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 日付も変わるこの時間では車の往来はほとんどない。オフィス街を離れ自宅へと帰る道のりで、僕は一人、心臓に溜まって消えない膿んだ感情の行き場を探していた。

 街灯を次々通り過ぎ、その都度変化する陰の動きを、何の感慨もなく視界に入れる。他人の気配のない車内は考え事にうってつけで、運転に割く意識の他はすべて思案に費やせてしまう。先ほど上への報告を終え、今日すべきことが完了したのもあり少し気が抜けているのかもしれない。余計、昨日の出来事が隙を縫うように眼前に現れる。後悔とも安堵ともつかない、やりきれない感情が、だんだんと人の形を象っていく。

 波土禄道のライブ会場に潜り込み、「ASACA」というタイトルの新曲を調べ問題があれば公になる前に潰す。ベルモットから聞かされた任務の内容は異色でこそあったものの、遂行は容易と思わせた。彼女まで梓さんに変装し現れることは予定していなかったが、いようがいまいが、調査結果を穏便に処理する算段はあった。沖矢昴の同席すら幸運でしかなく、奴の動向に注視することで尻尾を掴む手応えもあった。これらの結果に関しては概ね良好といえた。

 十字路に差し掛かり、ウインカーを出したのち左折する。この道を通るのは初めてでなく、以前にも別用で使ったことがあった。風景には時間帯の差こそあれ見覚えがある。対向車線にはどこまで進んでも車はなく、歩道を歩く人影もない。だからといって何をするでもなかったが、誰の目も気にしなくていいというのはいくらか気が楽だった。自然と、吐く息が深くなる。

 昨日の最大のイレギュラーは間違いなくの登場だった。彼女に呼び掛けられた瞬間の緊張は尋常じゃなかった。ベルモットが隣にいて、沖矢昴の存在を視認したあとでのそれだ。動揺は極力隠したつもりだが、事態が急速に悪化するのを感じていた。

 が来ることを仮に知っていたとして、ベルモットの行動を制限できる確実な理由はおそらく存在しない。沖矢昴は以ての外だ。しかし、二人が姿を現わすことを知らないまま、を止める選択が取れただろうか。今回の任務は、誰かの目を盗む手間があろうとも問題なく遂行できる見立てだった。むしろ自分以外の人間がいることで、手を回す際の目くらましにもなる。そう考え、彼女の参加を受け入れていただろう。つまり今回起きた三人の鉢合わせは、回避し得なかったことになる。


「……」


 眉をひそめ、小さく息をつく。本当に避けたいのなら、単に普段からを遠ざけていれば済む話なのだが。結局どこまでいこうがそこに帰結する。そばに置いておけば置くほど、は危険に晒され、僕は確実に彼女だけを傷つけてしまう。あの状況ではそうしなければならない。君の存在は僕にとって何の弱点にもならないと、目をつける価値のない人間だと、言外に示す行動を取らなくてはならなくなる。傍から見てもわかるよう態度に示すから、本人がショックを受けないわけがない。意図的に作ったナイフで君の心に傷をつける。君にも身に覚えがあるだろう。

 後悔をしているわけではない。そんな聞こえのいいものではない。だからといって自分は間違っていないと開き直れてもいない。哀れに思うのに救うための行動をしてやれず、これが最善なんだ、仕方がない、などと一ミリも思っていない建前を笠に着て、グズグズに膿んだ心のまま、目を瞠り今にも泣き出しそうなを見下ろしている。

 僕はいつかを失うときでさえこんな感情を抱くのだろうか。

 今日の休憩の際、には偽の梓さんとのやりとりを覚えている限りすべて話させた。本来であれば昨日のうちに聞き出し、必要に応じて対策を講じなければならなかった。手遅れになる危険性すらあったというのに、僕が彼女に探りを入れられたのは、あれが偽物だと判明し、「同じ手を食わないように」というもっともな理由を使えるようになってからだった。結果としてベルモットはを緊急の障害とは見なさなかったが、彼女の判断次第では最悪の事態を迎えていた。
 ――最悪の事態。想像するだけで一瞬、思考が停止してしまう。そうならないよう手を尽くしていたはずが、結局、の眼前に銃口が突きつけられている。それが彼女には見えていない。僕が見せないようにしている。

