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「え?!そっくりさん?!」


 脳天から出たような声に、梓さんは困り顔で「園子ちゃんと一緒の反応」と肩をすくめた。

 翌日、ランチの時間が終わる頃に出勤したわたしを、梓さんと安室さんは笑顔で迎えてくれた。まるで何事もなかったかのような二人に、朝起きた瞬間から散々心構えをして臨んだわたしは拍子抜けしてしまった。まさかと思いながら、なるべく意識しないようピークのポアロの切り盛りに務め、客足が落ち着いてきた頃すかさず梓さんに切り出したのだった。

 安室さんの言ったことは本当だった。昨日、東都ホールにやってきたのは梓さんではなかった。本物の彼女は、その時間ポアロでまじめに働いており、マスターも証人になるという。それに、彼女はグレーのワンピースなんて持っていないし、波土さんのことも有名な曲をいくつか知っている程度で、特別ファンじゃなかったそうだ。
 不思議よね、と頬に手を当てる梓さんは、お昼頃にも同じ話を蘭ちゃんや園子ちゃんたちとしたらしい。ぽかんと間抜けた口が塞がらない。昨日の車中で安室さんが疑念を口にしたときですらそんなばかなと思っていたので、梓さん本人から否定されてもにわかに信じがたかった。だってあの人、どこからどう見ても梓さんだったよ。


「それに、昨日のって安室さんが来ることをちゃんに内緒にして驚かせようって作戦だったのよね?知ってて先に安室さんと合流なんてしないわよ…!」


「あ、梓さん〜…!」力のこもった主張に感激して思わず手を組む。なんて説得力があるんだ!もう絶対信じた!むしろ疑って本当に申し訳ない。偽物にまんまと騙されて、梓さんごめんなさい…!
 本当に、あの人は梓さんじゃなかったんだ。言われてみればたしかに、梓さんがロックミュージックを好むなんて聞いたことがないもの。まあ、それをいうなら、安室さんが波土さんのファンだというのも初耳だったのだけれど。わたしたち、和気あいあいと働いていると思ってるけれど、お互いのプライベートについてはあんまり自信がない。成りすましなんて事件があったことだし、もっと知り合いたいって思うよ。「その作戦で驚かされたのはだけじゃなかったんですが…」苦笑いをこぼす安室さんは、カウンターの一番奥でお皿を拭いている。いけない、手持ち無沙汰だ。わたしも食器を片付けよう。

 スイングドアに一番近かった梓さんが、店の裏口からマスターに呼ばれて出て行く。今日の彼女は、わたしが今まで見てきた彼女と同じだった。笑顔が素敵な頼れるお姉さんの印象のまま、大好きだった。安心して、嬉しくて、破顔してしまう。
 昨日、梓さんだと認識していた人は、そう言われると圧があったように思う。でも別人という前提で思い出してようやく気付くくらいだから、知らなければ梓さんとしてカウントしたままだっただろう。今思い出しても、別れ際抱きつかれたときに言われた台詞は、どう処理していいのかわからない。わからないまま、心においしくない黒い蜜がかかるように、どろっと侵食される感覚が拭えない。わたしも安室さんも知らない人なんだから気にしなければいいのに、どうしてか簡単には流せないから不思議だった。
 まとめると、昨日のそっくりさんはちょっと冷たかった、と思う。だからきっと、あの人が梓さんじゃないって気付ける部分は他にもたくさんあったんだろうな。


「昨日の梓さん、安室さんの言う通りでしたね、さすがです…」
「もっと早く気付けていたらよかったんだけどね」


 自省を口にする安室さんに首を横に振る。安室さんがぎりぎりまで気付かないほど似ていたのだ。しかも、たまたまそっくりだっただけじゃなく、梓さんに成りすましていた。その行動自体は不審だけれど、特に被害を受けたわけじゃないから目的はわからずじまいだった。「本当に、何もなくてよかったです」そういえば、安室さんは去り際の彼女がわたしに抱きついたとき、盗聴器か何かを仕掛けたんじゃないかと懸念したため、コインパーキングで身体検査を強行したのだそうだ。結局何も見つからず杞憂で済んだのはよかったけれど、安室さんの突飛な行動は今思い出しても恥ずかしくなってしまう。お皿を重ねながら、じわじわと首が熱くなるのを自覚する。


