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 一昨日ぶりの安室さんは夕方の六時に出勤する予定だ。普段のシフトに比べて短く、閉店までの数時間でこそあるものの本人としては少しでもお店に協力したいと考えているのだろう、忙しい中でも合間を縫ってシフトに入ろうとしていることが想像できた。テーブルを拭き終え、時計を見上げると時間まで十分を切っていた。もしかしたらもう控え室には来ているかもしれない。


「梓ちゃん、買い出し頼める?ちょっと量あるんだけど」
「はい。大丈夫ですよ」


 振り返ると、カウンター内でマスターと梓さんが何やらメモ用紙を間に話していた。買い出しかあ。連日多くのお客さんをもてなしているから、いろんなものの消費が激しいのだろう。もう一度時計を確認し、ダスターを片手に二人へ歩み寄る。会いたかったけど、仕方ない。


「わたし行きましょうか?もう上がりの時間ですし」
「本当?うーん……じゃあ、一緒に行かない?手分けして買いましょ」


「はい!」返事をし、カウンター越しにメモ用紙を見せてもらう。あ、これなくなっちゃったのか。近くのスーパーに売ってないんだよな。それにいつもより品数が多い。もはや少し遠くても会員制の倉庫店にいったほうがいいレベルだ。二人でなら運べない量じゃないしなあ…。うーん、と顎に手を当てる。


「僕が行きますよ」


 耳に届いた声に、背筋が冷えた。身体がこんな反応をしたことにもショックで、一瞬思考が停止する。――安室さん。
 メモ用紙に落としていた目線を、顔を上げずに彼へ移す。カウンターの内側にある従業員用の出入り口から姿を現した彼の顔は見られず、白いシャツとズボンと、腕にかけた黒いエプロンだけを見とめる。梓さんが、そうですか?と頬に手をやる。


「僕、車で来ていますから。量が多いなら倉庫店に行った方がいいですよね?」
「そうだね。じゃあお願いできる?」


 はい、と軽やかな安室さんの返事が聞こえる。そこでようやく事の流れが理解できた。ハッと顔を上げる。二日ぶりの安室さんは、まっすぐ、カウンターの内側にいる梓さんとマスターに向いていた。


「わたし――」
「じゃあ、車出してきます。梓さんは店の前で待っていてください」
「え、はい…」


 梓さんの困惑したような返事を聞いた安室さんは踵を返すと、再び出入り口の向こうへ姿を消した。パタンと閉じたドアを凝視したまま動けないわたし。梓さんとマスターが顔を見合わせたのが視界の隅でわかった。


ちゃん、安室さんと喧嘩でもした?」
「し、してません…」
「そうよね。安室さん、大人なんだし」


 梓さんが首を傾げたまま息をつく。暗にわたしが子どもだと言われているのかと穿ってしまったけれど、すぐに自分で否定する。梓さんはわたしにではなく、安室さんに違和感を覚えたからそう言ったのだ。
 安室さん、カウンターの外にいるわたしを視界にも入れていなかった。声を上げたのに意にも介されなかった。まるでいないみたいに、存在を消されたようだった。こんなのは初めてだ。安室さんが取り合ってくれない。こんな短いやりとりで思い知らされてしまう。


「とにかく、行ってくるわね。ちゃんは上がっちゃって大丈夫だから」
「はい……」


 お疲れ様でした、とか細い声であいさつを述べ、控え室へ下がる。安室さんと会ってしまうんじゃないかとおそるおそる向かったけれど、すでに出て行ったあとで、気配はどこにもなかった。
 ほっとした次の瞬間に失望する。自分は安室さんにこんなことを思う人間だったのか。…………。


「……いやっ!」


 がばっと顔を上げる。安室さんとこのままじゃ駄目だ。嫌だ。何をどうしたらいいのかさっぱりわからないけど、どうにかしなくちゃ。何かに急き立てられるように、わたしは手早く身支度を整え、ビルの外へと飛び出したのだった。

 運良く店の前を通りかかったタクシーに乗り込み、安室さんたちが向かったであろう倉庫店へ行くよう伝える。残念ながらすでにRX7の影はどこにもなかったため、「前の車を追ってください!」なんていうドラマみたいなことはできなかった。そもそも、この追跡にわくわく感なんてものは一ミリもなく、緊張と、焦りと、まだ残る安室さんへの一縷の期待と、昨日コナンくんにした約束が、かろうじてわたしを動かしていた。





