設置されていたテレビがなくなっており、電気焼けや取り付け用の器具が剥き出しになっているのに気付いてぎょっと目を見開く。
 そそくさと蘭ちゃんのそばへ歩み寄り、遅れてごめんなさいと謝る。蘭ちゃんは笑みを浮かべ、いいえと返してくれたものの、目が少し赤くなっているようで気になる。ただならぬ事態を予想するも、部屋全体に漂う空気はどことなく柔らかい。事務所内には蘭ちゃんと妃先生だけでなく、スーツ姿の男性と女性もいた。知らない人たちに身を縮こませこんにちはと会釈する。

 あっ、この人が橘境子先生?

 何かの資料の束を抱えた女性に振り向くと、彼女は愛想の良い笑みをわたしに見せてから、妃先生に「じゃあ私、NAZU不正アクセス事件の資料を工藤新一くんに送ってきますね」と伝えた。「ええ。お願いね」妃先生の返事を聞くと、では、と踵を返し隣の部屋へと去っていく。いまいちピンときてないけど、毛利さんの事件の話ではなさそうだ。


「蘭ちゃん、あの人が橘先生?」
「いえ、母の事務所の秘書さんです。栗山緑さんっていって」
「あ、そうなんだ…」
「橘先生は、さっき来たんですけど……というか、そう、さっき父の不起訴が決まったんです!」


「えっ?!」びっくりして飛び上がるかと思った。不起訴ってことは、裁判はなしってことだよね?午後に裁判の手続きをしたって言ってたけど、この短時間でなしになったのかな?!蘭ちゃんは満面の笑みで、心から安堵しているのが見てとれる。急展開に目を丸くしてしまう、けれど、本当に毛利さんの無実が証明されたんだ!


「おめでとう!よかったねえ〜!」
「はい、ありがとうございます!これから警視庁に迎えに行くんですけど、さんもどうですか?」
「行きたい、行きたい!いいの?」
「はい!駅で園子と待ち合わせしてるので、一緒に行きましょう」


 蘭ちゃんにありがとうと声を上げる。部屋の空気の和やかさにも納得だ。見れば、奥さんもスーツの男性もすっかり安堵した様子だ。きっとこの人も毛利さんの無実を信じていた一人なのだろう。
 本当によかった。三日前、毛利さんが爆破事件の容疑者として捕まったと聞いたときは何が起きたのかと思った。けど、無事を約束された今となっては、なーに言ってんだか!って感じだ。そんなわけないでしょうっての!
 聞けば、スーツの男性はなんと警察の人だというではないか。白鳥という名前の警部さんの説明によると、犯行の証拠とされていた毛利さんのパソコンは、真犯人がサミット会場のネットにアクセスする際の中継点にされていたことがわかったのだそうだ。よって、毛利さんが犯人である可能性は低い。それが警察としての見解だった。犯人が捕まったわけじゃないのか。まだ予断を許さない状況であることに息を呑んだものの、余計、毛利さんの容疑が晴れたことに安堵する。


「では、自分は先に警視庁に戻ります」
「はい。ありがとうございました」


 白鳥警部が先に退室し、蘭ちゃんたちは警視庁へ向かう支度を始めた。二人を眺めながら、ふう、と一つ息をつく。…ほっとしたけど、わたし本当に何の力にもなれなかったな。結局のところ警察が全部解決したのだ。意気込みは無意味だった。安室さんの言う通りだったな……。
 来たまま特にやることもなく手持ち無沙汰となったわたしは、ずっと指に引っ掛けていた折り畳み傘の存在を思い出し、バッグにしまおうとした。開いた手のひらがビリッと痛み、顔が歪む。……あ、そうだ。顔を上げ、蘭ちゃんの姿を探す。ソファの近くでカバンの中を確認しているようだ。「蘭ちゃん…」「はい」こんなことを頼むのは申し訳ないけれど、今回だけは許してほしい。


「ちょっと携帯貸してもらえない…?」





 七時過ぎ、完全に日が沈み暗くなった頃に着いた警視庁の通路でしばらく待っていると、高木刑事に付き添われた毛利さんが姿を現した。目にした途端、蘭ちゃんは駆け出し、毛利さんの胸に飛び込む。


「お帰りなさい!」
「心配かけたな、蘭…」


 親子の感動の再会に、園子ちゃんと一緒に涙ぐんでしまう。居候のコナンくんを含め、毛利さん家は仲のいい親子だと思っていた。そんな家族が突然離れ離れになるつらさはどんなものだろう。蘭ちゃんによかったねと声をかける園子ちゃんの隣で深く頷く。


「そうだ!この感動シーンを推理オタクにも送ってやろ!」


 園子ちゃんが何やら閃いたらしく、カバンから携帯を取り出し親子三人をカメラのフレームに収める。なるほど記念撮影、と得心したわたしはさりげなく園子ちゃんに寄り、ディスプレイを覗かせてもらうことにした。同じくさりげなくカメラに写ろうとした高木刑事を園子ちゃんがちゃんとしっしっと追い払っているのが面白かった。


「はい、チーズ」


 合図ののち、シャッター音は聞こえなかった。突如として辺りの照明が消えたのだ。真っ暗になった空間で、携帯のディスプレイだけが煌々と光っている。


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