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 あまり長い時間お手洗いに籠るのも不自然になってしまう。そろそろ戻りたい。いっそのこと、全然別のことを考えてみよう、気分を紛らわせるかもしれない。思い、鏡の前の台に両手をつき、俯く。白い台はコーティングされた表面に細かい傷が見えた。
 そうだ、今朝メルマガが来てた。駅前のお店で新作のゼリームースが発売されるらしい。すごく楽しみだ。この時期は桜がテーマになることが多いけど、今年は色とりどりなフルーツが取り入れられていて、他所と差別化ができていていい。発売日には絶対買いに行こう。誕生日でもなんでもないけど、甘いものって年中無休でおいしいもの。行きつけのお店のカラフルなショーケースを想像すると、なんだかとても安心した。ようやく深く呼吸ができる。


「…………」


 大きく息を吸い、吐く。安室さんたちのことは、考えないようにしよう。まだはっきり言われたわけじゃないのに、変に勘繰ってやぶ蛇になったらそれこそ最悪だ。そんなことを考える自分の性格の悪さに地味にショックを受けながら、手を洗って外に出た。

 このお手洗いはホールの入り口から少し離れた場所にあり、奥は関係者以外立ち入り禁止になっている。自動販売機やベンチがあるわけでもないため、ライブの日でもお手洗い目的以外にやってくる人はいないだろう。
 だから、奥から歩いてくる沖矢さんと出くわしたときは、正直驚いてしまった。


「ど、どうも…」
「ああ、どうも」


 反応に困って変なあいさつをしてしまった。取り繕おうとしたけれど、沖矢さんも流暢に同じあいさつを返してくれたため、訂正するのも変かと思い流すことにした。気まずい気持ちはあるけれど、目的地は同じロビーだろうにバラバラに戻るのは薄情だ。待って一緒に戻ろう。沖矢さん、奥から来たけど、何してたんだろう。というか捜査は今どうなっているんだろう。
 沖矢さんが近くまで来るのに合わせてロビーへ足を踏み出すと、今度はなぜか彼のほうが立ち止まってしまった。どうしたんだろう。足を止め、一メートルほど空いた距離で向かい合う。


「どうかしましたか?」


 問うたのは沖矢さんだった。「え?」思わず聞き返してしまう。


「目が赤いようですが……」
「えっ!」


 咄嗟に俯く。うそ、そんなにわかりやすかった?!鏡見て大丈夫だと思って出てきたのに!バツが悪くて何度も瞼を擦って誤魔化すけれど、答えになっていない。


「あ、あの……」
「……」
「は、波土さんが、ゴメンなって…」
「はい?」
「ゴメンなって、最期、書き残して亡くなったかもしれないと思ったら、悲しくなってしまって…!」


 言葉自体に嘘はないけれど、お手洗いまで逃げたのは別の理由だ。嘘に波土さんの死を使ってしまい罪悪感が募る。い、嫌な奴だ、本当に……。しかも沖矢さん、全然納得したそぶりがない。むしろ不思議そうに顎に手を当て首まで傾げてるじゃないか。


「現場の状況的に、それは無理があるのでは?」
「……へ?」
「彼の足元には何もありませんでしたから。脚立もなしにステージから三メートル近く宙に浮いた状態で首を吊るのは現実的ではないかと」
「……」


「あっ?!」思わず大きな声を上げてしまう。目から鱗、いや目が転げ落ちてしまいそうなほどの衝撃だった。
 そうだよ、自分でできるわけないじゃん…!わたし何を見てたんだ?!すごく恥ずかしい。「もっといえば、天井のバーに掛けたロープを引っ張りあの高さまで吊り上げ、なおかつ最前列の座席にくくりつけるとなると、どんな怪力の持ち主だろうと一人では難しいと思いますよ」沖矢さんの丁寧な説明に羞恥で顔が真っ赤になる。そういえば警察は複数犯で見ていた。容疑者三人のアリバイのない時間が被っていないことがわかると頭を悩ませていた。最初から他殺前提で捜査していたんだ…!もしかしてみんな気付いてたのか?


「わ、わーそうですね!ばかだ…!あの、今わたしが言ったこと、みんなには内緒にしてください…!」
「ええ、構いませんが…」


 愚かなわたしにできることといえば沖矢さんの口止めをすることくらいだった。あっさり了承してくれた彼にありがとうございますと手を合わせる。……沖矢さんに、探偵の助手ってバレてなくてよかったなあ…。バレてたら安室さんの評価まで地に落ちてしまうところだった。
 今さら思い至ったけれど、さっきホールで、沖矢さんの目の前で安室さんに駆け寄ったのはよくなかったかもしれない。助手ということに、つまり安室さんが探偵であることに勘付かれてしまったかも。普通事件現場に立ち入った人を追いかけたりしないよなあ。でもそもそも事件現場に立ち入る宅配業者や喫茶店の店員なんていない。でも、じゃあ沖矢さんとコナンくんはなんだってなるから、よくわからないな。沖矢さんからはわたしたちがどう見えているんだろう。というか、沖矢さんこそ何者なんだろう。躊躇なく事件現場に立ち入ろうとするくらいだから、只者じゃない。それこそ、安室さんが内緒で依頼を引き受けたことに関係してくるのかもしれない。
 戻りましょうかとの沖矢さんの声掛けで我に返り、並んで歩き出す。……沖矢さんのことがいよいよ気になる。気になるけど、目が赤いのとか、頭が悪いところとか、この数分で嫌なところをたくさん知られてしまった。でもあんまり引いた顔をされなくてよかった。気を遣ってくれたんだろう。只者じゃなくたって、優しい人であることには違いない。そのことは、ちゃんと胸に留めておこう。


「ところで、実際のところ、彼とはどういう関係なんですか?」


 彼?見上げると、沖矢さんの目は進行方向を指していた。辿るように、真正面を向く。
 彼なんて三人称で、本当は誰のことかすぐにわかったけれど、ぎりぎりまでとぼけたかった。ロビーにはいろんな人たちがいたけれど、唯一、安室さん、安室さんだけが、戻ってくるわたしたちを見つめていたのだ。その眼差しは険しく、まるで、二人並ぶわたしたちを否定しているようだった。
 そんな彼を気にも留めていないかのように、変わらぬ調子で続ける沖矢さん。「なんだか親密そうに見えたので」安室さんから逃げるように、沖矢さんを見上げる。やっぱりホールで安室さんに駆け寄ったのは浅はかだったんだ。どうしよう、助手がバレてしまう。「えっと……」思案するように、床へと目線を落とす。


「わ、わたしの片想いで……」


 光沢のある床は自分の黒い影だけを映していた。隣を歩く沖矢さんの足元にも見える。だというのに、わたしはなぜか無性に心細く、悲しくなってしまって、先ほど緩みかけた涙腺が情けなくも涙をおびき寄せる。ここで泣いてしまうのはますます駄目だ。さっきよりも危機感を持って眉間に力を入れる。


「……そうですか」


 沖矢さんが神妙そうに呟く。肯定に傷ついてる。きっと今のわたしは何を言われても傷つく。

 ねえ安室さん、そんなに睨まなくたって大丈夫だよ。勝手に沖矢さんから依頼の話を聞こうなんてしてないよ。わたし、安室さんのこと困らせたくないから、信用してよ。


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