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 一瞬、何を言われたのかわからなかった。わからなかったから、へ、なんて引きつった笑みを作ってしまった。安室さんはさっきから変わらず、目を細めて優しく笑んでいる。それが慈しむような眼差しに思えたものだから、わたし今、受け取り違えたんだ、なんて淡い期待をしてしまった。


「だから僕のことは諦めてくれ」


 そんなものはあっさりと打ち砕かれたけれど。咄嗟に逃げるように俯くも、足元が視界に入って視線が定まらない。身体中の体温が奪われたかのように血の気が引く。今すぐここから消えたいのに、身体の中がぐるぐると渦巻いて動けない。


「……や、やっぱり……」

「二人とも、そろそろ表閉めるけど大丈夫?」


 びっくりするほど弱々しい声が漏れたのとほとんど同じタイミングで、マスターが従業員用の入り口から顔を覗かせた。弾かれたように顔を上げる。「はい!大丈夫です」反射的に返事をし、目の前の彼が振り返った隙を狙って駆け出す。行き先は同じだけれど、まさか顔なんて見られるはずがなかった。


「お先失礼します」


 控え室でエプロンを脱ぐなり、安室さんは上着を片手に着もせず部屋をあとにした。声は普段通り愛想の良い音で、ロッカーの扉の陰に隠れるように帰り支度をしていたわたしが振り返るも、彼の背中に変化はなかった。お疲れ様、と労ったマスターは棚から鍵を取り、安室さんに続くように戸締りに向かったようだった。
 パタンと閉じ静まり返る室内。気がつくと足の力が抜け、床にへたり込んでいた。心臓がバクバクと鼓動している。ぐらぐらと、まるで酔っているようだ。
 ――ふられた。さっきの、間違いなく、そういう意味だった。今までこんなはっきり言われたことなかった。少なくとも、もう希望がないような、迷惑だと言外に言われたことはなかった。あまりに唐突すぎて身構えもできなかった。こんなにつらいなんて。息がうまくできない。胸の浅いところでつかえて深く吸えない。苦しいところに手を当て、前屈みになる。
 やっぱり、安室さんは梓さんのことがすきなんだ。この間からずっとそうなんじゃないかって疑ってた。だから予想はできてたはずなのに、安室さんに口にされるとここまできついなんて思わなかった。手を握り込む。ぶるぶると寒気が止まらない。冷や汗をかいている。


「あ、さん」
「!」


 マスターが戻ってきた。「すみません、もう出ます…」膝を立て立ち上がる。ロッカーについた手が震えている。ぐっと下唇を噛む。


「うん、それより今、上の蘭ちゃんたちに聞いたんだけど、毛利さんが大変らしいよ…」
「……え?」





「蘭ちゃん!」


 店の表のドアから飛び出す。普段は裏口から出るけれど、ビルの正面の道路に面しておらずタイムロスになってしまうため最短距離を選んだのだ。マスターから聞いた通り、彼女たちは歩道に立っていた。夜に向かう薄暗さの中、さっきまで点いていなかった街灯が三人を照らしている。
 蘭ちゃんの他に、園子ちゃんとコナンくんがいた。園子ちゃんは当然ながら、蘭ちゃんもショルダーバッグを肩にかけ、外出の風態だ。「さん…」駆け寄ると悲しげな表情の蘭ちゃんと目が合う。彼女の心境を思うと、胸の痛みが伝染するようだった。


「マスターから聞いたよ…。毛利さんが逮捕されたって、一体どうして…」


 そう、なんと毛利さんが警察に捕まったというのだ。突然の事態をまだ飲み込めておらず、疑問をそのまま口にしてしまう。蘭ちゃんは表情を曇らせたまま、ショルダーバッグの肩紐を強く握り、口を開く。


