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 大学終わりの夕方、店内に入ってあいさつをしたあと、まず店頭のブラックボードを確認した。掲示がないといい、と半ば念じながらカウンター席から仕切りを覗き込むと、非常に残念なことに一昨日も見たそれがレジ横に掛かっていた。一縷の望みをかけて文面を確認するも、案の定ケーキの欠品をお知らせするものだった。
 つい肩を落としてしまい、すぐに背筋を伸ばす。店員がこんなリアクションをしてはいけない。店内を見回し、一昨日とさほど変わらない夕方の閑散具合を確認しカウンターの内側へ戻る。作業台では安室さんが泡立て器で生クリームをかき混ぜている。横に並べられた材料からもケーキを作っていることは一目瞭然だ。だからこそ余計残念に思ってしまう。こんなに時間と手間をかけて作ったケーキが、ほとんど食べられないまま廃棄されてしまうなんて、やっぱりもったいない……。


「ケーキ、また崩れちゃったんですね…」


 自然とまた肩が落ち、彼に掛ける言葉も沈んでしまう。


「ああ。これで四回目だな」


 氷水に浮かべた大きなボウルの中で手を止めず、安室さんはやはり平気そうに答える。もどかしく思いつつ、ちらりとケーキストッカーを見やる。今日もわたしの分は残してもらえてるのだろうか。一ピースでも幸せな気持ちへ昇華してあげたい。とはいえ、今は勤務中だし、お客さんも数人いるからあとにしよう。何かしようと流し台へ移動し、水につけてある食器へ手を伸ばす。


「マスターと相談して、しばらくケーキはなしにしようって話になったよ」
「えっ、そ、そうなんですか……」


 本当に残念だけど、店長であるマスターが決めたことなら仕方がない。ケーキが溶ける原因がわからないから解決策は出てこないし、材料もタダではない。もしかしたら、わかるまでは復活できないのかもしれない。
 あれ、じゃあ安室さんは今、何を作ってるんだろう?洗剤で泡だらけの手を止め、左へ顔を向ける。相変わらず生クリームを混ぜ続けている安室さん。パンケーキ用の生クリームかな。でも普段あんなにたくさん作らないけどなあ。
 それよりもケーキだ。復活のため、一刻も早く原因を突き止めないといけなくなった。一昨日の閉店後、張り込みたいから鍵を借りられないかとマスターに打診したけれど、当然のように断られた。アルバイトに、しかも女性にそんなことはさせられないと。そう言われては心遣いを無下にできず、ポアロで張り込む案は消え、結局終電まで近くの深夜カフェで時間を潰し、夜中に一度店を覗いて帰った。何かしら行動に移したくて我慢できなかった。効率の悪いことをしている自覚はあって、考えなしのバカと思われたくなくて誰にも言っていない。扉の外から覗いただけではケーキの状態がわかるはずもなく、あの時点で溶けていたかどうかもわからない。誰かが悪意を持って崩した可能性を考え不審者の姿を探すも、不審者は完全にわたしだった。


「昨日はケーキ、どうでしたか?」
「崩れてなかったよ」
「あっ、そうなんですね!よかったです」


 安室さんが横目でこちらを見る。崩れてないなら幸いだ。一昨日の深夜の行動は本当に意味がなかったのかもしれないけれど、安室さんのケーキが無事だったのならこれ以上はない。
 正面へ顔を戻し、洗剤を流していく。でも、販売がストップになったのは事実だから、原因は早く突き止めたいな。一昨日はマスターに釘を刺されてしまったけれど、店の中がだめなら外での張り込みをするしかないかもしれない。でも絶対止められるよなあ。わたしも屋外で一晩を過ごすことに不安がないわけじゃないので、一昨日も実行はできなかった。でも四の五の言ってる場合じゃないし……。
 手を止めた安室さんが、わたしの後ろを横切ってケーキストッカーを開けた。てっきり崩れたケーキが出てくると思いきや、平たいスポンジが五枚並ぶバットを取り出したようだった。スポンジはしぼんでいるようにも見える。予想外の物体の登場に目を丸くしていると、安室さんは驚くわたしに顔を上げ、得意げに微笑んだのだった。


