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 エレベーターの到着音がこの階に響いたのは、日付も変わって随分経ったあとのことだった。同じ階の住人の訝しげな視線を受けながらも平静を装い、寝静まった真夜中の空気に紛れるように待ちぼうけた、そんな数時間が報われることに歓喜し、直後に降下する。急速に張り詰めた緊張の糸に、さっきまで流暢に動いていた携帯をいじる指先が覚束なくなる。電源をろくに切れないまま、慌ててカバンに突っ込んだ。
 ドア横の壁に寄りかかっていた背中を離し通路で対峙する姿勢をとる。エレベーターホールから歩いてくる足音。やがてその人は姿を見せた。


「安室さん…!おかえりなさい…」


 安室さんは通路に立つ人影に気付いた途端警戒し身体を強張らせたようだけれど、それがわたしだとわかるとすぐさま肩の力を抜き、代わりに眉をひそめた。足を止めることなく近づいてくる。険しい顔だ。歓迎されていないことがはっきりと伝わり、身がすくむ。


「こんな時間になんだ」
「あ、えっと…」
「用があるなら手短にしてくれ」


 わたしの横を通り抜け、ドアの前で立ち止まると同時にそう言い放つ。ポケットから部屋の鍵を取り出す動作を、目線を落として見つめる。無視はされなかった。でも、顔を見ようとしない。言葉通り、わたしに割く時間が惜しいとでもいうかのような態度。目の前にいるはずなのに遠い。まるで見えない壁がたちはだかっているようで、心がどんどん潰れていく。


「安室さんも毛利さんのこと知ってるって、気にしてるってコナンくんに聞いて……今日警視庁に行ったんですよね」
「それが?」


 紡いだ言葉もいとも容易く断たれ、たじろいでしまう。それが、って……。


「わ、わたしも毛利さんのこと蘭ちゃんたちから聞いて、助けるために毛利さんの奥さんの事務所で色々やってるって話を、報告したくて」
「頼んだ覚えがないな」
「た、」
「そんなことをしている暇があるなら、家で大学の勉強でもしていた方がいいんじゃないか?」


 いよいよ声が出ない。三秒止めた息をおそるおそる吐く。喉が震えている。安室さんは俯いたまま、片手をポケットに入れ、もう片方の手で家の鍵を弄んでいる。真上の照明と夜の暗さで影が濃く、横顔がよく見えない。口元はうっすら笑っているように見えるけれど、気のせいだろうか。既視感を覚えながらも思い起こす余裕はなかった。


「毛利先生のことは警察に任せておけばいい」
「そ、そんな、安室さんも毛利さんを助けたいんですよね?」
「君には関係ない。勝手に役に立とうとされても迷惑だとしか言えないな」


 あくまで流暢に紡がれる安室さんの言葉に、だんだんと自分が論理的に話せているか自信がなくなってくる。間違っている気分になる。安室さんの言い分がもっともな気がしてくる。肩にかけたカバンの持ち手を両手で握り込む。すがるものがなくてすごく不安だ。
 なんだか悪いことをしているみたいだ。安室さんじゃなくて、わたしが。安室さんの邪魔をしてるように思える。そんなつもり、少しもないのに。うかがうように目線だけで彼を見上げる。


「わたし、安室さんの助手ですよね…?」


 その問いに、安室さんは今日初めて、自分からわたしに目を向けた。ゆっくりとこちらへ動く視線に安堵するより先に、その眼差しがひどく冷たいことに気付き、凍りつく。
 次の瞬間、どこからか携帯のバイブレーション音が聞こえてきた。ハッと逃げるように自分のカバンを確認するも、携帯の画面は真っ暗なままだった。


「はい」
『降谷さん。報告です』


 安室さんの電話か、と顔を上げ、一瞬、ほんの微かに聞こえた携帯越しの声に違和感を覚える。普通の男の人の声だったように思う。耳を澄ませてももう何も聞き取れない。


「ああ、わかった。引き続き頼む。進展があれば報告してくれ。僕もすぐに戻る」


 違う、違和感があるのは安室さんのほうだ。
 反射的に俯き唾を飲み込む。頭が混乱して事態が飲み込めない。安室さんの声音が明らかにいつもと違う。真剣な表情で一つの気も緩んでいない。この声は、聞いたことがある。
 通話を切った安室さんはポケットに携帯をしまい、鍵穴に鍵を差し解錠した。わたしは、信じられないものを見るような目をしていたと思う。それに対して安室さんは、温度を感じさせない横目で見つめ返すだけだった。


「あ…安室さん、こんな時間まで何をしてたんですか…?」
「……」
「まさか、またわたしに内緒で探偵の仕事をしていたんじゃ、」
「言っただろう。君には関係のないことだ」


「一昨日もはっきり伝えたはずだけど、伝わらなかったか?」息を呑む。告げられた言葉の意味を理解したくないのに、してしまう。身体中の温度が消えていく。
 それは、わたしとの約束を反故にしたことを、少しも気に留めていない台詞だった。わたしの信頼なんてどうでもいいかのような、取るに足らないものだと、言っているようだった。
 唐突に、自分がどうしてここにいるのかわからなくなる。今までの記憶がすべてあやふやだ。何にも裏付けされていない、まやかしだったかのようだ。心許ない、足元からガラガラと崩れ落ちていくような感覚。これは、この感覚は、知りたくない。


「……じょ、助手も、クビなんですか……」


 言いたくない、でも聞かないと。聞きたくない、でも否定してほしい。全然最善が選べない。なにが、どうして、なんでこんな話になってしまったんだろう。

 ふ、と笑った声が聞こえた。初めて好意的な反応が返ってきて、すがるように顔を上げる。
 安室さんはわたしに顔を向け、目を細め、うっすらと笑っていた。ほっと安堵して、わたしも頬を緩ませる。


「ごっこ遊びは楽しかったか?」


 そう言ったが最後、安室さんは部屋へと消えていった。最後まで笑顔は変わらず、わたしを置いて。パタンと閉じた音を皮切りに静寂が広がる。屋外にいるはずなのに何の音も聞こえない。
 息苦しくなって、大きく吸う。肺を膨らませ、それから動けない。また苦しくなってから、今度はゆっくり吐き出す。じりじりと眼球が熱い。ひゅっと息を吸う。脳みそがかき混ぜられて、身体の内側から溶けていく恐怖。知りたくなかった、こんなこと。




「次からはちゃんとするから、安心してくれ」


うそつき。


「今さら誰かのところに行ってほしくはないな」


うそつき。


「しないよ、君のことは…」




「うそつき……」


 弱々しい声と一緒に涙がこみ上げ、ボロッとこぼれた。頬を伝う熱いそれを手の甲で拭う。漏れそうになった嗚咽を必死に押し殺す。
 今までのことが全部破り捨てられる。散らばった思い出を、安室さんは平気な顔で振り返らない。追いかけられず立ち尽くすわたし。距離はどんどん開いて、もう見えない。こんな関係だったの。あの笑顔もあの言葉もあの優しさも嘘だったの。知りたくなかった。安室さんがわたしを傷つける、絶望だけが結びつく、こんなつらいこと、絶対に知りたくなかった。


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