 広い駐車場で安室さんの車を見つけることは早々に諦め、店内へ入ることにした。入店手続きを済ませ、買い出しメモの内容を思い出しながら当たりをつけ倉庫棚を移動していると、しばらくして前方からこちらに向かってくる二人の姿を見つけることができた。冷凍品のコーナーを練り歩く二人にいち早く気付いたわたしは、すぐさま曲がり角になっている壁の陰に隠れた。ばったり会って向こうに見つかっていたら最悪だった。細心の注意を払って移動していた甲斐あって、上手くいったのは本当によかった。
 隠れるわたしに向かってくる二人のうち、先頭を安室さんが歩き、後ろから梓さんがカートを押していた。二人はきょろきょろと冷凍庫の棚を見回しながら進んでおり、何かを探しているのは明白だった。カートの中にはすでに買い出しの商品がいくつか入っている。


「ないねえ、あの大きなアイスクリーム」
「ですねえ」


 アイスクリーム、かすかに聞こえた単語に、はてどこの棚だったろうかと記憶を巡らす。わたしもここには数えるほどしか来たことがないのだ。陳列場所などはまるで把握できていなかった。
 うかがっているうちに二人がだんだんと近づいてくる。横切られたらすぐに見つかってしまう。どのタイミングで出るのが正解なんだろう。とっさに隠れてしまったけど、隠れないで突撃したほうがよかったかもしれない。一分前の判断を少し後悔していると、梓さんが足を止めたようだった。


「あ、わたし店員さんに聞いてくるから、安室さんは小麦粉と卵をお願い」


 二手に分かれるんだ。確かに、買うものが多いから効率がいい。前かな、後ろかな、梓さんはどっちの方向に動くだろう。二人より一人のときのほうが話しやすいかもしれない。こっそり壁から覗くと、彼女はひらりとロングスカートを翻し踵を返していた。


「梓さんは、いいお嫁さんになりそうですね」


 耳にした途端、芯から体温が吸い取られる感覚。いや、足を掴まれて地中に引きずり込まれる。眼前にナイフを突きつけられている。ここまで覚束ない心持ちになったことはない。視界が急に遠ざかる。耳を疑いたかった。あるいは、誤解したかった。消えたい、と思わせる。
「しっ!軽はずみな言動は避けて!」梓さんがすぐさまたしなめるのを耳に、おそるおそる顔を上げる。梓さんの剣幕と、戸惑う安室さんの顔が斜め後ろの角度から見える。心臓が怖いほど鼓動し、疲弊している。


「今の時代、どこで誰が聞き耳を立ててるかわかんないですからね!」


 言い捨てるように梓さんが走り去る。背を向け、わたしとは反対方向に遠ざかる。
 すぐに我に返り、壁に身体を隠す。梓さんが後ろってことは、安室さんがこっちに来る。今見つかるわけにはいかない。絶対だめだ。今の自分は親しい二人の盗み聞きをしている、間違いなく部外者なのだ。バツが悪くてたまらない。口を覆う手に生温い息が当たる。どこで誰が聞き耳を立ててるかわからない――きっと梓さんは、わたしに気付いて言ったわけじゃないとは思うけど……。


「………」


 はた、と気付く。心臓がまた気味の悪い鼓動を打つ。息を吸おうとして、ほんの少ししか吸えない。どうしよう。苦しい。だって、これ、恐ろしいことに気付いてしまった。

 足は縫い付けられたかようにその場から動こうとしない。脳の制止を聞かず、壁に背をつけたまま、目が勝手に右へ動く。カラカラと車輪が回る音。曲がり角から、人影が現れる。

 安室さんはカートを押しながら、わたしの真横を通り過ぎていった。一定のペースで、振り向きも、足を止めることもなく遠ざかっていく。後ろ姿を目に留め、呆然とする。彼のその行動は、たった今気付いてしまった事実を確信させるには十分だった。

 安室さんはわたしの尾行に気付かなかったことが一度もない。

 勢いよく冷水を浴びせられたかのような寒気に襲われる。いよいよ息ができない。咄嗟に足元を見下ろして、もう顔を上げられない。もう一度だって見上げたら、しっかり目が合ってしまうんじゃないか。見たこともない冷たい眼差しを向けられている想像で震え上がる。ポアロでは無視されたことにあんなにショックを受けていたのに、いざ温度のない目で見つめられたら、本当に、悪くなってしまう。

 安室さんは、わたしがいることに気がついていた。そのうえでわざとあんな言葉を聞かせた。
 一縷の期待などどこにもない。安室さんは本当に諦めさせたいんだ。


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