「それが終わったら試食を頼めるかい」
「えっ?はい…」


 反射的に了承したものの、首を傾げざるを得ない。もしかして、新作のデザート?生クリームもそのためか。ええ、すごい、こんな短いスパンで二つも考案するなんて。
 安室さんはボウルの隣にバットとお皿を二枚並べると、スポンジをお皿へ移動させ、生クリームを横にそっと添えた。ちょうど洗い物を終えたわたしのほうへ置かれた試作品に目を落とす。見た目はスポンジで作ったシュークリームみたいだ。柔らかそう。さっそくいただこうと、安室さんの分のフォークも出し、お客さんから隠れるようにしゃがみこむ。
「中は半熟になっているんだ」バットをしまう安室さんの言う通り、フォークで切ると中が少しとろっとしているのがわかる。一口サイズに切り、生クリームと一緒に口に入れると、卵の味がいっぱいに広がる。甘さもちょうどよくて思わず口元が綻んだ。


「すっごくおいしいです…!ぱくぱく食べられちゃいます!」
「よかった。クリームの甘さは改良中なんだけどね」
「もうお店に出せますよ!えーおいしい〜!」


 二口目は大きめに切り分けちゃおう。スポンジだけでもおいしい。二、三個は余裕で食べられちゃうよ。


「フルーツとか乗せたらいいなと思うんだけど」
「いいですねフルーツ!一緒に食べたら絶対おいしいと思います!」


 しゃがんだ体勢で絶賛するわたしへ見下ろしたままにこりと微笑む安室さん。あ、早く食べ終わらないと肝心の安室さんが試食できない。ゆっくり味わいたい気持ちを抑えながら、有言実行するかの如くぱくぱく食べてしまう。本当においしい。贅沢な気分だよ。


「ごちそうさまでした!」
「お粗末様でした」


 満足げに微笑む安室さんを見とめながら、お皿は流しへ置く。安室さんの分のケーキは彼の手元に置かれたままだ。お客さんを確認しても、帰る様子も、はたまた追加の注文をしようとしている人もいない。にもかかわらず彼は入れ替わりで試食をするつもりはないようで、ボリュームを落としたまま言葉を続ける。


「これならスポンジとクリームを分けて保存できるから、崩れる心配はないだろう?」
「確かに!……え、もしかしてあのケーキの代わりですか?!」
「そのつもりだよ」


 なんと、安室さんの柔軟な対応には平伏してしまう。単に新作を考案したのではなく、崩れてしまうケーキの解決策として作り出したというのだ。わたしが無駄な捜査をしている間に安室さんと来たら、本当にすごい。
「ということで、忌憚のないご意見を頼むよ」楽しげに促す安室さんにつられるように笑う。ご意見、と言われたものの、普通に一口目から最後まで美味しくいただいてしまった。このまま出しても大人気メニュー間違いなしだと思う。強いて言うなら、もう一枚食べたい!というくらいだ。
 と言うことを話すと安室さんは吹き出しそうになったのか、ぐっと口を噤んだ。それから、「もう少し大きく作ろうか?」なんて冗談めかして笑うので、いいんです、いいんです、と手を振った。


「なんか、イチゴのケーキのときもでしたけど、試食するだけして大した意見も言えなくてすみません……」
「気にしなくていいよ。君においしいと思ってもらえることが大事なんだから」
「えっ?!なんでわたし…?!」
「ケーキを注文するのは君や梓さんみたいな女性のお客さんが多いから」
「あ、はい」


