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 ポアロの扉を開けた瞬間目に飛び込んできたブラックボードに思わず口を開けてしまう。


「いらっしゃいませ」


 わたしに気付いた安室さんがカウンターから声をかけてくれる。ハッと我に返り顔を上げると、愛想とは違う「また来たんだな」と言外に伝える呆れたような笑顔を向けていた。わたしも肩をすくめて会釈で応え、それからもう一度ブラックボードへ目を落とす。
「空いているお席へどうぞ」安室さんの声に促され店内を見渡すと、お客さんは窓際のソファ席で本を読みながらコーヒーを嗜むおじいさん一人だけだった。平日のこの時間だと稀にある光景だ。いいタイミングだったと自分を褒めながら、従業員入り口に一番近い奥のカウンター席へ腰を下ろす。


「ご注文は?」
「アイスティーお願いします!」
「かしこまりました」


 カウンター越しに立つ黒色のエプロンを身につけた安室さんが恭しく応える。一挙一動が絵になる姿についはにかんでしまうよ。初めてお客さんとして来てからしばしば同じシチュエーションを体験しているのだけれど、店員の安室さんにお客さんとして接されるのは一向に慣れずむずかゆい。安室さんの丁寧な対応、本当にかっこいいよなあ……。こりゃー女の人が安室さんの出勤を狙って来店するのも頷けてしまう。わたしもこれまでの経緯がなければそうしていたでしょうよ。今みたいに自宅を突き止めるまでできたかな、安室さんは車で通勤してるから追いかけるのは難しいかもしれない。タクシーを捕まえないといけないな。この通りを走るそれを見かけたことはあるから、やろうと思えばできなくもない。白のRX7を指さして、前の車を追ってください!って、ドラマみたいなことをするのだ。ちょっと楽しいかもしれない。
 頬杖をつき、安室さんの後ろ姿を眺めながらそんな妄想をする。と、あることを思い出し、ハッと背筋を伸ばす。


「安室さん!ケーキ今日もだめだったんですか…?!」


 先ほど入り口で見たブラックボードのお知らせだ。[ポアロ特製ケーキ本日売り切れ 本当にすみません]安室さんが作った特製ケーキ。一ヶ月くらい前から登場し、瞬く間にポアロの人気メニューに仲間入りしたデザートだ。背を向けてアイスティーを用意している最中だった安室さんは、ああ、と反応を示すと、振り返りカウンター越しにテーブルにグラスを置いた。


「前と同じで、ストッカーの中で型崩れしていたんだ」
「ええ?もう二回目ですよね…?」


 実はブラックボードの文面を見たのはこれが初めてではなく、三日前のシフトのときにも掲げられていた。あの日もわたしは夕方からの出勤だったため直接現場を見てはいないのだけれど、なんでも開店前に電気ポットの隣に置いてあるストッカーを確認したところ、昨晩作って保存しておいた安室さんのケーキが、ホイップクリームやストロベリーソースがどろどろに溶けた状態で冷やされていたのだそうだ。閉店前に入れたときは問題なく、翌朝のストッカーの中も冷えていたため、閉店後の夜から朝かけて何かが起きたことは明白だった。「昨日もだったから、正確には三回目だな」安室さんはそう付け加え、何となしに問題のストッカーを横目で見やった。
 その姿に、無意識に顎を引いていた。前回もだったけれど、作った本人にさほど惜しんでいる様子が見受けられない。気になるものの、見栄えが悪くなったせいでお客さんに出せなくなったホールケーキを想像するととても残念に思ってしまう。


「やっぱりストッカーの故障ですよ…!修理に出しましょうよ!」
「昨日業者に見てもらったけど、異常はないって」
「ないんですか?!」


 そんなバカな、ストッカーの故障じゃなくて一体なんだというんだ。機器が原因だとばかり疑っていたので否定されてしまうと他に打開策が浮かばない。考えるものの手持ち無沙汰が気になってしまい、アイスティーを両手で包み込む。もしかして、誰かがいたずらしたのか…?でも崩れたケーキの味はほとんど変わってないのに……。
 数秒思考を巡らせたのち、あっと思いつき、安室さんを見上げる。カウンター越しにわたしを見下ろしていた彼が小さく首を傾げたのを目に、アイスティーから離した冷えた手で自分の口を覆い小声で問う。


「じゃあ、ケーキ食べられますか?」
「ああ。残してあるよ」


 安室さんが肩をすくめて笑う。毎日たくさんの注文を受けて売り切れてしまうケーキでも、溶けて崩れてしまってはお客さんに出せない。本来なら廃棄されてしまうのだけれど、事情を知っている従業員であればもらうことができるのだ。廃棄物を減らすための苦肉の策ではあるものの、安室さん特製のとてもおいしいケーキを食べることができるのは、不謹慎ながら役得だった。
 安室さんは窓際の席のおじいさんを一瞥したあと、ストッカーから取り出したケーキをお皿に乗せ、そっとテーブルに置いてくれた。「ありがとうございます!」ひそめた声でお礼を述べ受け取る。前に食べたときと同じように、ホイップクリームとストロベリーソースが崩れてしまっていて、商品としては出せそうにもない。いただきますと小声で唱え、冷えたフォークで一口サイズに切って頬張る。味は変わらず格別だ。何度食べても絶妙な甘酸っぱいおいしさに唸ってしまう。
 安室さんは珍しく手持ち無沙汰のようで、ケーキを出してくれたあとは前屈みにカウンターに寄りかかったまま頬杖をつき、食べるわたしを見ているみたいだった。二口目を頬張りながら見上げると目が合う。にこりと微笑む彼の表情は優しくて、どこか楽しげでもあった。穏やかな春の陽気が差し込む静かな店内の雰囲気も合わさって、なんだか無性に、幸せだなあと思わせた。こんなひとときが永遠に続いたらいいのになあ。
 なんだか泣きそうになってしまって、誤魔化すようにごくんと飲み込んで、ケーキに目を落とす。可哀想なくらい、溶けて崩れてしまっている。


