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 結局わたしはすぐにホールを出た。安室さんにかける言葉が見つからず逃げたのではなく、警察への連絡の確認と、会場内で怪しい行動をする人がいないか監視するよう、任されたからだ。入り口からホールの様子をうかがっていた梓さんには、ビシッとわかりやすい助手の働きを見せられず申し訳なかったけれど、役目を得たわたしはそれなりに堂々と彼女の前に戻ることができた。むしろ彼女に対しては、知らぬ間に深まっていたらしい安室さんとの仲が気になって仕方がなかったのだけれど、それこそ人が亡くなった場で口にする話題じゃなかったので、問い質すことはためらわれた。


「ねえちゃん。あの人、誰?」


 反対に、梓さんから質問を受けた。蘭ちゃんと園子ちゃんはスタッフに指示を出しに行く女性マネージャーさんについて行き、男性のほうもどこかに行ってしまったため、ホールの入り口に立ちロビー全体と自動ドアを見張っているのはわたしと梓さんだけだった。
 唐突な質問に振り返り彼女の視線の先を追うと、ホールの中で三者三様に動く姿があった。言うまでもなく、安室さん、コナンくん、沖矢さんだ。距離を置くと視野が広がってますます遺体に目が行ってしまい、逃げるように伏せる。
 それから、あれ?と気付く。梓さんだけが視界に入るように、彼女の顔を見上げる。


「梓さん、沖矢さんのこと知りませんでしたっけ?」


 梓さんの質問の対象は沖矢さんで間違いない。あの中で「誰?」と聞かれそうなのは彼しかいないから迷うことはなかった。けれど、よく考えたら、沖矢さんだって既知の人物だ。わたしやコナンくんたちが冷蔵車のコンテナに閉じ込められた事件の顛末は話したことがあるし、彼はコナンくんたちとも知り合いみたいだから、ポアロに来店したこともありそうだ。勝手な想像だけど、本を読みながらブラックコーヒーを嗜んでそうだもの。
 そこまでは言わなかったものの、梓さんはすぐに思い出したようで、ああ、と口を丸く開けたあと、あは、と恥ずかしそうに眉をハの字に下げて笑った。


「そうだったわ。ド忘れしてたみたい」


 お茶目な梓さんにわたしも笑みを浮かべて応える。顔見知りのお客さんが多くいる梓さんでも忘れていたくらいだから、常連さんではないのだろう。わたしも今日初めて見たから、ほんの一、二回の来店回数なのかもしれない。
 それから女性マネージャーさんと一緒に戻ってきた蘭ちゃんたちと合流すると、先ほどわたしがお手洗いで席を外していた最中の話を聞くことができた。なんでも、わたしたちが到着する前から波土さんはホールに籠っており、リハーサルがいつ始まるかわからないとマネージャーさんから聞いたため、諦めて帰ろうとしていたのだそうだ。


「それどころじゃなくなっちゃったけどね」


 ちょっと沈んだ声の園子ちゃんに、神妙に頷く。まさか目の前のホールで、波土さんの身にあんなことが起きていたなんて。きっとみんな、想像もしていなかった。





「えー…この東都ホールの建物内にいたスタッフの話をまとめると…」


 駆けつけた目暮警部と高木刑事、鑑識の人たちが捜査を開始してからも犯人特定に至る決定的な証拠は掴めなかったらしい。彼らによる事件の概要を、一緒に出てきた安室さんたちと一緒に、なるべく身を小さくして聞いていた。
 結局、出入り口を見張っても怪しい人は見つからなかったな。つまり、全然役に立たなかったのだ。先ほど安室さんに報告した内容は薄っぺらく、かつ安室さんも収穫を期待していなかったような素っ気ない反応だったものだから、一人密かに凹んでいた。
 わかってるつもりだ。今日、無性に自分の不甲斐なさが身にしみるのは、安室さんと梓さんにどう思われているか、事実と自覚のズレを垣間見てしまったからだ。二人の視線を気にして離れたくもなったけれど、わたしをよそに仲良くする二人を見るのも嫌で、半ば意地を張っている気分で安室さんの隣を陣取っていた。もちろん、反対側を梓さんがキープしているのだけれど。
 安室さん越しの彼女を盗み見て、小さく息を吐く。不謹慎でならない。今はこんなことを考えている場合じゃないのに。

 波土さんの死亡推定時刻は午後四時半から五時半の間。その間で長時間姿が見えなかったのは、マネージャーではなくレコード会社の社長だった、大柄な男性の布施さんと、本当のマネージャーの円城さんだけだったらしい。ただし二人とも、お腹を壊してトイレに籠っていたり、ホール内を駆け回っていたと主張している。
 するともう一人、容疑者と思しき男性がスタッフに連れて来られた。連れて来られたというより、現在立ち入り禁止のホールに向かうところを制された風で、社長の布施さん曰くスタッフジャンパーをお金で買って会場に潜り込んだ雑誌記者だという。パパラッチとかゴシップとか、週刊誌でよく聞くけど、本当にそういうのってあるんだなあ。ひっそり感嘆してしまう。
 それはそれとして、雑誌記者である梶谷さんの事情聴取の結果、行方をくらませていた時間は三人バラバラだったことが判明した。容疑者同士が共謀して犯行に及ぶのは無理という見解を述べる警察二人の表情は心なしか悩ましげだ。どうやら、犯人は複数犯だと考えているらしい。


