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 十七年前、円城さんは波土さんの子どもをお腹に宿していた。当時デビューしたてだった波土さんはそれを知り、生まれてくる子どものためといって日夜スタジオに籠り作曲活動を続けていたらしい。父親になることに対する期待か気負いか、彼は連日の徹夜で死んでしまいそうなほど自分を追い込んでいた。見かねた円城さんが彼を止めるべくスタジオに駆けつけるも、建物の前で倒れてしまい、お腹の子は流産となってしまった。病院のベッドの上で円城さんは、このことは波土さんに黙っていてくれと布施さんに頼んだのだそうだ。
 円城さんと波土さんの過去を聞いた沖矢さんが、なるほど、と得心する。そのとき生まれてくる子どものために作った曲が「ASACA」だったから、今まで歌詞が付けられず十七年間お蔵入りになっていたけれど、最近布施さんから真相を知った波土さんは自分のせいで亡くなった子どものために歌詞を書き新曲として発表しようとした。けれど、どうしても書けず、「ゴメンな」というメッセージを残して死を選んだのだった。
 彼の死を殺人に見せかけた理由については、円城さんは震える声で、元カノとの子どものせいで自殺したなんて彼の家族に申し訳ないと思って、と答えた。彼女が大きく息を吸う。次の瞬間には、涙が浮かんでいた。


「だ、だから……死ぬ直前に彼が送ってきた「あばよ」っていうメールの送信履歴が入った彼の携帯をポケットから抜き取って、彼を天高く……」


 彼女の頬に涙が伝う。いよいよ目の奥が熱くなって、呼吸がぎこちなくなる。無関係のわたしがこぼすまいと、見開いて耐える。真相を聞き届け、波土さんへの悪態をついて帰ろうとする梶谷さんへ、円城さんが記事にはしないでと懇願した。梶谷さんは、振り返りもせず一蹴する。


「頼まれたって書かねえよ!ロックンローラーに浪花節は似合わねえからな……」


 梶谷さんは十五年、波土さんにつきっきりで追っていた記者だったらしい。波土さんの死の真相に、彼も感じるところがあったのかもしれない。きっとこの件で、誰かが必要以上に傷つけられることはない。そう思いたい。円城さんはまるで自己の保身のように語ったけれど、波土さんや彼の家族を想っての行動だったのは本当だろう。彼女に悪意は一つもなかった。決して死んでほしくなかった人が、自分の目の前で、いなくなってしまう。そのとき咄嗟に取る行動は、その人や、その人の周りの人たちを守る行動だと思う。彼女だってきっとそうだったに違いない。警察に連れられホールをあとにする円城さんの背中を見送りながら、強く思った。


 一同が移動しロビーに出る。円城さんがしたことは死体損壊罪に問われるけれど、情状酌量で執行猶予となるだろうというのが目暮警部の見解だった。当初から捜査に協力していたからかこれからの事情聴取などは行われず、わたしたちは解散の流れとなりそうだ。安室さんと一緒に帰れるかな、とそばに寄る。


「でも結局わからずじまいよね?なんでアサカの「カ」が「CA」だったのか」


 梓さんが釈然としない様子で口にする。ネットニュースを漁ったときにも新曲の話があったけれど、特にタイトルの由来については触れられていなかった。さきほど沖矢さんが言っていたように、アサカは生まれてくる子どものために作ろうとした曲だ。そのカがCAなのは、単におしゃれだからだと思ってた。梓さん、そんなところ気になってたんだ。


「ああ、それなら波土に聞いたことがあるよ」


 布施さん曰く、妊娠のことを徹夜明けの朝、カフェで聞いたから、子どもが女の子だったら「朝香」、アルファベットで書くならCafeのCaを取ってASACAと書くつもりだったのだと。波土さんなりの粋な計らいに、梓さんもそっか納得とすっきりしたように笑った。


「でも、そんな話を聞かされるほどの大親友のあなたが、手のひらを返して彼の引退を後押しするとは……もしかして先ほど、麻薬で逮捕された彼のバックバンドのことを知っていたのでは?」
「そ、そんなことは…」


 安室さんの推察に動揺を見せる布施さん。どうやら彼にも事情があったらしい。今回の波土さんの件が変な憶測を呼ばないことを祈るばかりだ。
「あら…さすが、耳が早いわね」「もうネットに速報が流れてますよ」気付くと、梓さんと安室さんが何やら二人だけのやりとりをしていた。心なしか距離が近く感じて、ぎこちなく顔を背ける。……なんか、ここにいたくないな…。さり気なくスタッフ用の通用口へ足を向けると、みんなも自然と移動を始めたため、先導する形になってしまった。帰りたがりみたいに見えて感じ悪いかもしれない。申し訳なく思ったけれど、今は明るく振る舞う元気がなかった。

