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 無事を祈っていた安室さんが傷だらけで出勤してきたときはさすがに目が飛び出すかと思った。

 事務仕事をひと段落させたマスターが店内に戻ってきてくれたので、ほぼ店番状態だったわたしはバックヤードの掃除でもしようと従業員用のドアを開けたところだった。電気が消えた薄暗い通路の向こう、建物の裏口の方向から歩いてきていた人影が視界の片隅に入った途端、振り向き、あっと声を上げる。


「安室さん!」
「おはよう。遅れてすまない」


 遅れてやってきた彼を目に留めるなり感喜の衝動のまま駆け寄る。ちゃんと来られてよかった。真っ先に、何があったのか聞くつもりだった。
 明るい時間でも通路には窓がないためしっかりとした光源がない。長時間いるならば蛍光灯の灯りを点けるけれど、目的の部屋への移動程度であれば消えたままでも問題ない。安室さんの目的地が控え室だというのは二人の共通認識だったから、二人とも電気をつけようとはしなかった。そのため、異変に気付くことができたのは、彼の目の前で立ち止まってようやくのことだった。


「…?! 安室さん怪我!どうしたんですか?!」


 なんと安室さん、細かい擦り傷が顔のあちこちにできているではないか。頬にガーゼをつけているし、手当していない傷はどこも赤いかさぶたになっていて痛そうだ。安室さんが怪我をするところなんて見たことがないので違和感すらある。薄暗いし、素人目での印象だけれど、傷はできてから時間が経っていないように見える。今日の出勤前に何かがあったことは明白だった。大きな声をあげ瞠目するわたしに、怪我のとおり疲労を滲ませた安室さんは苦笑いを浮かべる。


「ちょっと足を滑らせてね」
「ええ…!じゃあ他のところも痛いんじゃないですか?!」
「大したことないから大丈夫だよ。ありがとう」


「すぐ支度するから」言うなり横を通り抜けていく安室さんに当然のようについていく。安室さんはそう言うけど、顔に傷を作るほど酷いことが起きたなら手足を痛めていてもおかしくない。上着や服に隠れて痣とか腫れとかできてるんじゃないか。一体どんな足の滑らせ方をしたんだろう。普段から鍛えていて運動神経もいい安室さんの身に何が起きたんだ。安室さんがすってんころりと転ぶ姿を想像しようとして、できなかった。わたしじゃあるまいし!


「安室さん、無理しないで休んでください…!今日はわたしとマスターで回せますよ!あ、五時閉店って聞きましたか?なので…」
「聞いたよ。少しだけでも出ておきたかったから気にしないでくれ」


 控え室のドアを開ける安室さん。用もないのにこの先までついていくのは気が引け、立ち止まる。きっと荷物と上着をロッカーにしまうだけで、着替えるわけではないのだけれど。
「少しだけでも」っていうのは、他の日がほとんど入れない罪滅ぼしの意味だろう。全然気にしなくていいのに、と言える立場ではない。パタンとドアが閉じる。ざわざわと心配な心は落ち着かない。





 結局バックヤードの掃除は後回しにして、店内の拭き掃除をしながら、安室さんがマスターに事情を話す内容に耳をそばだてていた。足を滑らせ怪我をしたことについてマスターが珍しいねと返すと、安室さんは恥ずかしそうに肩をすくめていた。
 本当にどこも悪くしていないのか、安室さんの仕事ぶりは普段とまるで遜色なかった。顔の怪我ということもあって何人ものお客さんにどうしたのかと問われていたけれど、やっぱり安室さんは「少しドジをしてしまって」と答えるばかりだった。安室さんがドジするところなんて見たことない。よっぽどの何かが起こったに違いない。それにやっぱり、顔だけを怪我することなんてないでしょう。お客さんと談笑している安室さんをじっと見つめる。どう見ても、無理をしているようにしか思えなかった。


「あっ、お皿洗いはわたしがやります!」
「え?」


 戻ってきた安室さんの向かう先を察知し、素早く身体を流し台の前に滑り込ませる。「…じゃあ、頼むよ」苦笑いする安室さんの声に頷き、両袖をまくる。こっちが言っても帰りそうもないから、せめて負担を減らさないと。ああ料理を作れるようになっておいてよかった…!練習の日々が本当の意味で報われた気がするよ。


「安室さん、しづらいこととかあれば言ってくださいね!わたしやるので!」
「本当に何ともないんだけどな…」


「でも、ありがとう」笑う安室さんに心臓がきゅうと痛くなる。声にできず、ふるふると首を振る。なんだか泣きそうだ。安室さんが痛い思いをしてると思うとわたしまでつらい。無理しないでほしい。助けたかったよ。わたしが、安室さんを危ないことから助けたかった。
 口を噤んで堪えていると、視界の隅で安室さんがピタリと止まった。横目で盗み見ると、彼は道路に面した窓の方向を見つめているようだった。その表情はどこか険しく、真剣さを帯びている。視線の先を追うように目線を移すと、店の前の路肩に停まる一台の乗用車があった。ああ、と納得する。目敏い安室さんなら、そりゃあ気になるよなあ。


「車ですよね?」
「ああ……僕が来たときから停まっているなと思って。うちのお客さん?」
「いえ。毛利さんの依頼人かなと思ってたんですが」
「へえ」


「そうか」言いながら、まるで晴れない表情の安室さんは再び車へ視線を向ける。一瞬、目を伏せる。表情が消える。目の当たりにした途端、嫌な予感が駆け巡り、考える間もなく口を開いていた。


「安室さん、あの車、何か気になるんですか?」
「いや。少なくとも、君は心配しなくて大丈夫だよ」


 えっ。
 その台詞にどこか既視感を覚える。いや気のせいじゃない。真に言われたことがある。あれは、沖矢さんの家の前で会った日の翌日のことだ。
 あのときの安室さんは、探偵の依頼を受けたことをわたしに隠していた。もう片付いたと言ったきり、捜査内容は今も謎のままだ。……まさか、また内緒で捜査を…?
 一瞬湧いた猜疑心に、かぶりを振る。まさか、まさか。だって安室さん、あのあと「次からはちゃんとするから」って言ってくれたものね。疑り深いのはよくない。信じているから、心配しないよ。


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