「でも、どうして溶けちゃったんでしょう」
「昨日来た毛利先生は、作り方が悪いんじゃないかっておっしゃっていたな」
「作り方……変えたんですか?」
「いいや?」
「じゃあ違いますよー」


 はっきり否定すると、安室さんはゆっくりと、目を閉じるように柔らかく笑った。
 安室さんはそれから、昨日の出来事を話してくれた。朝、ケーキが崩れていたのが発覚した際、毛利さん一家が来店していたこと。ストッカーの修理に業者を呼んだものの、異常が見つからなかったこと。少年探偵団がやってきて、近くの商店街にあるケーキ屋さんに安室さんのケーキと似た商品が売られており、盗作かどうかみんなで実際に食べて確認したこと。安室さんのケーキをどうしても食べたい少年探偵団が、犯人を突き止めるため夜中にポアロに張り込もうとしたこと。危ないから止めると、コナンくんに監視カメラを設置してもいいか問われたこと。
「まあ、張り込みも監視カメラも止めたけれどね」安室さんはカウンターで頬杖をつきながらそう締めた。聞いているだけで昨日シフトに入っていなかったことを悔やみたくなるくらい楽しいことが起きていたらしい。どれもこれも安室さんのケーキが溶けた事件が発端なので、正直にうらやましいと言うのははばかられるけれど。


「そんなことがあったんですね……張り込みとか監視カメラとか、さすがは少年探偵団って感じですね!」
「そうだな。本当にやりそうで少し不安だったよ」


 思い出したように苦笑いする安室さんに笑って応える。少年探偵団という名前は伊達じゃなく、彼らは何度も事件解決の大手柄を立ててきたと聞いたことがある。それに探偵バッジなんていう高性能な通信機器やライトにもなる腕時計を持っていて、なんだか本格的で羨ましい。作っているのは阿笠博士という発明家だというのだからますます面白い。
 少年探偵団が一生懸命になるのもわかるよ。このままだといつ安室さんのケーキを安定して食べられるかわかったものじゃない。ストッカーが悪いんじゃなかったら、他に何があるんだろう。勝手にコンセントが抜けちゃうとか?でも、朝来たら動いていて、中もしっかり冷えている。故障や不具合でないのなら、やっぱり人為的なものだろうか。うーん、と顎に手を当て天井を仰ぐ。
 ふと、視界の隅にあるものが映った。思わず、あっと指を差す。


「防犯カメラ!見てみません?!犯人が映ってるかも!」
「ああ……でも、閉店後は照明がないから、何も映らないと思うよ」
「あ、そうですよね…」


 浅はかだった。安室さんの言う通りだ。入り口の天井から店内全体を映す防犯カメラは、他の明かりがないと何も映してくれない。外の街頭だけじゃ心許ないだろう。


「でも、上がる前にマスターに頼んでカメラを確認してみるよ。ダメ元だけどね」
「ほんとですか!犯人が映ってたら教えてください!」
「ああ」


 頷く安室さんにほっと肩の力が抜ける。そういえば、前に安室さんがギターを披露した様子を防犯カメラで見ようとしたんだっけ。でもなんだか不謹慎な気がして、結局マスターには言い出せなかった。
 カランとベルが鳴る。来店したお客さんに安室さんが声をかける。歓談は終わりだ。わたしもあと三十分でシフトの時間になる。ケーキがお客さんの目に留まるとひんしゅくだから、早く食べてしまわなければ。フォークで一口大に切り、口に入れる。もぐもぐと咀嚼しながら、三分の一ほどになったケーキをじっと見つめる。

 ……今日、張り込もうかな?!

 他人の作戦だから偉そうなことは言えないけれど、確かに名案だった。明日の大学はお昼からだし、バイトもない。子どもたちは危ないけれど、大人のわたしなら大丈夫だと思う。というか、お店の中で張り込んだらいいじゃないか。わあ、ちょっと楽しみだ。朝までの長丁場になるから、シフトが終わったらコンビニで食べ物を買い込んでおこう。思いつくと一人勝手にわくわくして、得意げに腕を組んでしまう。
 あとでマスターに鍵を借りられるか相談してみよう。普段鍵を持つことがないから事情を話さないといけないな。……貸せないって言われたらどうしよう。明日も朝からシフトに入ってる安室さんから鍵を預かれないかな。でも安室さんにも止められそうだなあ……。容易に想像でき、一人渋面になってしまう。


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