 今日わかったことは、わたしは本当は安室さんにとって何の価値もない人間だということだった。ときどき身にしみることはあったけれど、こうも、他の人と比べて突きつけられることがあまりなかったので、むざむざと情けない気持ちになってしまう。わたしは安室さんの助手で、今はアルバイト先も同じにしていて、他の人より関係性が多い自負があったのだけれど、関係性の数で戦ったって、中身がスカスカだったら勝敗は火を見るより明らかだ。助手としては役立たずで、アルバイトの同僚としても半人前。そりゃあ、駄目に決まってる。わたし、安室さんの一番になりたいって、今でも思ってるけれど。


「君の働きには、いつも助かっているよ」


信じてるけどなあ。


ちゃん!」


 振り返ると、梓さんが駆け寄ってきていた。彼女が追い抜いた後ろで、安室さんが驚いたように目を見開き、さらに遠くでは蘭ちゃんが不思議そうにこちらを見ているのがわかった。――なんだ?彼らに気を取られている隙に、至近距離まで迫っていた梓さんが目の前で立ち止まる。わたしより少し背の高い彼女を見上げる。そういえば、梓さん、落し物は見つかったのかな。


「今日はごめんね?安室さんとの邪魔をしちゃって」
「えっ、梓さんは悪くないですよ…!というか、邪魔なのはむしろ――」


 自虐をとっさに飲み込む。言ってしまったら、いよいよ安室さんを諦めないといけなくなる気がした。だからまだ、言いたくはなかった。口を噤んだわたしに何かを察したのか、梓さんは一瞬目を細めて笑ったと思ったら、「ありがとうちゃん!」ぎゅうっと抱きついた。初めての梓さんのスキンシップに、喜びより先に驚きがきてしまう。固まるわたし。肩の上から回された腕が首の後ろで交差する。梓さんは、わたしの耳元に口を寄せ、そっと囁いた。


「あなたが鈍感なのか、彼がとびっきり見事なのか、興味はないけれど」
「え……?」
「そうやって何も知らないまま、小さなことで悩んでいたらいいわ。……幸せでいたいのならね」


 解放されたあとも、言葉を発せなかった。彼女の声にはわかる程度の揶揄が含まれていた。梓さんからの思いもよらぬ、助言のような嘲笑に、今日一番の居た堪れなさを覚える。足元の地面が崩れていくような、好いている人が自分のことを嫌いだったと知る、ある種の破滅感。思い知らされる。
 顔が見られず俯くと、じゃあねとの短いあいさつのあと、梓さんはあっさり目の前から消えてしまったようだった。縫い付けられたように動かない足。背後で、梓さんの遠ざかる足音だけがやけに鮮明に聞こえる。


「……?梓さん、先に帰るって?」


 次に目の前で立ち止まったのは安室さんだった。ジーンズのポケットに手を入れているのが見える。おそるおそる顔を上げ、きょとんと丸くして見下ろす彼の目と合う。すぐさま泳がせてしまう。先ほどの梓さんの言葉がまだ、頭の中で回っていた。
 梓さんにあんなことを言われるなんて、本当に予想してなかった。梓さん、今までわたしのこと、馬鹿だと思ってたんだ。ポアロで働くの、楽しかったから、防御する間もなくて、すごく傷ついてしまった。でもあの梓さんが嫌味を言うほど腹に据えかねていたのだとしたら、原因は絶対わたしにある。


「じゃあね、とは言ってました…」
「そう」


 安室さんはそれだけ言って、言葉を区切った。少しの沈黙ののち、わたしの横を通って出入り口へ歩き出す。振り返って、一瞬ためらって、でも追いかけることにした。置いてかれるほうが怖かった。


「あむろさん、あの…」
「ん?」
「い…一緒に帰っていいですか…?」
「構わないけど…」


 安室さんは振り返ることなく足を進める。梓さんは正面の自動ドアから出て行ったらしく、進行方向に姿はなかった。入ってきたときと同じ通用口へ向かい、クロークで荷物を受け取り、建物の外に出る。
 夜は更け、辺りは真っ暗だった。車道に面した歩道を街灯が照らしており、ときどき車が行き交うのが見える。
 外に出てすぐ、安室さんが振り返った。突然のことに見上げると、彼はわたしを静かな眼差しで見下ろしていた。それから、目線を上げ、通用口の向こう、屋内の通路を一瞥した。追うように振り返ると、蘭ちゃんやコナンくんたち四人がこちらに歩いてきていた。彼らも帰るのだから当然だ。そういえばあいさつも何もしてなかった。一言、お礼を言ってさよならしたほうがいい。
 考えていると、安室さんがトンとわたしの肩を叩いた。向き直す。彼はわたしと目が合うと、真剣な面持ちのまま、自分の口の前で人差し指を一本立てた。やたら様になる行動に、変に身体が強張ってしまう。


