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 登校前のコナンくんがポアロへ来店した理由は崩れたケーキの調査だったらしい。帝丹小学校指定のリュックをカウンター席のイスの背もたれにかけて座った彼は、ポケットから携帯を取り出し何度か操作をすると横向きに持ち替えた。画面が暗く、カウンターの内側からではよく見えない。彼の捜査の進捗状況には興味があったため、お客さんが彼以外にいないのをいいことにオレンジジュースをサーブした流れで隣に座らせてもらうことにした。
 手中の画面に何が映っているのか。覗き込み、理解した途端、思わず目を丸くしてしまう。


「え?外から店の中を撮ってたの?」
「うん。一昨日の閉店後から今朝まで」


 そこには外からポアロの入り口とガラス窓を映した映像が流れていた。夜間の時間帯らしく店内は照明が消えており、店に面した歩道にも人影はなくほとんど動きがないため、一見すると写真のようにも見えた。しかし右下に表示されている[4/21]と、日付が変わる直前の時刻が一秒ごとに刻まれていることからそれは否定された。斜め上からの画角的に、街頭に設置されているのだろうか。 「だって、ストッカーが壊れてないのにケーキが崩れるなんて気になるし」彼の探究心と行動力には素直に感心させられる。子供らしいといえばらしいのか、それにしては発想と手段が歳相応とは言い難い。


「君は興味を持ったら、どんなことでも調べるんだね」
「……ていうか、安室さんのケーキを楽しみにしている、あいつらが悲しむからさ」


それが君の行動原理なのか。「ふうん。君は大切な人のためならどんな捜査でもするんだ」確認するように口にすると、コナンくんは肯定はせず、不思議そうにこちらを見上げた。


「で、二晩見張った結果は?」
「あ……うーん、特に不審な点はないみたい」


 等倍速で流れる映像に目を落とすコナンくん。もしやと思ったがそう簡単に原因が映ることはないらしい。それに、これが昨晩の映像であればますます期待は低かった。


「はい、どうぞ」


 カウンター内にいた梓さんがコナンくんの前にケーキを差し出す。昨日作ったままの形を保ったそれは通常通りお客さんに提供する予定だった。「あれ?崩れてない」どうやら毎日崩れていると思っていたコナンくんの問いに、型崩れするのは三日に二回くらいの割合だと梓さんが答える。
 二人とやりとりを耳に、無言で監視カメラの映像を見つめる。僕の得ている情報を共有するか否か、思案したのち、まだいいだろうと判断する。引き続き彼の捜査能力を見たいがためだった。

 昨日、と入れ替わりで仕事を上がったあと、マスターに許可を得て防犯カメラを確認した。初めて崩れた日から毎晩、閉店から開店までの店内の映像を見ていたところ、興味深いものが映っていた。と話した通り照明は消え光源がない環境での映像ではあったが、深夜の暗闇の中、唐突に小さい何かが光り始めた。日が当たっている時間の映像と照らし合わせたところ、それが電気ポットの温度設定画面だということがわかった。どうやら電気ポットの電源が入ったらしい。それからしばらくすると、映像に違和感が出てくる。窓ガラスから入る街灯のわずかな明かりを頼りに、店内がうっすらと曇っていることを察すれば、電気ポットのお湯が沸いた結果の水蒸気だということまでわかった。となれば、ストッカーの中でケーキが型崩れを起こす原因にもおのずと辿り着く。
 僕にはあと一つ、「なぜ電気ポットの電源が入ったのか」という謎だけが残っている。まさか梓さんが故意に操作しているとは思えない。考え得る可能性はいくつか思いついたものの、決定的な証拠を掴むための調査をする気は起きなかった。掴むにはそれこそ張り込みなり聞き込みなりをする必要があるだろう。だが今回、それは僕の仕事ではない。二日前、少年探偵団の子供たちを宥めすかせる江戸川コナンを見て予感していたことだ。
 その判断は正しかった。目の前では、彼が今まさに真相解明に動いている。かねてから気になっていた彼の捜査能力を窺い知る絶好のチャンスだった。再び監視映像に目を落としたコナンくんを一瞥する。


