114


「お二人はどういった関係なんですか?」


 わたしたちに話しかけてきたのはもっぱら話題の沖矢さんだった。ほとんど初めましての彼にこのタイミングで話しかけられるとは思っておらず、まんまと警戒が顔に出てしまうわたし。一方、安室さんは至って普段通り、人好きのする笑顔を向けた。


「喫茶店の同僚なんです」
「そうでしたか。もしかして、お店で波土の曲が流行っているんですか?店員に三人もファンがいるなんて珍しいと思いまして」
「あ、わたしはそんなに……詳しいわけじゃないんです」
「ファンなのは僕と、あと梓さんですよ。あまり店でそういった話はしないので今日初めて知りましたけど」
「へえ、そうなんですね。自分の周りに波土のファンがいないので、羨ましい限りです」


「ねえねえ、昴さん」会話はまだ続くだろうと思われたものの、コナンくんが沖矢さんの袖を引いたことでお開きになる。ボロが出なかった、とほっと胸をなでおろす。やっぱり、この状況で探偵と助手の身分を伏せるのはひどく難しいことのように思えてならないよ。だってここには、わたしたちを知っている人が四人もいるのだ。沖矢さんの隙を見てこっそり口止めしたほうがよっぽど安心だ。
 安室さんは不安じゃないんだろうか。横顔を見上げると、先ほどの愛想はどこへやら、注意深く沖矢さんを観察している姿が見とめられた。ピンと張り詰めたまま、深く沈んでいくような雰囲気に話しかけることがためらわれ、つい口を噤む。


「消防査察に来ましたー!」
「設備を確認しますねー」


 警備員と思われる制服を着た男性二人が正面の自動ドアから入ってき、まっすぐホールへ向かっていた。マネージャーと思われる男女二人が焦ったように声だけで引き止めるも届かず、一人が両開きの扉を開ける。


「うっ……うわあああっ!!」


 突如響いた悲鳴にびくっと肩を震わす。扉を開いた警備員の声だ。彼は腰が抜けたように尻餅をつき、もう一人も今にもひっくり返りそうだった。二人は驚愕の表情のまま、ホールの中を凝視している。
 悲鳴にいち早く反応した安室さんが駆け寄るのに慌ててついていく。沖矢さんや他の同行者も同様で、差はあれど全員が扉へ集まった。全員が、ホールを覗く。

 この出入り口はちょうど客席の中央後方に位置しているらしく、ここから真正面、十数列の客席を下った先に、ライトアップされたステージが見えた。天井と足元に設置されたスポットライトすべてが、舞台中央のある一点を照らしている。

 一瞬、本当に最初の一瞬だけ、何か縦長のセットを吊るしているんだと思った。けれど、すぐそばの蘭ちゃんたちの悲鳴が響き、それから腰を抜かしたままの警備員が視界に入って、伝播するように、全身に震えが走ったのだった。

首を吊った波土さんだ。

 ひゅっと息を吸い、思わず両手で口を覆う。せり上がってきそうな胃液を抑える。一気に血の気が引く感覚。震える身体のまま、一歩後退する。前にいた安室さんが振り返ったのを気配で察する。


「皆さんはここに。ホールには立ち入らないでください」


 すぐそばで聞こえた声のあと、ホールへと駆け出す足音を捉える。彼の指示に応答したのは園子ちゃんたちだけで、わたしは俯いたまま、何も返せなかった。「あ、ちょっ……コナンくん?!」この場に留まった蘭ちゃんや梓さんたちが何か話していたけれど、気に留める余裕もなかった。


「とにかく事件の捜査は、彼らに任せましょ…」


 梓さんが落ち着き払った声音で言うのをかろうじて耳に入れ、おそるおそる、目線を上げる。
 ステージ上に、安室さんとコナンくんが見えた。客席の最前列の通路には沖矢さんもいる。ホールに入ったのはあの三人だけらしい。安室さんを目で追おうとすると自然と波土さんの遺体が視界に入ってしまい、思わず伏せる。怖い。早くこの場を離れたい。


「あら?ちゃんは?」
「えっ……」


 そばにいる梓さんに呼ばれ、顔を上げる。まるでいない人を探すかのような口ぶりだったので、一瞬わたしが見えてないのかと思ってしまった。もちろんそんなはずはなく、頬に手を当てた彼女と目が合う。にこりと弧を描く。


「安室さんの助手じゃない!いつもみたいにお手伝いするんでしょ?」


 期待の眼差しで首を傾げた梓さんに、反射的に、はい、と言ってしまっていた。か細い声で、まったく説得力はなかった。答えてすぐに後悔をしたけれど、肯定せざるを得ない空気があった、ように思う。なんだろう、いつもは感じない圧を感じてしまった。でもそれはわたしの気持ちの問題で、なぜなら、痛いところをつかれたと思ってしまったからだった。
 梓さんは知らないのだ。事件が起こったとき、わたしが大抵、役立たずなことを。探偵の依頼であれば事前に安室さんと役割分担をすることもあるけれど、緊急事態に居合わせたとき、わたしにできることはほとんどなく、安室さんの近くでおとなしくしているのが常だった。なんだったら、探偵の依頼ですら戦力外と判断されたこともあるのだから、随分と駄目な助手だ。
 でも、そうか、梓さん、わたしがちゃんと助手をしてるって思ってくれてたんだなあ……。知らないうちに期待を裏切っていたことに罪悪感が芽生える。
 梓さんへの責任と、自分の口から出た肯定に後押しされるように、つま先を梓さんから九十度曲げる。まるで退路を断たれたみたいに思ってしまうの、人間が出来ていなさすぎる。


