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 嫌な夢を見た感覚はあるのに、目を開いた瞬間から奪い取られるように薄れていく。起きた直後にもかかわらず布団の中で横たわる身体が疲れている気がする。寝返りを打って仰向けになると、カーテンの隙間から漏れるうっすらとした陽の光が見えた。
 何かを考えての行動ではなかったけれど、両手で目を覆ってみると、心なしか熱を持っている気がした。手のひらの下で開く。まぶたに違和感がある。
 しばらく真っ暗な視界の中、瞬きを繰り返す無意味な動作をしていた。次第に飽きて、のったりと上体を起こす。やっぱり身体が重い。枕元に置いた携帯の電源をつけると、時刻は正午過ぎを表示していた。さすがに寝すぎだ。げえ、と顔を歪める。
 大学もバイトもないうえでアラームを設定しなかったものの、すでに一日を無駄にした感が否めない。今日くらいはいいんだと気持ちを切り替えられないから嫌だ。はあ、と重い息を吐く。何もかもがだるい。


「……疲れた」


 自然と漏れていた。口にしたところですっきりもしない。ベッドの上で膝を立て、三角座りのてっぺんに額をくっつける。
 昨日、時刻的には今日だったけれど、眠りにつくまでずっと考えていたのに、何にも決断できなかった事実に気分が沈む。正しい判断はわかっているのに、従えない自分が嫌だった。
 ほんとうに、今日シフト入ってなくてよかったな。これからどんな顔をして働けばいいのかわからないもの。絶対、働きにくい。でも辞めたくない、こんな理由で去りたくない……。
 昨日の続きが始まりそうな思考を振り切り、顔を上げる。なんたって今日は妃先生の事務所に行く用があるのだ。コナンくんにも言った。裁判前の手続きって、何をするんだろう。まったく知識がないわけでもないのに、裁判の流れってよくわからないんだよなあ…。

 のろのろとベッドを降り、出かける支度をする。歯磨きをしながら蘭ちゃんにメッセージを送ってしばらくすると、これから妃先生の事務所に戻る旨の返信が来た。加えて、少し出かけるから三時過ぎに来てもらえると助かるとも書いてある。了承の返信をし、支度のスピードをさらに落とす。有益な情報があるかもしれないと午後のニュース番組を見たあと、ショルダーバッグに携帯と財布とハンカチを入れ、上着を羽織って家を出た。
 五月にもなったのに肌寒いと思ったら、分厚い雲が空をまんべんなく覆っていた。どんよりと薄暗く、いかにもという感じだ。ネットで天気予報を調べると、これから雨が降るらしい。でも夕方には上がるみたいなので帰りは必要なさそうだ。すぐさま玄関に引き返し、長傘と迷って、折り畳みの傘を手に取った。

 案の定駅に着く前には降り出したので傘が活躍した。連休真っ只中のホームの混雑具合に負けじと、かろうじて形成されている電車の待機列に並ぶ。すぐに後ろに人が来たので前の人との距離を詰める。左右に立つ人も同じ乗車口から乗るつもりなのだろう。押し潰されているわけではないのに、乗る前から窮屈を感じてしまう。ぶつからないよう身を縮こませ、バッグから携帯を取り出す。法律事務所までの乗り換えを再度確認してから、そのままネットでサミット会場の爆破事件について調べていく。テレビでもそうだったけれど、昨日から特に進展はなさそうだ。サミット自体も今日、別会場で開催されているらしい。どこのニュースもおんなじ感じか……。

 そんな風に黙々とネットのページを移動していると、ふと、両手の中の携帯が熱を持っていることに気付いた。焦げたような匂いが鼻腔を掠める。
 疑問に思うより先に、眼前で火花が散った。


「っ?!」


 一瞬見えた電光に目を剥く。それから、携帯本体が、とても小型家電とは思えない、尋常じゃないほどの高温を帯びていく。嫌な予感がして咄嗟に手放そうとするも、至近距離に人がいることを思い出し慌てて両手で挟み込む。ケース越しに伝わる熱によって焼かれるような痛みが手のひら全体を刺激する。手の中からパキン、と妙に小気味いい音が聞こえた。ディスプレイのガラスが割れたのだ。――なにこれ、おかしい。携帯の異変に、電源を落とそうと側面のボタンを押し込むもすでに画面には何も映っていない。ボディの隙間からまた火花が爆ぜる。すぐ目の前には並んでいる人の背中がある。最悪の事態を避けるため、再度携帯を手で覆っていた。恐怖に思考と呼吸が停止する。