「ねえ、三人の中で野球やってた人っている?」


 コナンくんの突拍子もない質問に、三人は、ラグビー、テニス、登山と別々のスポーツ経験を述べ、雑誌記者の梶谷さんはさらに、野球なら波土さんが高校までやっていたと口にした。なんでも波土さんは強肩の外野手で、甲子園までもう少しのところまで勝ち進むほどの強豪校出身だったらしい。
 唐突な、しかも少年からの質問に訝しむ布施さんに、事件現場で野球のボールが見つかったことを高木刑事が説明する。するとマネージャーの円城さんが、そのボールはおそらく高校卒業時に野球部のみんなからもらったメッセージ入りのボールだろうと答えた。波土さんはいつもそれを持ち歩いていたという。


「さすが元カノ、詳しいねえ。その頃から波土がデビューして売れるまで付き合っていたんだよな?」


「んで、この美人マネージャーに横恋慕して見事にフラれたのが、その社長さんってわけだ…」梶谷さんの無遠慮な暴露話に、どんな顔で聞いていればいいのかわからずつい口を歪ませてしまう。梶谷さん、人のプライベートを、しかもこんなときにあけっぴろげに話さなくても……。でも、容疑者と被害者の人間関係だから、もしかしたら事件に関係したりするのだろうか。そう思うと過敏に毛嫌いするのもいけない気がして、口を噤むしかできない。


「ところで、波土さんの携帯電話、どこにあるか知りませんか?」
「彼の控え室にも荷物の中にも見当たらなくて…」


目暮警部と高木刑事の問いかけに、それまで梶谷さんを困った様子で見ていた円城さんが反応し、彼らに向く。


「携帯なら波土はいつも胸のポケットに入れてましたけど…」


 聞きながら、ふと、エントランスから外を見やると、日の落ちた屋外では入り口の前に大勢の人だかりができていた。異様な光景に思わず目を瞠ってしまう。お客さん、ではない。ライブは明日だった。ということは野次馬か…!確かにホールの前にパトカーが停まっていたら気になってしまうかもしれない。不謹慎な、と思う気持ちと、野次馬への同感が居座って、現金な人間であることを否が応でも自覚させられる。


「それでは皆さん、筆跡鑑定にご協力願えますか」


 高木刑事の音頭で、ホールにいる全員の筆跡鑑定が始まるようだ。彼によると、波土さんの胸ポケットに「ゴメンな」と書かれた紙が入っていたのだそうだ。犯人が携帯を抜いた代わりに入れた紙かもしれないので、同じ文字を書いてもらいたいと言う。
 ビニール袋に入れられた白いメモ用紙に書かれた謝罪の文字を見た途端、波土さんの無念、死の間際の感情を想像してしまい、悲壮に襲われ、涙腺が緩むようだった。まさか無関係のわたしが同情で泣きだすのはお門違いなので、なんとか堪える。


「じゃあまず、安室さんからいいですか?」


 現在、事情聴取が終わったためか、集まっていた人たちは一区切りついたと言わんばかりにそれぞれ少し距離をとっていた。そんな中で、警察手帳とボールペンを胸ポケットから取り出した高木刑事が、一番近くにいた安室さんに声をかけたのだ。筆跡鑑定、わたしは初体験だけど、安室さんはどうだろう。先ほどから一歩も動かない彼へ目を向ける。
 そこでようやく、彼の異変に気付いた。横顔は俯き、眉間にしわを寄せ、歯を食いしばっている。まるで怒りに近い感情を必死に堪えているようだ。近寄りがたい雰囲気に思わず言葉を失う。反応のない安室さんに、高木刑事が怪訝がって眉をひそめた。もう一度名前を呼ぶ、前に、手を挙げていた。


「あの!わたし先書いてもいいですか?」
「え?ええ、どうぞ…」


 呆気にとられた様子の高木刑事は戸惑いつつ、安室さんの隣にいるわたしに手帳とボールペンを差し出した。努めて何事もないようにお礼を言って受け取る。わからないけど、安室さん、思い詰めてるみたいだ。あんまり邪魔をしたくなかった。
 とはいえ初めての筆跡鑑定だ。普通に書いていいんですか?なんてばかみたいな質問をしながら、自分の名前の隣に、あの紙にあった「ゴメンな」の文字を書く。高木刑事の言った通り、携帯を抜いた犯人が罪の意識から残した言葉の可能性もある。でも、状況を一見した通り、波土さんが自ら首を吊ったとしたら、彼は自分で書いたことになる。最期の言葉が謝罪だなんて悲しすぎる。いったいどんな理由で……。