「く……車の前でのこと、安室さんじゃなかったらセクハラで訴えてますからね…!」
「ぜひそうしてくれ」


 小声で恨み言を唱えると、安室さんは苦笑いで頷いた。横目で盗み見、彼の力の抜けた目元を捉える。つい、顎を引く。
 安室さん、気のせいかな、昨日ホールにいたときより表情が多いように見える。思い返すと、昨日の彼は険しい表情ばかりだった。今みたいに安心したような笑顔は見られなかった。きっと、事件が起きたり沖矢さんに身分を隠さないといけなかったりで、色々な気苦労があったせいだろう。
 今日の安室さんを見ていて無性にほっとするのは、わたしの勝手な独占欲とか、嫉妬心のせいだろうか。そうかもしれない。昨日のことを思い出すと、見えない炎で足の裏をジリジリと灼かれる感覚に襲われるのだ。


「それにしても安室さん、なんで梓さんと……別人でしたけど、あんなに仲睦まじそうだったんですか?!」
「睦まじくはなかっただろう」
「腕組んでたくせに…!前にわたしが組んだら本気で振り払ったくせに!」


 ミステリートレインでの話だ。園子ちゃんと初めて会ったあの日、彼女が安室さんにいい顔をしていた気がしたので対抗すべく割り込んだ。その際安室さんの腕を抱き込んだら、まじめなトーンで迷惑がられたのだ。あれ、わたし結構ショックだったんだよ。
 安室さんもしっかり覚えているらしく、「あったなあ」と口を開けて笑っている。今は鬱陶しがっていなさそうだからよかった。けれど、それとこれとは話が別だろう。ステージのソデで言われたことを思い出すと、自然と表情は歪み、バツが悪くなって、俯いてしまう。


「それに、まるで梓さんに気があるように聞こえましたし…」
「はは」


 え、否定しないの?!ぎょっと顔を上げ凝視してしまう。安室さん、今までこういう恋愛話には呆れた反応しかしてこなかったのに。信じられず彼から目を逸らせない。
 そういえばわたしも、安室さんと梓さんの美男美女カップルの誕生を懸念してポアロに乗り込んだけれど、その話を具体的に二人にしたことはなかったかも。だから、もしかしたら安室さんは、最初から梓さんをいいなと思っていたのかもしれない。
 完全に手が停止する。呆然と、してしまう。自分の能天気さが本当に嫌だ。もっと早くから聞いておくべきだったのに。

 男性のお客さんが席を立ったので、レジに近い安室さんが会計をする。この道十年のベテランさんのように手際よくお釣りを渡し終え、ありがとうございましたと見送る。わたしもあいさつを反復する。
 レジスターを閉め、こちらを振り向く。よっぽど変な顔をしていたのか、安室さんは目が合って三度ほど瞬きをすると、ふっと眉尻を下げるように笑った。


「信用ないなあ」
「ぐ……そう言われると弱いです!」


 思わずぎゅっと目を瞑る。その台詞はずるい!わたしは安室さんを信用してるし、不誠実な人ではないと知っているから、自虐するようなことを言われたら責められなくなってしまう。わかってて言ってるのか、だとしたらたちが悪い。


「安室さんこそ、わたしが安室さんの何を信用してるかご存知――」
「、いらっしゃいませ」


 安室さんの背後で店のドアが開く。ベルと共に、来店したお客さんへ出迎えの声をかける安室さん。遮られた動揺でテンポよく声をかけることができず、タイミングを逃したわたしは黙ったまま、高校生くらいの女の子二人組がわっと歓喜するさまを目の当たりにしてしまう。


「やった…!」
「こんにちはー!」
「空いているお席へどうぞ」


 二人は密かにきゃっきゃっとはしゃいでいる様子で、見るからに安室さんと会えたことを喜んでいた。ポアロのイケメン店員こと安室さんを目当てにやってくるお客さんは大勢いるためもはや把握できていないけれど、なんとなく、見たことのある人たちな気がした。「注文お願いしまーす!」早速テーブル席から手を挙げた彼女たちの視線は明らかに安室さんに向けられており、わたしなど視界にも入っていなさそうだ。悔しいような、気持ちがわかるような、恋する乙女の胸中は複雑だ。だから、「はい。ただ今」気前よく応じる安室さんに行かないでと言いたくても、わたしにそれを言う資格はないのだと身にしみてしまう。
 このもどかしい感覚は、安室さんが不特定多数の人と関わる仕事をしている以上、避けて通れない道なんだろう。こっそり溜め息をついてしまう。仕方ない、早く食器の片付けを終わらせてしまおう。


「いらっしゃいませ」


 梓さんが戻ってきたようだ。裏口の扉から店内に入った彼女は、新しいお客さんと安室さんを目にするなり、ハッと顔を強張らせた。それから、こそこそとカウンターに戻ってくる。彼女らしかぬ不審な動きにわたしが目を丸くしていると、気付いた梓さんは困った様子で、バツの悪そうに肩をすくめた。