「サミット会場の爆破事件の容疑者だって、警察が…」
「爆破事件…?!」


 返ってきた答えがあまりに予想外すぎて、思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。爆破って、毛利さん、うっかり何かしちゃったのかもとか考えはしたけど、爆破はない。そんなの故意がないとできないやつだ。爆破犯と毛利さんなんてまったく結びつかない。絶対うそだよ、だってあの毛利さんだ。お人柄を知っていれば絶対ないって断言できる。
 サミット会場って、最近できた臨海の施設だっけ。違ったかも。東京サミットがもうすぐってことは知ってるけど、会場までは気にしてなかった。


「何かの間違いだよ絶対…。毛利さん、サミットの関係者だったの?」
「全然……何も知らないって父は言っていました」
「え、じゃあ本当に意味不明だね?!どんな根拠で疑われてるんだろう」
「……現場におじさんの指紋と、おじさんのパソコンからサミットの予定表と会場の見取り図が見つかったんだって」


「安室さんから聞いてない?」用心深くうかがうようなコナンくんの台詞に無意識に身体が強張る。あむろさん。先ほど彼に言われた言葉を思い出そうとして、ストップする。思い出したくない。


「あ、安室さん、このこと知ってるのかな……。マスターから聞いたときにはもう帰っちゃってたから…」
「…そうなんだね」


 コナンくんはそれ以上追及することはなかった。毛利さんの件、もうニュースになってるのかな。確かに、安室さんならすでに情報を得ていたかもしれない。でもそれをわたしに言わなかった。わたしだったらびっくりして、絶対言うけど。身近な人の逮捕なんて、一人で抱えておけない一大事だもの。マスターもそうだった。
 でも、安室さんは違った。少なくともわたしとは共有したくなかったんだ。

「他に大切な人がいる」……考えたくない。


「これから母の事務所へ弁護の相談をしに行くんです」
「こうなったら裁判でおじ様を助けなくちゃ!」


 ハッと顔を上げ、拳を作る園子ちゃんに強く頷く。そうだ、ものすごく心強い味方がいる。身内に弁護士がいるなんてこの上ない。絶対に無罪を勝ち取れるに違いないよ。
 蘭ちゃんが遠くに向かって手を挙げる。それに応じるように、タクシーが目の前に停まった。蘭ちゃんのお母さん、前に盲腸になったときは確か、杯戸市の病院に搬送されたと聞いた。事務所もそのあたりなのだろう。後部座席のドアが開く。一番に乗り込もうとした蘭ちゃんを、とっさに呼び止めていた。


「蘭ちゃん!わ、わたしも行っていい?心配なので…」
「ええ、ありがとうございます」


 じゃあわたし前乗りますね、と蘭ちゃんが移動してドアを開ける。ありがとう、と声にし、園子ちゃんとコナンくんに続いて乗り込む。蘭ちゃんが運転手さんに行き先の住所を伝えると、間もなく発進した。居住まいを正すように背筋を伸ばす。ほとんど無関係で、蘭ちゃんのお母さんとは初対面だ。そんな奴が行って何ができるのか、わからないけれど、じっとしていたくなかった。せめてみんなの目に野次馬のように映らないよう気を引き締める。


さん、このこと安室さんに伝えるの?」


 隣に座るコナンくんが潜める声で問う。コナンくんって、よく安室さんのことを聞いてくる。前もこんなことがあった気がする、と回顧しかけ、素直に喜べない心境に気分が沈んでいく。


「そうよ!安室さんっておじ様の一番弟子なんでしょ?さん相談してみてよ!」
「あ、えっと…」
「…できない理由でもあるの?」


 心なしか見上げるコナンくんの視線が鋭い。困ってしまって、肩をすくませる。


「安室さん、忙しいみたいで…怪我もしてたし……。ポアロもあんまり来れないくらいだから、相談しても助けてもらえないかも…」
「えー、そうなの?」


 落胆する園子ちゃんと、なにより自分自身を納得させるように大きく頷く。帰る間際、安室さんがこの件を知り得ていたのかはわからない。でも少なくとも、ニュースになっているならばすぐに知るだろう。それをわたしに相談することは、きっとない。こんなことだけは確信できて、途方もない悲愴に襲われる。


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