 閃光と共に、パンッ、と、聞こえたと思う。破裂音。同時に、耐えがたいほどの激痛が両手に広がる。


「ぐっ…」


 呻き声をもらしながら膝を折る。変な音が聞こえたからか、わたしが奇行者に見えたからか、大混雑にもかかわらず周りの人々は距離を取ったようだった。痛みに震える両手から携帯が落下する。カシャンとホームに落ちたそれは、画面が粉々に割れ、ボディは膨れて歪み、隙間からプスプスと煙を出す、到底携帯電話とは呼べない代物に変わり果てていた。両手は未だ激痛が続いている。見ると、手のひら全体が赤く腫れていた。

 携帯が爆発した。思いがけない事態に、どっと汗が吹き出す。「大丈夫ですか…?」近くにいた誰かの声が耳に入ってくるのに反応できない。うずくまったまま、雑踏は不思議なほど遠くに聞こえるのに、雨音だけは耳元で鳴り響いていた。





 誰かが呼んでくれたのか騒ぎを聞きつけたのか、駆けつけた駅員さんに誘導され駅の救護室へ移動した。なんとこの駅で携帯が爆発したのはわたしだけじゃないらしく、もう一人の人も同じように連れられていた。その人は外傷などはなく、駅員さんに事情を説明したあとは携帯ショップに行くからとすぐに退席してしまった。
 動揺しっぱなしで足もふらふらしていたけれど、水道で両手を冷やしたり、イスに座って手当を受けているうちにだんだん落ち着くことができた。手のひら全体が火傷したらしく真っ赤になり、あちこちでもうぷつぷつと水疱ができている。爆発の衝撃でところどころ小さな切り傷もあった。携帯は、ハンカチに包んで机に置かれている。今はうんともすんとも言わない。
 目を逸らし、はあと溜め息をつく。なんなんだ。こんな壊れ方聞いたことないよ。調べようにも頼みの携帯はああだし、両手もうまく使えない。この数分の間で不便な生活になってしまった事実に気分は落ち込む。携帯、買い替えるしかないよなあ。それよりこの手どうしよう、明日バイトあるのに…。

 ホームで応対してくれた人とは別の女性の駅員さんがやってくると、今都内のあちこちで似たような事故が発生しているらしいという話を教えてくれた。どうやらもうニュースになっているらしい。携帯だけじゃなく、洗濯機や電子レンジなどの電化製品が暴発しているのだとか。原因は不明で、警察からの発表もまだないらしい。わたしの使い方が悪いせいではなかったんだと安堵すれど、なぜ暴発したのかはわからないままだ。気分は一向に回復しないものの、ずっといるわけにもいかないので駅員さんにはお礼を言って救護室をあとにした。

 指先はかろうじて免れたものの、握っても開いても痛みが走る。軽く曲げた一番楽な状態をなるべくキープして近くの薬局に保冷パックを買いに行き、両手を冷やしながら駅へ戻る。さっきまで並んでいたのと同じ電車に乗り込んでから腕時計を確認し、予定より一時間以上遅れそうだと肩を落とす。
 たぶん先に携帯を作り直さないといけないのだろうけれど、なんだかとてもそんな気になれなかった。それより、蘭ちゃんたちとの約束がある。この状況や、今日は行けなくなったと伝える手段がないので、とにかく向かうしかなかった。
 満員電車の乗車口のドアに寄りかかりながら、ここ数日の出来事を思い返していく。なんだか、踏んだり蹴ったりじゃないか?嫌なことばっかり続いてる気がする。自分だけが不幸だなんて思わないけど、確実に何かの巡り合わせが悪い。ついてない、というのかもしれない。


 相変わらず運が悪いなあ。


 呆れたように笑う安室さんはもういない。


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