「実はね……こないだSNSで、わたしが安室さんに言い寄ってるって書き込みがあって、炎上しちゃったのよ……」
「えっ、そんなことがあったんですか?!大丈夫でした?!」
「ええ、まあ……直接被害があったわけじゃないからね」


 なんでも、幸い、翌日起きたとある芸能人の騒動のおかげで、騒いでいた人たちの間もその話題で持ちきりになり、すぐに鎮火したようだ。それでも気分が悪いことには変わりないだろう。やだなあ、だってそれ投稿したの、間違いなくポアロのお客さんなんでしょう。しかめ面のまま、横目で客席を見、声を潜める。


「もしかして、あの二人が…?」
「ううん、わからないけど…。書き込んだ人は女子高生みたいだったから、身構えちゃって」


 でもこんなことで仕事に支障きたしてちゃダメよね、ごめんなさい。眉をハの字にする梓さんに、そんなの仕方ないですよと両手を挙げる。そんな事件があったなんて全然知らなかった。SNSはやってるけど、ポアロ周辺のリサーチはしばらくしていない。炎上したっていうのはいつの話だろう。誰がそんなプライバシーのへったくれもないことを……。
 安室さんたちのほうを見遣る。女子高生二人は、注文をする傍ら安室さんとの会話を純粋に楽しんでいるようだった。雰囲気に悪い感情は見えない。年下の子たちというのもあって目くじらを立てて非難したくはないけれど、迷惑行為がSNS上じゃあ犯人が誰かなんて簡単に特定できないだろうし、しばらくはいろんな人を警戒してしまいそうだ。
 梓さんはそれから、わたしの後ろを通ってレジのほうへ移動した。売り上げの中間チェックかなと横目で見ていると、どうやら流しの横のケーキストッカーが目的だったらしく、腰を屈ませて開けていた。まだお話ししても邪魔にはならなさそう。


「梓さんがそんな風に言われるんだったら、下心あるわたしなんてもっとボロクソに言われてますよね、嫌だなあ」
「あ、ちゃんは…」


ケーキストッカーを一旦閉めた梓さんは、言い澱むように目を泳がせ、苦笑いで顎を引いた。


「どうせ相手にされてない、って…」
「されてますよ?!」


すかさず否定する。くそー、どこの誰だそんな失礼なこと言うの!俄然犯人を見つけたくなってきた。本当に探そうかな?!憤慨して辺りを見回す、前に、背後から低い声がかかる。


。声が大きい」


 バッと振り返る。カウンターの内側で、安室さんが呆れたようにこちらを見下ろしていた。戻ってきたの気付かなかった…。注意された言葉には素直に申し訳なく、恐縮してしまう。「す、すみません」そんなに大きな声だったつもりはないけれど、カウンター席の人にはうるさかったかもしれない。ちらりと目を遣ると、時間帯もあって席はすべて空いていた。よかったと息をつく。


「梓さん、ケーキ二つお願いします」
「はい」


 安室さんの指示に梓さんが流暢に応える。見れば、作業スペースにはすでにケーキ皿が並べられていた。そこでようやく、先ほどの彼女がオーダーを予想して安室さん特製ケーキの残りを確認していたことを察する。やばいと慌ててフォークやトレンチを用意することで仕事をした気になるも、至らなさは拭えない。つ、使えない奴……。
 安室さんが再度、アイスミルクティーとケーキを乗せたトレンチを女子高生のテーブルへ運ぶ。無力感と情けない気持ちで眺めていると、彼女たちが、ちらっとカウンターを見たのがわかった。
 それが、レジ打ちをする梓さんをうかがっているのだとわかった途端、カッと頬が熱くなった。――相手にされてない。見えない誰かに、ぼこぼこに打ちのめされた気分になる。自分がひどく惨めに思え、否定したくて、一人、口の中で呟く。


「されてますよ……」


 誰にも見えないようにエプロンの裾を握り締める。こんなの気にすることじゃない、頭の真ん中ではそう思っても、大人らしく受け流すことができない。だって、昨日の安室さんを思い出して、あながち見当はずれではないかもしれないと思ってしまっている。

 わたしは勝手に、昨日の梓さんが偽物とわかって、すべてがリセットされた気分になっていた。けれど、安室さんは梓さんと違って正真正銘の本物だったのだ。だから、安室さんが言った言葉もすべて本当だ。わたしは安室さんの何でもない。安室さんと梓さんがどうにかなってしまう可能性は、今だってまだ継続しているのだ。


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