「あ、安室さんに指示を仰いできます…」
「うん!頑張って!」


 梓さんの無邪気な激励に下手くそな笑顔で応え、ホールに踏み込む。閉じられた空間に言いようのない空気を感じ取り、背中に冷や汗がにじむ。駆け出して、浮き足立つ感覚のまま客席の通路を下っていく。ふわふわした、いやどろどろしたぬかるみを走っているような感覚に、気を抜いたら足を取られてしまいそうで、努めて一歩一歩階段を踏みしめる。
 安室さん、安室さん。なるべく視線を下げたまま、安室さんの所在地を探る。彼がステージの上手へ移動するのが見えた。ソデへと消えていくあとを一目散に追う。最前列の通路を横切るとき、波土さんの遺体の前を横切るのが怖かった。同じく通路にいた沖矢さんは遺体を吊るすロープが結ばれた座席を見ていたようで、わたしに気付いて何か言おうとしたけれど、緊迫した様子が伝わったのか、わたしがすみませんと小声で会釈だけすると、引き止められることはなかった。向かって右側の階段からステージに上がり、ソデの状況を確認している安室さんへ駆け寄る。名前を呼ぶため、息を吸うと、胸が詰まった。もう心持ちは助手などではなく、助けを求める人の気分だった。


「あむろさん…!」
…?」


 彼は客席からの死角に置かれた箱やパイプイスに目を落としていた。わたしに気付き顔を上げると、驚いたような、戸惑うような表情を見せた。それから、じっと眉をひそめる。


「どうしたんだ。今日に限って」


 まるで来るなと言わんばかりの声音に喉が詰まる。たしかに今まで、むやみやたらと事件現場に立ち入ったことはなかったかもしれない。でも、今日に限ってって、どういう意味だろう。
 安室さんは、すうっと表情を消したと思ったら、その場から足を動かすことなく、目線だけを移した。どうやらわたしの右斜め後ろの方向を見ているようで、視線の先に合点が行くより先に、彼の口から、おそらく正解だろう人物の名前が出てくる。


「梓さんに何か言われたのか?」
「えっ?な、何かって」


 見事に言い当てられ居た堪れなくなる。でも、先ほどのことを話すのはなんだか情けない気がして、閉口してしまう。だって梓さんは助手のわたしを信じてくれてるのに、まるで言いつけるようになってしまう。安室さんも無理に聞き出そうとする気はないようで、むしろ想像がついているといった様子で、呆れたようにうっすら笑みを浮かべた。


「君、梓さんを気にしていたみたいだから。つっかかったんじゃないかと思って」
「つっかかりませんよ…!梓さんですよ?!そりゃあ、梓さんが安室さんと腕を組んだのはびっくりしましたけど…」


 言いながら傷ついていく。安室さん、わたしが梓さんに恨み言を言うとでも思ってたのか。確かに梓さんの言動には驚かされたけれど、でも彼女はよく知った人だ。それどころか、すごくすきな人だ。つっかかるなんて、あるわけがない。


「まあ、そうだな。つっかかるのは得策じゃない。……それに君は、何でもないしね」
「え?」


 言いながら、一歩、二歩とソデの奥へ移動する安室さん。わたしといえば、彼の台詞が思いのほか冷たく聞こえて、恐怖するほどの温度に、空いた距離を詰めることができなかった。


「仮に僕と梓さんに何かがあろうと、とやかく言える立場じゃないだろう」


 暗がりから、ゆっくりとこちらを振り向く。安室さんは間違いなく笑っている。目を細め、歌を口ずさむような優しい笑顔を浮かべている。そんな素敵な笑顔のまま、凶器を手にして、わたしのお腹を刺しただなんて、誰が信じるだろう。


「じょ……助手です…」


 咄嗟に言い返したら、喉がひくついて、誤魔化すために唾を飲み込む。目がおかしくなってしまったのか、安室さんの顔がよく見えない。あんまり暗くて、もう笑ってないようにも見える。上がっていた口角は元の高さに戻り、視線を斜め下へと落としているようだ。そのまま、首をひねって横を向く、彼の瞳にはわたしどころか、何も映っていない。「そうだな」


「君の働きには、いつも助かっているよ」


 ぽつりと呟かれた言葉は、喜んでしかるべきもののはずだった。けれどこのときわたしは、とても額面通りに受け取ることができず、歓喜はおろか、かろうじて息を吸い込むことでしか、体面を保つことができなかった。
 流し目でわたしを見て、薄ら笑いを浮かべる。それだけで、安室さんと梓さんの間に、本当に、何かあるんじゃないかと、錯覚してしまった。何か、わたしが教えてもらえないような何かが、ある。そんな、思いもよらなかった予感に心臓をやわく握られて、生きた心地がしない。


top /