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 昨日初めて会った毛利さんの奥さんは想像以上に美人で、聡明で、敏腕弁護士の名は伊達じゃないのだろうと、一度も仕事ぶりを拝見したことのないわたしでさえ信じ込めるような説得力のある女性だった。別居中とはいえ、毛利さんの奥さんとなれば似たような雰囲気の方なのかなと想像していたので意外に思ってしまった。だって毛利さん、事件のときの推理は冴え渡っているけど、普段の様子を見ているとちょっと抜けてるというか、おっちょこちょいというか、お調子者のような気質が見受けられるから。逆にそういうところが奥さん、妃英理さんのハートを射抜いたのかもしれない。いいなあ、すきだなあそういうの。
 ともかく昨日、妃先生に相談するも芳しい返答は得られなかった。なんでも弁護士は身内の弁護はしないのだという。裁判官に、客観性に欠けると判断される可能性が高いらしい。言われてみれば確かに、と納得でき、じゃあ力を借りることはできないのかと落胆してしまう。けれど妃先生は諦めてなどいない様子で、知り合いの弁護士に弁護を引き受けてもらうよう打診していると言っていた。昨日はそこまででお開きになった。

 ポアロで働いている間も頭の中ではネットニュースの内容を反芻していた。サミット会場の爆破なんていう重大事件のためすでに容疑者の氏名は公表されており、有名な名探偵の毛利小五郎が逮捕・連行されたという報道に世間は騒然としていた。肝心の事件の詳細はどこの記事も似たり寄ったりで、新しく知った情報といえば、発火の原因は高圧ケーブルで、その中心を通る冷却用の油に引火するよう容疑者が細工をしただとか、サミット会場がエッジオブオーシャンから変更になったということくらいだった。

 連休の繁忙もあってあっという間にクローズの時間が迫ってくる。今日は閉店作業をマスターと梓さんに任せ、一時間早く上がることになっていた。できる範囲の店内の後片付けを済ませ、あいさつをして控え室へ下がる。
 一人の控え室、ロッカーと向き合い、溜め息をつく。安堵と疲労と憂慮の気持ちが混ざり合って出たそれは思いのほか大きかった。ほぼ丸一日の勤務、この心理状態では確実にやらかすという危機感があったためいつも以上に気を張っていた。おかげで大変なミスはなく終えられてほっとしたけれど、いつも以上に疲れた。手隙のときに思い出す考え事はいつまで経っても出口がなく、どうにか好転しないかと思い巡らせるも解決策は浮かばなかった。
 とても最低なことだけれど、毛利さんのことを案じている間は安室さんとのことを考えなくて済むから、気が楽といえば楽だった。だって毛利さんは絶対無罪だもの。冤罪ともいうだろう。心配なものは心配だけれど、ちゃんと捜査すれば警察だってわかるはずだ。だいたい、どんな理由があればサミットと無関係の毛利さんが爆破させたなんて発想になるんだ。わたしも容疑者とか言われたことあるからわかるけど、絶対違うとしても疑われている間は不安だ。でもいつも、わたしが犯人でないことを前提に考えてくれる人がいるから大丈夫だった。どちらかというと身近で事件が起きて、すぐそばに犯人がいる不安のほうが大きかったと思う。
 とにかく、毛利さんは犯人じゃないと信じているし、多くの人が同じように考えて、彼を助けようと動いているのだから、悪いことにならないと確信できる。

