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 四限終了の鐘に操られるかの如く教室を出て行った教授を横目にシャープペンシルや消しゴムを筆箱にしまう。散らかした覚えはないのに確かに自分で使った赤と青のボールペンが隣の空席にまで遠出しているのを見つけ、いけない、と自省し手を伸ばす。滅多に選ぶことはないけれど、教壇目の前の最前列はわたしと友人しか座っていないため、贅沢にスペースを使ってしまいがちだ。
「これからバイトだっけ」隣の友達が問う。片付けは済んだらしく、座ったまま肩に茶色のバッグをかけ、携帯をいじっている。ほとんど反射的にうんと頷いて、筆箱とルーズリーフのバインダーをカバンにしまう。一瞬、あ、と手を止め、逡巡して、まあいいかと再開させる。間違ってはないけど、語弊はちょっとあった。


「そうだ、今度飲み会するから来て!米花大学の演劇サークルの人に誘われてるんだ」
「合コンならやだよー…」
「合コンじゃないよ。向こう、女子もいるし」


 友達が軽快にケラケラと笑うので、ついつられて苦笑いをしてしまう。社交的な友達は近頃他大生との合コンをセッティングすることにハマっているらしく、講義で顔を合わせるたび何かしらの飲み会に誘ってくれるのだ。厚意だとは重々承知しているものの、空想上の合コンにいい印象がないため乗ったことは一度もない。にもかかわらず諦めることなく声をかけてくれるので、ありがたいような申し訳ないような、複雑な胸中だ。「合コンも女子はいるじゃん…」気乗りしていないことが伝わるだろう声音で返すも、ほんとなんでそんな毛嫌いしてるの、と肩をすくめられる。


「男とか女とか関係なく、知らない人と話すのって楽しくない?知らない分野の話聞くと、なんか賢くなれた気がして」
「どうしても合コンというものに苦手意識が…」
「言っとくけど浮気にならないからね?ていうかべつに、心に決めた人と進展ないんでしょ?」
「?!」


 ぎょっと肩が跳ねる。彼女は相変わらず携帯を片手に背もたれに寄りかかっていて、話し相手のわたしが驚愕していることに気付いてようやく、ん?と首を傾げた。
 友達には、バイト先に心に決めた人がいるとだけ伝えてある。安室さんのことは、助手になった頃は探偵という職業についてどこまで話していいものなのかわからず誰にも言っていなかったし、そういう特殊な職種の人だからプライベートな話も特にしてない。だからそもそも進展の有無だって、一言も話したことはないのに。


「そんなこと……」
「だってがデートしてる感じないし。彼氏できたか聞いてもいないって言うし。でもバイトに行くのはずっと楽しそうだよね」


 それはその通りで、無意識に顎を引いていた。「片想いが楽しいのわかるよ。でもたまには他にも目を向けてみようよ。演劇サークルの話って面白そうじゃない?」ほら、と携帯の画面を向ける彼女。そこには彼女本人と、四人の大学生の男女が映る写真が表示されていた。


「ちなみにこの人とこの人は付き合ってるらしいよ」
「へ、へえ…」


 人差し指の先を目で追う。カップルも来るのか。それなら、まあ、いいかもしれないな……。まじまじと写真を見つめる。友達の肩を抱いてピースしている男の人が見るからに軽そうで気になるけれど、彼女の言う通り知らないことを知るのは楽しい。演劇サークルはうちの大学にないから、どんな活動をしているのか聞いてみたい気もする。なるほど、合コンだと穿って聞いてしまったのは悪かったかもしれない。今まで素っ気なくして申し訳なかったなあ。「前向きに考えてみるよ」目を見て答えると、彼女はやったと嬉しそうにガッツポーズを作った。


「話聞いてみたいだけだからね、やましい気持ちはこれっぽっちも…!」
「大丈夫大丈夫!心に決めた人もが知らない男と会ってたって気にしないって!」
「失礼な!」


 あははと笑いながら席を立つ彼女に、まったくと憤慨しつつ同じ動作をする。「あ、でも今向こう忙しいんだっけな」彼女の呟きにへえ、と相槌をうち、カバンを肩にかける。五限の学生が教室に入ってくる中流れに逆らうように廊下へ出ると、階段教室の熱気がなくなったせいかちょうどいい室温に安堵した。彼女は六限があるので大学近くで時間を潰すらしい。校舎前でばいばいと手を振って別れ、一人校門へと向かう。
 本当はわたしもバイトまで時間があったので、一緒に過ごすという選択肢もあった。けれど、今日は朝起きてからずっと、ポアロへお客さんとして行こうと決めていたので言わなかった。ちょうど安室さんと入れ替わるシフトなので少しでも話したかったのだ。


「……」


 歩きながら、ついさっき友達に言われたことを思い出し、俯いてしまう。そりゃー安室さん、わたしが誰と会おうが気にしないでしょうよ。でも、そんなことないって言い張っていたい。
 最近は否定したい現実ばかりだ。わたしの人生、そんなにうまく行ってないのか。全然自覚なかった。でも何をもってうまく行っていると感じるかは人それぞれだから、他人の芝が青く見えているだけで、本人からしたらよくないなあと思うものなのかもしれない。知見が広く、社交的で、相手を嫌な気分にさせない、見事に素敵な人だって、誰も知らないだけで、自分の人生に思いを馳せては、後悔とか罪悪感を感じながら、うまく行かないなあと感じているのかもしれない。

 えっ、と立ち止まってしまう。安室さんがそんなこと思ってたら悲しいな?!それこそ、そんなことないですよって言いたくなる。安室さんの言うことを否定したくはないけれど、安室さんが自分を責めることがあるのなら、その拳を振り解いて、両手で包み込みたい。
 こんなことを思うのは、わたしが安室さんを心に決めていて、安室さんがときどき、現在に覚束ない表情をし、それを他でもない自分が目の当たりにしたことがあるからに他ならない。
 普段の安室さんは、しっかりしていて強い人だけれど。きっとこの世の誉め言葉のほとんどが彼に当てはまるよ。だから何事にも自由で豊かでいてほしいのに、少しもそう見えないのが、無性に歯がゆく思ってしまうのだ。


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