「……」


 ジェスチャーの意味はわかる。けど、意図はわからない。不可解なまま頷いてみせると、彼はわたしの手を掴み、建物に沿うように左折した。駅の方角と真逆の道に困惑するも、発言は禁止されているため何も言えない。
 あっという間に東都ホールから離れてしまった。蘭ちゃんたちには声をかけられなかったから、明日のバイト終わりに毛利家に顔を出そう。安室さんはオープンからシフトが入ってる。梓さんも、入ってたっけ。安室さんのはなるべく覚えているけど、梓さんとマスターはほとんど毎日いるからあんまり気にしていなかった。だからたぶん、明日も入ってるだろう。顔合わせづらいなあ……。
 憂鬱な気分で安室さんのあとをついていくと、ホール近くのコインパーキングに辿り着いた。すぐに白のRX7を見つけ、彼がここまで車で来ていたことを知る。梓さんと一緒に来たのかな。いちいち湧き上がる疑念とどう折り合いをつけたらいいのかわからず、一人歯がゆい気持ちになる。ずっと手を引かれているのに、心は少しも通じ合えない。こんな悲しいことがあるんだ。
 車は全部で三台ほど停まっていたけれど、人の気配はわたしたち以外になかった。辺りは至って静寂で、ときどき風に吹かれた葉がどこかにぶつかる小さな音がするくらいだった。愛車の前で立ち止まった安室さんが、手を離し、こちらを振り返る。五十センチほどの距離から、月明かりと、心許ない街灯を頼りに安室さんの像を結ぶ。真面目な眼差しと、閉じられた口元が見える。だからわたしも固く閉じたままだ。

 おもむろに、広げた両腕が伸びてくる。そのそぶりはまるで、恋人同士の抱擁を連想させ、思考が一時停止した。再稼働し身体へ信号を発するより先に、背中に回った腕に抱き寄せられ、勝手に足が一歩近づく。安室さんの肩口しか見えなくなる。顔が、真横、先ほどの梓さんと同じくらい近くに来る。――抱き締められてる。理解すると、びっくりするほど心臓が大きく跳ねた。
 硬直するわたしに、しかし安室さんは予想したより腕に力を込めるでもなく、両方の手のひらを軽く一度背中に置いただけだった。しかもすぐに移動させ、ワンピースの折り曲がった襟の裏をなぞったり、両脇のポケットを軽く叩いたりなど、謎の行動をとり始めた。彼らしかぬ奇怪な行動に訳がわからないながらも、黙ってされるがままだった。だって、抱き締める距離のままされているのだ。背中を首裏から腰にかけてポンポンと叩かれるたび、口から心臓が飛び出しそうだった。
 最後に、両腕を肩から手首にかけて滑るように撫でると、安室さんは袖口ごとわたしの手首を握ったまま、二人の胸の前に持ち上げ、じっと目を落とし見つめていた。ほんの数秒間の出来事に呆然とするわたしを気にする様子もなく、彼はやがて、ふう、と身体の力を抜いた。


「……ないか」
「…………あ、安室さん、何を……」


 果たしてちゃんと発声できていたか、自信がなかった。煮えたぎる脳内でなんとか平静を努めるも、少し気を抜けば発狂してしまいそうだった。俯く安室さんの顔は暗がりでよくうかがえない。彼は今、どんな顔をしてるんだ。


「すまない。何でもないよ」


「帰ろうか。少し待っていてくれ」あっさり手首を解放し顔を上げた彼は、普段と変わらない、優しい笑顔を浮かべていた。踵を返し精算機で精算を済ませ、車のロックを解除し乗り込む。放心するわたしを、安室さんは運転席から、乗らないのかと言わんばかりに不思議なものを見る目で覗き込んだ。つられるように、依然混乱する頭の中、おずおずと助手席に乗り込む。
 シートに腰を下ろしてようやく、いや?!と我に返った。なに、なんだったんだ今の?!


「安室さん?!さすがに理由を説明してもらわないと困るんですが…?!」
「ごめんごめん」


 ちっとも申し訳なさそうに見えない!わたし変な汗かいたよ!熱出るかと思った、いや今も熱いよ!火照る頬のまま、これでもかと怪訝に顔をしかめるわたし。けれど安室さんは気にする様子もなく、遠くを眺めるように背もたれに寄りかかり、ハンドルに腕を置いた。神妙そうに息を吐く。


「僕もさっき初めて違和感を覚えたんだけれど」
「違和感…?」


 な、何の話?予想してなかった台詞に、引き寄せられるように覗き込む。運転席の真横に街灯が立っているらしく、影が濃くて安室さんの表情がよく見えない。かろうじて、こちらを見遣る流し目と合うのがわかった。


「ホールにいた梓さん、本当に梓さんだったか?」


「……へ?」今日一番間抜けな声が出た。


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