「……あれ?さん?」
「え?」


 コナンくんの口から出てきた名前に耳を疑う。咄嗟に、彼の視線の先を見遣る。先ほどと変わらず暗い画面。そこに、人の後ろ姿が映っていた。
 思わず目を瞠っていた。コナンくんの言う通り、その人物はで間違いなかった。昨日ポアロで顔を合わせた彼女の服装とも一致している。右下の時刻を確認するも、やはり深夜0時前の数字が表示されている。……自分の表情が歪むのがわかる。


「わ、本当にちゃんだわ。忘れ物かしら」
「こんな時間にわざわざ…?取りに来るかなあ」
「……」


 カウンターから覗き込む梓さんとコナンくんに目もくれず、画面の中のを凝視する。昨日彼女はマスターとクローズまでシフトが入っていた。が、閉店時間からかなり経っている。さっきまで照明が消えていたことから、今しがた仕事が終わったのではないことは明白だ。そもそもは店の鍵を持っていないから戸締りができないはずだ。近くにマスターの姿も見えない。つまり、は今、外から現れた。
 は店の扉の前に立ち、はめ込まれたガラスから真っ暗な店内を覗き込んでいた。数分の間角度を変えながら同じことを繰り返していた彼女はやがて窓から顔を離すと、辺りをきょろきょろ見回し、左手首の腕時計に目を落とした。それからもう一度覗き込んだのを最後に、その場を離れていく。以降は、先ほどと変わらない写真じみた映像に戻ったようだった。試しにコナンくんが早送りをしてみるも、夜明けまでの姿が映ることはなかった。


「帰ったみたいだね」
「そうね……」


 二人のやりとりに入る気にはなれなかった。思わず苦い声を漏らしそうになり、ぎりぎりのところで飲み込む。代わりに深い溜め息をつくと、全身の力が抜けていくようだった。まるで息を止めていたかのような疲労感が押し寄せる。
 何をしていたんだあの子は。完全に不審者だぞ。心の中で悪態をつきたくなるも、彼女が何を考えそこにいたのか、わかりたくなくても察してしまう。頬杖をついた手で口を隠す。自然と細まる目で誰もいない映像を眺めていた。


「びっくりした。ちゃん、昨日ずっといたんじゃないかと思っちゃった」


 梓さんが困り笑いで肩をすくめたのにも反応することができなかった。「さすがに違うみたいだね」コナンくんがそう返し、僕を横目で見上げてようやく、「呆れ」を表す表情を作ることができた。
 には昨日の帰りがけに、防犯カメラに犯人は映っていなかったと伝えた。擬人法を使うならば電気ポットと言えないこともなかったが、先ほども言った通り今回の真相解明に当たる江戸川コナンの実力を知りたかったため、僕は何も気がついていない体でいたかった。は残念そうに肩を落としていたが、予想できていたのかすぐに気を取り直し、「わたしも考えてみます」と腰に手を当てていた。
 考えた結果がこれになるのか。頭が痛くなるのも無理ないだろう。僕が原因に気付かないふりをすることとが危険を冒すことは話が別だ。終電に間に合うぎりぎりの時間に一度覗いたところで意味なんてないぞ。しかも昨日は電気ポットが作動していない。……運の悪さは相変わらずだな……。


さんも気になってたんじゃないかなあ、安室さんのケーキが崩れちゃうこと」
「だとしても、女性が深夜に一人で出歩くなんて危険だよ」
「そうですよね…。あ、少年探偵団のみんなはやってないわよね?」
「大丈夫だよ。何もしてないって」


 と、出勤したマスターが従業員用の出入り口から姿を見せた。コナンくんにいらっしゃいと声をかけた彼に梓さんが昨日のことを問うと、案の定にケーキが崩れる原因を調べるため張り込みたいから鍵を預からせてもらえないか打診されたらしい。しかし、アルバイトにそんなことはさせられない、と防犯上の意味合いも含めて断ったそうだ。は店内で張り込もうと考えていたようだが、断られた以上外で見張る方向に思考が移ったのだろう。一度店内を覗いて引き上げただけまだましか。