 でも安室さんは。安室さんとのことは、だめなのかもしれない。少しでも気を抜くとすぐに出てくる。黒くてぶよぶよしていて掴めない、でもしっかりまとわりついてくる気味の悪い物体が、閉め切った心の隙間からじわじわと入ってくる。安室さん、あんなにずっと一緒にいたけど、たくさんお話もして同じ時間を過ごしたけど、だめなのかもしれない。なんか、全然気付けなかったのもショックの原因かもしれない。この間東都ホールに行った日に初めてまさかと察したくらい、安室さんにすきな人がいるだなんて、今まで少しもわからなかったのだ。
 わたしが安室さんを心に決めていたのと同じように、安室さんも梓さんを心に決めているのかもしれない。なのに全然気付けなくて、察したくせにいつまでも変わらずつきまとっていたから、安室さんはいよいよ我慢ならなくなって、昨日ついにふったのかも。昨日は、遅刻してきた安室さんが怪我をしていて、しかもその理由をどうにもごまかしているようだったから、気になって何度も聞いてしまった。何もしないで休んでとも言った。今思うとしつこかったのかも。あれが決定打だったのかもしれない。すごく後悔していた。でもどうしても気になったし、あんな怪我でも平気そうな顔をされたら、心配になって当然だとも思う。

 というか、あの詮索やおせっかいが良かろうが悪かろうが、遅かれ早かれわたしはふられていたのだ。一回ぽっきりの原因なんか考えて、うじうじとまだ現実を受け止められてない、本当に諦めの悪い奴だ。安室さんはおまえのことすきじゃないんだよ。


「……電話」


 ロッカーの中のカバンから振動の音を聞き取る。支度がまったく進んでいないことに我に返りながら携帯を取り出すと、発信者は蘭ちゃんだった。受話ボタンを押し、耳に当てる。


「もしもし」
さん、毛利蘭です。父のことで…』


 うん、と電話越しに頷く。蘭ちゃんには昨日、毛利さんのことで進展があったら連絡をしてもらうようお願いしていた。
 彼女の話によると、毛利さんの書類送検が決定したのだそうだ。事態は好転どころか悪化していた。さっきまでのん気に構えていた自分が人でなしに思え、罪悪感でいっぱいになる。人知れず身体を丸める。
 よかったこととしては、無事に弁護士が決まったらしい。それも妃先生の伝手ではなく、国選弁護人でもなく、自分から売り込みに来た人なのだそうだ。「たちばなきょうこ先生」という名前を聞いたけれど、もちろん聞き覚えはない。
 なぜか蘭ちゃんがあきらかに渋々といった声音だったので問うてみると、どうもその先生、公安事件の弁護の経験は豊富なものの、すべて敗訴しており、しかも負けるのは仕方がないみたいな諦めの姿勢で話すものだから、いまいち信頼しきれないのだそうだ。父親の人生がかかっているというのに頼みの弁護士がそんな様子では不安になるのも当然だろう。どうしてその人に頼むことにしたの?と聞けば、母が了承したのだと返ってくる。
 公安事件ってどういう意味だろう。漢字は思い浮かぶけれど、普通の刑事事件との違いがピンと来なかった。イメージ的に、国際規模の事件とか、テロに関する事件をそう呼ぶのかもしれない。毛利さんが特殊な事件に巻き込まれた事実に、薄ら寒さを覚える。


「とにかく、弁護する人が決まってよかったよ。また進展があったら教えてもらってもいい?」
『はい。心配かけてすみません…』
「そんな、わたしこそ聞くだけ聞いて何もできてなくてごめん…。明後日は一日時間あるから、やれることがあったら何でも言ってね!」


 ありがとうございますさん、と遣る瀬なさそうな蘭ちゃんの声。早く元気になってほしい。そのためにはやっぱり、毛利さんの疑いを晴らさないことには解決しない。
さんと電話してるの?』スピーカー越しに微かにコナンくんの声が聞こえる。蘭ちゃんがわたしに断りを入れたあと、少し遠くなった声で『そうよ。次お風呂入っちゃうね』と返す。どうやらお家らしい。同じ建物で電話をしている状況が少し面白い。声には出さず笑みがこぼれた。


『じゃあさん、また……』
『待って!ボクもさんと話したい!』


 コナンくんの張った声が聞こえる。何か用だろうか?二人のやりとりを黙って聞いていると、通話をコナンくんにバトンタッチし、蘭ちゃんはお風呂に入りに行く話になったようだった。通話の続行について蘭ちゃんに確認を求められ、もちろんと了承すると、『もう遅いから長電話しちゃだめよ?』『うん!』という可愛いやりとりのあと、すぐ近くでコナンくんの『もしもし?』が聞こえてきた。