「安室さん?……安室透さん!」


 ハッと隣に目を向けると、高木刑事に呼びかけられた安室さんがきょとんと目を丸く見開いていた。「あ、はい?」状況に追いつけていないと表現するのが正しそうに、彼は差し出された警察手帳を見下ろし、筆跡鑑定の説明を求めた。わたしは何も言えず、二人の様子を見守る。推理しているのかとも思っていたけれど違ったようだ。刑事さんたちの話を聞かず、ここではないどこかに気をやっていた。余裕のない険しい横顔も見慣れなかった。事件の捜査中に、あんな安室さんは見たことがない。
 説明を聞いた安室さんはすんなり納得し、スラスラとボールペンを走らせる。目の前で高木刑事が、本命だろう容疑者三人へ筆跡鑑定の協力について念を押していた。


「はい。どうぞ」
「ありがとうございます」
「……」


 じ、と安室さんを見上げる。手帳を返す姿に特に変なところはない。けれど、今日、安室さんの様子がおかしい気がする。どこがと聞かれると言語化できない。でもやっぱり、いつも見ている安室さんと違って見える。
 無意識に首をひねっていた。安室さんだけじゃなくて、梓さんとか沖矢さんとか、なんだか今日はここに来てから、考えることが多くて混乱する。何をどうしたら解決するのかわからないから、余計疲弊してしまう。とにかく、沖矢さんにはこのまま、変なことを言わないようにする。梓さんには……。


「梓さんも字を…」
「はーい!」


 ハッと、安室さんが梓さんへ目を向けた。その様子はまさに、咄嗟の、内心の動揺が意図せず漏れてしまったかのような反応だった。目の当たりにしたわたしは頭が真っ白になる。……安室さん、今日、梓さんのこと気にしすぎじゃない…?
 文字を書く梓さんを見つめる安室さんから目を逸らし、俯く。わたしが鈍いせいで、今まで気付かなかっただけなんだろうか。二人を勘繰る嫌な思考が止まらない。だって、だとしたら、呆然としてしまう。


 え、わたし、だめなんだ。


 降って湧いてきたような心臓の痛みに襲われる。鼻の頭がじんわり熱くなって、抑えたくて、口を閉じたままゆっくりと大きく息を吸う。まずい、泣きそう。


「あむろさん、ちょっと、お手洗いに行ってきます…」
「ああ」


 一応返事があったことに安堵して、踵を返して駆け出す。位置を把握している、さっきも行ったロビーのお手洗いへと向かう。

 さすがは演芸施設なだけあって個室は多く、中には人の気配もいくつかあった。無人の化粧スペースの鏡の前に立ち、目の赤い自分の顔と向き合うと、なんだかすごく、ばかな人を見ている気分になる。眉をひそめて睨みつけるけれど、全然覇気がないし、泣きそうなのを堪えてるだけなのがありありとしている。可哀想で余計、泣きたくなる。この空間が静寂であったなら零れてしまっていた涙は、個室を出てくる何人かの女性スタッフの存在によって耐えることができた。代わりに、ずずっと鼻をすする。

 ……わたし、もうずっと安室さんしか見てこなかったんだなあ。これで、もし本当に、安室さんと梓さんが付き合い始めたら、どうしよう。そうなったら、おめでとうって言ってあげるのが正しいんだろうけど、言えない。絶対言えない。大好きな二人だけど、そういう次元の話じゃない。
 想像だけでじくじくと、心臓から喉にかけて痛む。腕を組む梓さん、彼女を気にかける安室さんを思い出すと、悲しいとか悔しいとか、情けないとか、あらゆるマイナスの感情に支配されてしまう。この問題はどう解決すればいいんだろう。梓さんは、悪くない。安室さんにだって、非があるわけじゃない。わたしが勝手に傷ついてるだけだ。
 自分を傷つける想像なんてするものじゃない。でも、実際に起こり得ないとはいえないことなのに、最悪の事態を想定することは果たして愚かなのか、今のわたしにはわからなかった。

 とりとめない思考をくゆらせる。このまま一生考えていられそうだったけれど、そんなことはしたくないので、切り替えようと、眉をひそめる。地底まで沈んだ心を持ち上げるには、どうしたらいいんだろう。
 そうだ、今まで安室さんがわたしにくれた優しい言葉を思い出してみよう。たくさんあるよ、数え切れないほど助けてもらったもの。傷ついたり、落ち込んだとき、安室さんは必ず助けてくれた。心を軽くする言葉をかけてくれた。あれらはきっと本当だった。

 でもそれらが本当であることと、安室さんが梓さんをすきになることは、両立できないことじゃない。

 痛い、心臓痛い。とっておきの恋心が報われない。その可能性を目の当たりにした、自分の心許なさったらない。


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