「今日もケーキ崩れてた?」
「いえ、大丈夫でした」
「そっか。よかった」


 マスターと梓さんのやりとりの間、コナンくんが映像の再生を止めたのを視界の隅で見とめる。そろそろ登校の時間か、と店内の壁時計を一瞥し、自分も席を立つ。念のためには無事に帰ったか確認を入れておこうか。ポケットの中の携帯の存在を確かめ、つい小さく息を吐いてしまう。
 がそこまでする必要はない。誰も頼んでなんかいない。この件に関して、僕は別の解決策を講じている最中だ。江戸川コナンも程なく真相を突き止めるだろう。だから君は、僕のために危険なことをしなくていいんだ。
 諦めさせるための肝心な情報を隠しているせいで言えない。も納得なんてしないだろう。僕の虚勢や諦念だと思われて、余計張り切らせてしまいかねない。


「安室さん、さんが危ないことをするのは嫌だよね」
「ああ。に限った話じゃないけれどね」


 見上げるコナンくんに答えながら、彼の手元にあるフォークとケーキを見下ろす。マスターには昨日、防犯カメラを確認する許可を得た際、次に型崩れしたらしばらくケーキの販売をやめようと進言されていた。それをは知っているだろうか。先ほどコナンくんが言ったことは、きっと間違ってはいないのだろう。彼女も彼女なりの行動原理の元、原因究明に役立とうとした。も、知りたいことのために無茶をする子なのだろう。それを完全に止めることは、おそらく僕には、いや、僕だからこそできない。
 依然こちらを見上げるコナンくんと視線を合わせる。レンズ越しに、僕の一挙手一投足も見逃さない、冴えた瞳と合う。


「安室さんとさんって、付き合ってるの?」
とはそういう関係じゃないよ。知っているだろう?助手だって」


 以前も誰かに聞かれた問いかけには流暢に台詞が出た。虚こそ衝かれたが、否定の言葉なら簡単に吐くことができた。君が推察するような関係じゃない。あの子にはずっとわかりやすい場所にいてもらっている。そこから動かすことはない。
「だって安室さん、探偵じゃないじゃない。探偵の安室透がいないのだから、助手という席も存在してないのと同じだ」そう言うコナンくんの声が聞こえた。一瞬、胸を小突かれたような衝撃を受ける。平静を努めながら、彼を見据える。じ、と見上げられていると、自然と自嘲めいた笑みがこぼれた。小さく息を吐き出す。
 コナンくんには、僕らがごっこ遊びをしているように見えているのかもしれないな。――でも。


「それに、僕はあの子だけのためには何もしないから、きっと唯一の存在にはできないよ」


 実際のところコナンくんの口は閉じたまま動いてなどいなかったので、僕の錯覚だったのだろう。彼はほんの少し眉をひそめたと思ったら、今度こそ口を開いた。


「じゃあ、安室さん――」


 しかし言葉は続くことなく、何でもない、と飲み込まれる。僕の方も追及せず、そろそろ仕事に戻らないとねと席を離れた。エプロンのシワを伸ばしながらカウンターへ戻る。

 といると穏やかな気持ちになれる。彼女と時を共にすることは、僕にとってきっと幸福なことなのだろう。昨日、カウンター席に座ると過ごした時間を思い出すと、深く落ち着くことができた。もそうであったらいいと、心から思う。


「わたし、今日ついてなかったんですね……安室さんの言った通りでした」


 貸しスタジオで起きた殺人事件に巻き込まれたは自分を不運だと自虐していた。あのときなぜ僕は傷ついたのだろう。の心がかげる。僕以外の理由で。そう考えたら、どうしようもない後悔に襲われた。

 僕は君の不運の責任を取りたいなどと思っている。どうして。「特別だから」では決してないのに。

 君に言ってあげたくて、結局言えなかったことがある。
「これからたくさん、君の心を動かすことが起こる。その度、いいことや悪いことで頭をいっぱいにするだろう。今日、君が傷ついたことを、大きな流れの一部だと思える日が来る。忘れなくていい。けれど、君のつらい気持ちを包んで、心を軽くしてくれる出来事も、間違いなくあるから」

 それが僕だったらいいけれど、でも違うんだろうな。


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