「こんばんはコナンくん」
『こんばんは。蘭姉ちゃんと何の話してたの?』


 毛利さんの話だよ、と今しがた聞いたことを掻い摘んで伝えれば、そっかあと明るい声が返ってくる。書類送検とか裁判とか、小学生に難しい話をしてよかったのかなと思いつつ、コナンくんは一つ一つ理解しているような相槌を打ってくれるものだから全部話してしまった。どうやら彼も弁護士先生たちの話には立ち会っていたようで、事情は知っているみたいだった。


さん、ちょっと聞きたいんだけど』
「うん?」
『昨日から安室さんと何か話した?』


「ううん」即答していた。嘘じゃない。ごまかすまでもない。というか、やっぱり気のせいじゃない、コナンくん、やたらと安室さんのこと気にするな。そういえば昨日、安室さんのシフトも聞かれたっけ。シフト表が手元になかったのでそらんじられる分だけだったから、向こう三日くらいしか教えられなかった。だから今日は安室さんがポアロに来ていないことは知っている。その上での質問なのだろう。
 もし昨日のことがなければ、わたしは今日までに絶対、安室さんに連絡をしていた。毛利さんが逮捕されたんだって、奥さんの妃先生が弁護してくれる人を探してるんだって、話していた。園子ちゃんに言われるまでもなく相談していた。コナンくんもそうしてほしかったのだろうか。『そっか…』と神妙そうな相槌から、勝手に想像する。


『あのさ、さん。お願いがあるんだけど』
「うん、何?」
『安室さんに、今何してるのか聞いてもらえない?』


「……えっ」とっさにとれたリアクションはほんの些細な驚きだった。連絡を取ってほしいのかとは予想してたけど、まさか本当にピンポイントで難題なお願いをされるとは。「今って、本当に今?」『あ、ううん。違くて、ポアロに来てない間に何してるのかなって。ほら、安室さんって小五郎おじさんの一番弟子でしょ?何か調べてたりしないかなーって思ってさ!』述べられた理由に、なるほど確かにね、と上辺だけの納得をする。急に居た堪れなくなる。誰かに助けてもらいたくて辺りを見回すも、控え室には自分一人しかいない。


『安室さん、さんになら教えてくれると思うんだ。だから、聞いてもらえないかなあ?』


 自分の、息を飲む音が電話越しに聞こえてしまいそう。努めて平静を装う。まさかコナンくんも、頼んでいる相手が昨日安室さんに振られたばかりの女だとは露ほども思っていないだろう。


「ご、ごめん…」
『え…?』
「今ちょっと、安室さんには聞けないや」
『どうして?昨日も浮かない顔してたけど、安室さんと何かあったの?』


「何か…」本当に鋭い子だなあ。気付いてたのか。それでもこんなつらいことをコナンくんに話すのは気が引けたし、「ふられたんだー!」なんて開き直るほど元気ではない。何か、は、あったけれど。


『だっておかしいもの。安室さんとさん、いつもすごく仲がいいのに。今は連絡もしたくなさそうに見えるよ』


 コナンくんは本当にそう思っているみたいに、毅然とした声で伝えてくれる。仲がいいだって。わたしも、そう思ってたんだけどな。でも、安室さんはもう嫌なんだって。


「ありがとうね、コナンくん……コナンくんの言う通り、今ちょっと、連絡取りづらくて」
『……いや、ボクもごめんなさい。無理言って』
「ううん……でも、明日シフトが入れ替わりだから、聞けたら聞いてみるね」


 想像して目をつむる。今となっては昨日の安室さんの何もかもが曖昧だ。全部ごちゃまぜになって、わたしに最後の言葉を告げたときの優しげな笑顔すら記憶に遠い。明日、顔を合わせたら何て言おう。


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