 一瞬浮き足立ってしまった。安室さんがわたしのためにケーキを作ってるとか思ってしまった。いや、いつまでも能天気だなほんと!そんなわけないのに。実際は女ってだけで、梓さんとだって差がないのだ。そんなことにじりじりとジェラシーを感じてしまうことに嫌気がさす。バツが悪くて、苦笑いしてしまう。


「まあ、そういうことだから。が危ないことをする必要はないよ」
「……」


 安室さんの優しい眼差しに、えっと硬直する。それから、はい、とか細い声で返す。
 …………もしかして安室さん、一昨日わたしがしたことをご存知?!まさか、だって誰にも言ってない、あんな無駄なこと。


「それに、ケーキが崩れた件も、もうすぐ解決すると思うよ」
「そ、そうなんですか…?」


 客席を向きながら流し目でこちらを見る安室さんは、まるでわたしの考えていることをすべて見透かしているようだった。安室さんはそれから、今日、学校帰りの少年探偵団がポアロに来て、店内が深夜に曇ること、それが決まってケーキが溶けていた日の前夜なこと、曇る際必ずポアロの前を車が通っていることを突き止めた話をした。なんと驚いたことに、コナンくんが閉店後から開店まで店の前を監視カメラで撮影していたのだそうだ。日中も設置されてるのかな、と思わずカウンターから店の外を覗き込んだけれど、カメラの位置はわからなかった。


「監視カメラの映像を解析するために阿笠博士の家に行ったみたいだよ」
「へえー」


 覗き込んだ体勢から安室さんへ振り返ろうとして、ピシリと固まる。……待てよ、監視カメラが仕掛けられていたということは、一昨日のわたしも映ってしまっているのでは。下手すると安室さんにもバレてるかも。
 おそるおそる振り返る、と、安室さんはきょとんと目を丸くしていた。気付いてない!歓喜したのも束の間、彼は表情を一転させ、よりにもよって不敵に笑ったのだった。


「……あ、あはは」
「助手として調査するときは事前に相談すること」
「は、はい。すみません」


 恐縮してしまう。昨日の午前中に安室さんから唐突にメッセージが来たの、もしかしたら安否確認だったのかも。今になってようやく気付いた。どうりで、珍しく安室さんから始まったと思ったら二往復で返信が途絶えたわけだ。心配してもらえて嬉しいけれども。


「そうだ。五月前半のシフトが出ていたよ」


 話題を変えてくれた安室さんがキッチンの棚からシフト表のクリアホルダーを取り出す。そういえばもう二十三日だから、来週には五月になる。大型連休もあるし忙しくなりそうだ。歩み寄り、お礼を言ってファイルを受け取って開く。
「ありがとうございました」安室さんの声掛けに反射的に店内へ顔を上げると、一組のお客さんが席を立ち上がっていた。いち早く気付いた安室さんがレジへ移動する。わたしのほうが近かったのに申し訳ないな。思いながら、テーブルを片付けようとフロアに出る。
 トレンチにグラスを乗せ、テーブルを拭いて戻る。シフト、軽く確認だけしちゃおう。グラスを流しに置き、ぱらぱらと五月のページを開く。


「来週はあまりシフトに入れなくてすまない。負担かけるよ」


 会計を終えお客さんを見送った安室さんはレジに立ったままそう伝えた。たしかに、来週の四月末から五月の頭は安室さんのシフト表に空白が目立っている。でもだからといって負担だなんて思わない。むしろ普段のわたしのほうが少ないよ。


「全然ですよ!わたしもちゃんと休みますし!」
「そう。無理はするなよ」
「はい!あ、休みが被るときありますかね?時間が合えばデートしましょうよ!」
「しないかな」


 シフトを見比べる前に一刀両断される。もはや予想通りとすら思える切り返しにがっかりなんてしない。あは、と肩の力が抜け笑ってしまう。
 クリアホルダーを閉じ、抱きかかえる。進展がなくたって脈がなくたって、いいんだよ。それが他の人に目が行く理由にならないよ。


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