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 店のドアを閉めると共に頭上でドアベルが鳴る。閉店間際の照明を消した室内には今、自分一人しか存在していない。濃いオレンジ色の夕日によって店内の家具は影を作っており、開店時にはほとんど耳に入ってこない、行き交う車の走行音が気になるほど、辺りに無音が広がっていた。
 一方的に話を切り上げ置き去りにした江戸川コナンがどんな顔をしているのか、想像はできるが罪悪感も達成感も湧いてこない。国際会議場の件を事件化することには無事成功し、被疑者とした毛利小五郎の連行も先ほど窓越しに確認した。遠隔操作アプリの仕込みについても風見が上手くやってくれたため、今日からでも監視を開始できる。
 江戸川コナンには僕らが自分のテリトリーを侵害しようとしていることが伝わっただろう。彼を巻き込む下準備は整った。妃弁護士側への働きかけについても風見に任せているため、明日にでも実行されるだろう。
 外からの足音に振り返り、窓の前を横切り駆けていく江戸川コナンを目で追う。どうやら自宅に戻ったようだ。毛利小五郎のいなくなった家が今どうなっているのか、想像はできたがやはり後悔はなかった。
 手に持っていたチリトリを床に置き、箒をカウンターテーブルに立てかける。ふっと、笑い声が漏れた。あの少年の推理力には感心せざるを得ないな。もうこちらの意図に気がついていた。さすがに、自分こそが巻き込まれたのだというところまでは想像が追いついていないようだが。

(僕には命に代えても守らなくてはならないものがある)

 身体の横に垂らした手で拳を作っていた。使命のためならば、彼からの信頼を犠牲にしても構わなかった。この先江戸川コナンは僕を警戒するだろう。そうでなければならない。彼の十全な推理力を発揮してもらうには、毛利小五郎に真に危機が差し迫っていると思ってもらわなければ。
 ……いや、彼の行動原理は毛利小五郎に限らないか。
 と、従業員用の出入り口の方からパタパタと足音が聞こえてくる。


「あっ…安室さん!外掃除はわたしがやるって言ったのに…!」


 が戻ってきたらしい。夕方届いた食材をバックヤードにしまう作業をしていた彼女は、僕のそばにあった掃除道具を目にした途端駆け寄ってきた。


「大したことないよ。それより、力仕事を任せてすまない」
「怪我してるんですから当然です!安静にしててください、悪化しちゃうかもしれないですよ…!」
「心配性だな」


 肩の力が抜ける。服の下の怪我を含め、まったく痛まないということはないが、心配されるほどではない。何度言っても納得できないらしく、勤務中はずっと心配そうにこちらをうかがっていた。の言う通りにしていたら冗談抜きで棒立ちしかさせてもらえなかっただろうと思わせるほど、何から何まで肩代わりしようとしていた。なまじ店の仕事ができるようになったため厄介だ。


「用具はしまいます!」
「いいよ。自分でできるから」


 箒へ伸ばした手をやんわり制止し、それらを持って控え室へ移動する。やはり心配げな視線を背中に感じながらドアを開け通路へ出る。マスターはどこにいるのか、向かった先の控え室にも姿はなかった。
 ごみを処分し、掃除用具用のロッカーに箒とチリトリをしまいながら考える。は、午後顔を合わせたときから大げさなほど僕を心配していた。そして怪我の理由をしつこく聞いてきた。足を滑らせただのドジをしただの述べたがまるで信じていないようだった。の前でそういう自分を演じたことがないので説得力に欠けるのだろう。不審がるのは当然か。僕自身、一般人が日常で顔に怪我をする理由が思いつかず適当に答えてしまった自覚があるため、あまり追及されても困ってしまう。やはり暴漢に絡まれたと言った方が信憑性があっただろうか。あの子、この調子だと理由に納得するか僕の怪我が治るまでしつこく聞いてきそうだな。ふう、と吐いた溜め息にさらに呆れる。
 まあ、逆の立場だったら僕も同じことをしているだろうな。気持ちがわかるのが余計辟易してしまう。もしが怪我を負い、その理由を、どう見ても僕に隠しているとしたら、こんなものじゃ済まさない。簡単に想像がつく。
 だが今の立ち場では困る。がどんなに心配しようが疑ろうが絶対に明かせない。こんな僕に今、一体どんな言葉が残っているだろう。

 次からはちゃんとするから、安心してくれ。

 ……次からはちゃんと隠すから。

 隠しきれるだろうか。考え、難しいだろうと思う。君は追及したい子だから。きっとこんなことでごまかされてはくれない。それに江戸川コナンのこともある。彼なら必ず……ならば、どうすべきか。
 顔を上げる。控え室の窓に映る自分と目が合う。迷っている顔ではなかった。どうすべきか、答えはずっと前から僕の中に存在していた。

 照明の消えた店内は先ほどと変わらずオレンジの夕焼けに照らされていた。反対に影は濃く、視界がいいとはいえない。
 はカウンターの内側に立ち、壁に向いて俯いていた。棚の上の作業スペースに置いた紙を見ているらしい。近寄ると、それが今月末と五月の前半部分のシフト表であることがわかった。
 隣へ歩み寄り、作業台に手を置く。ごく自然に、触れそうなほど近い距離で立ち止まったことに気がつきながら、離れることはせず、並べられた二枚の紙を覗き込むように首を傾げる。彼女がこちらへ顔を上げる。眉を下げ、心配げな表情だった。


「あの、連休中はシフト代わりましょうか?わたし実はずっと暇なんです」


 思わぬ提案に目を瞬かせる。それから、ふっと笑みがこぼれた。


「大丈夫だよ。……暇なのか?」
「暇です!安室さんが元気だったらデートにお誘いしようと思ってたのに!」
「相変わらず運が悪いな」


 は、え、と声には出さず口を開き、目を丸くした。頬が染まっているように見えるのは気のせいだろうか。この暗さじゃわからない。そうだったらと想像して、楽しくなる。恥じらうような表情で目を逸らす、彼女のことを見ているのは、そう、心地が良かった。
 彼女と話し始めてから自分がずっと笑っているのを自覚する。心は異常なほど穏やかだった。深く息をつける。……楽しいな。やっぱりこの子はいい子だな。君と話すことは楽しい。君のいろんな表情を見るのは愉快で仕方ない。一緒にいると安心して、いっそ恐ろしいほどだ。
 それに、君は隠し事ばかりの僕なんかをずっとすきでいてくれる。ありがたいな。気持ちに応えてあげたら、どんな顔をするだろう。





 名前を呼ぶ。彼女がゆっくりと顔を上げる。


「他に大切な人がいる」


 見たかったな。


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