 沖矢昴に関しても同じだ。奴を警戒しろとはっきり言えないせいで、あの男の隣をが歩く、最悪なツーショットを目にする羽目になる。
 ハンドルを握る手に無意識に力が入る。歯を食いしばっていた。僕は、沖矢昴が赤井秀一だと今でも確信している。ベルモットがいる場では僕の正体までもが露呈される危険があったため追及しなかったにすぎない。つまり、が昨日親しそうに話していたのは赤井だ。
 を、あいつとだって関わらせたくなかった。近づくな。僕が自分の使命に巻き込むまいと遠ざけているのに、だって首を突っ込むまいとわきまえてくれているのに、よりにもよっておまえが引きずり込もうとするな。

 前方の赤信号で停車し、背もたれに身体を預ける。東都ホールのロビーへ二人が揃って戻ってきた、嫌な光景が脳裏に浮かぶ。
 ふと、馬鹿な想像をした。


「はっ……」


 つい笑い声が漏れた。笑った自分を客観的に見て、ますますおかしくなってしまう。誰に見られているわけでもないのに指の背で口元を隠し、くっくっと一人肩を震わせる。
 いっそ僕もみたいに二人の間に割り込んでやればよかったか。されたときには意識してなかったが、あれ、今思い出すと面白いな。ああいう嫉妬心は隠さないよな、あの子。
 大きく息を吐き出し、気分を落ち着かせる。右へ首をひねり目をやると、ドアガラスに写る自分と合う。本当に、馬鹿馬鹿しい。いよいよ諦念が目視できるようだ。

 ベルモットに僕との関係を探られ、赤井秀一に不要な接触を強いられる。こんなものは完全に自業自得だ。僕のせいでが可哀想でならない。

 ベルモットからの連絡はまだない。最終的に彼女はの存在をどう位置付けたのか。知りたいところではあるが、向こうから切り出さない限り僕からは触れられないだろう。間違っても僕の本心とやらが知られることになれば、確実にろくなことにならない。


「それで抱きつかれて、「何も知らないまま、小さなことで悩んでいたらいいわ」って。「幸せでいたいのならね」とも言われました」


 それは僕も望んでいることだけれど。
 だがは、いつまでも知らないままでいてくれるだろうか。


「それに、まるで梓さんに気があるように聞こえましたし…」


 そうだよ。そういう言い方をした。空気の読めない子じゃない、言いたいことがちゃんと伝わる。だからこそ、梓さんの偽物疑惑をすんなり受け入れられない昨日のに、彼女とのやりとりを聞き出すことができなかった。ホールで散々梓さんに気がありそうな発言をした手前、を勘繰るような探りを入れたら傷つけてしまうと思った。疑念もますます強まり、素直に話してくれていたか定かではない。
 を突き放すそぶりと、心を慮る言動。このまま矛盾した人間を演じ続けていたら、いつか自分のとるべき立ち位置がわからなくなる、と思うことがある。そういうときは決まって、脳が揺れ、ほんの一時、酩酊状態のように、どこに行けばいいのかわからない、迷子の気分になる。

 でも本心へと正すつもりはない。

 つくづく、自分がに対してどういう感情を持っているべきなのかわからない。僕にとって君がどんな存在ならば、君をそばに置きながら危険に晒す心配がなくなるのか。それさえわかれば即した対応ができる、してみせるのに、彼女を目の前にすると目が眩んでしまう。その他大勢と等しく扱いたいのに、まるで替えの効かない特別な存在のように大切にしてしまう。きっとこんなことを考えている時点で駄目なんだろう。


「……君を喜ばせようとしているわけじゃないよ」


 聞かれてもいないのに口にする。何度目かの自嘲の笑みが浮かんだ。

 危険だとわかっていてもをそばに置くため、囲い込むことで守っているつもりだった。その認識のなんと甘いことか。だからあんな光景を目の当たりにする。
 梓さんに扮したベルモットが、去り際にを抱き締める。僕には、が首を絞められているように見えた。


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