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 スタッフ用の通用口から建物の中に入り、クロークに荷物を預けたあとはエントランスで波土さんのマネージャーを待っていた。リハーサル見学の受け入れをしてくれるのがその人らしいけれど、園子ちゃんも会ったことがないらしく、顔は誰も知らない。時間は伝えているからそのうち来るだろうと、スタッフの作業の邪魔にならず、かつ目立つ場所で固まって立っていた。
 実は会場に着いたあたりからトイレに行きたかったわたしは、マネージャーさんを待つ間に行ってしまおうと四人に断りを入れ席を外すことにした。ホール前の通路にあるお手洗いのサインを目指しなるべく淑やかに歩いていたのだけれど、スタッフの人に部外者だと疑われ事情説明を求められてしまったときは困ってしまった。
 無事に用を済ませ戻ってくると、エントランスの中央付近で、園子ちゃんたちが関係者と思しき男女二人と話している姿が見えた。女性はピンクの千鳥模様のトップスと紺色のタイトスカートを身にまとい、見るからに敏腕の風が吹いている。男性は一見して背がとても高く、髭も相まって強面の印象だ。二人が波土さんのマネージャーなのかな。検討をつけながら近寄る。

 ふと、彼女たちに近づく後ろ姿に目が行った。えっ、と一瞬動きを止め、それから、駆け足になる。あ、園子ちゃんたちの会話に入った。間違いない。


「安室さん!」


 自制できず大きな声が出てしまった。すぐさま振り向いた人物は呼んだ名前と相違なく、まさしく安室さん本人だった。向こうも驚いたように目を瞠っている。そりゃあ、びっくりするでしょう。なんでここに?しかも……。


「梓さんも…」
「こんばんは、ちゃん」


 二人の後ろで立ち止まったわたしに梓さんが屈託のない笑顔を向ける。大きいボタンがついたゴツめの黒いジャケットやブーツなど、普段よりカジュアルないで立ちの安室さんと、グレーのワンピースを身にまとう梓さん。フォーマルの度合いは真逆とも言える二人だったけれど、不思議とどちらもこの場に合っていた。
 そこでようやく、状況が理解できる。二人もリハーサルの見学に誘われていたのだ。
 知らなかった……。理解はしたものの、素直に納得できず釈然としない。いけないことじゃないのに、なんというか、この……。二人を見ているとなんでか居心地が悪く、背けるように主催者の園子ちゃんに視線を移す。彼女は彼女でなぜか慌てた様子で、わたしを含めた三人を順番に見ている。そんな園子ちゃんを見て苦笑いの蘭ちゃんが、口を開く。


「梓さんも来たんですね」
「ポアロじゃ興味なさそうだったのに……」
「お店じゃ隠してたけど、私も大ファンなの!」


「そうだったんですか?!言ってくれたらよかったのに…!」思わず声を上げてしまう。初耳だ。この間話してたときは全然気がつかなかった。じゃああのとき、梓さんに遠慮させてしまっていたのか。途端に申し訳ない気持ちになり、何と言うべきか言葉を選ぶ。その間に、彼女はわたしを一瞥したと思ったら、「でね、」安室さんに一歩近寄り、至って自然に、彼の腕に自分のそれを絡めた。

えっ。


「お店のシフトを終えてここへ向かう安室さんのアトをつけて来ちゃったってワケ!」
「驚きましたよ!ここへ入ろうとしたら、彼女に呼び止められて……まあスタッフに事情を話してなんとか入れてもらいましたけど」


「……?!」目を疑う光景に開いた口が塞がらない。梓さんと安室さんが腕を組んでる。距離が近い。すごく仲良さそう。安室さんも嫌がってない。え、え……。


「ちょっ……」


 まるで冷静ではない頭のまま、二人の間に手を差し込む。躊躇はあったものの、ええいと両手で二人の腕を押しのけると、組んでいた腕はあっさり解け、人ひとり入れるくらいの間ができた。あまりの手応えのなさに逆に動揺してしまう。余裕のなさを正当化するように、二人を交互に見て体裁を取り繕う。


「な、なんでそんな親密そうなんですか…?!聞いてないんですけど…!」
「ごめんごめん、冗談よ」


 口元に手を持ってきてお茶目に笑う梓さん。冗談……冗談になるのか今の?!梓さんの口から聞いたこともない発言に信じられない目で見てしまう。


「……というか、安室さんはなんでここに…?」


 梓さんの理由はわかったけれど、安室さんの登場はわからないままだった。だって、わたしと梓さんは園子ちゃんに口止めされてた。マスターを経由して聞いたのだろうか。でも安室さんが飛び入り参加するとは思えない。いや、それは梓さんもだったのだけれど。もしかして安室さんも波土さんに特別な思い入れがあるの?それで、小耳に挟んで急遽参加しようした安室さんに、梓さんもついて来た。そんな二人の企みを想像して、心臓をつままれたような違和感を覚える。


「今も言ったけれど、先週僕が波土禄道の大ファンだと話したら、園子さんがこの場を手配してくれたんだよ」
「……えっ?!安室さん発端だったんですか?!」


 ああ、と頷く安室さん。それこそ初耳だ。てっきり園子ちゃんがみんなに声をかけたんだと思っていた。
 まてよ、ということは、梓さんの口ぶり的に、彼女は安室さんと園子ちゃんの話を聞いていたんだ。それで、梓さんも波土さんのファンだから、安室さんにこっそりついてきたんだ。
 その場の雰囲気がわからないので何とも言えないけれど、梓さん、遠慮しなくてよかったんじゃないかなあ…?少なくとも、わたしが誘われたときに行きたいって言ってくれたらよかったのに…。同意を求めるように園子ちゃんを見ると、彼女は困ったように眉尻を下げていた。


「せっかく安室さんが来ること内緒にしてさんを驚かせようと思ってたのに…」
「そうだったの?!」


 突然の爆弾発言にまたもや大きな声を上げてしまう。でも、それならいろいろと腑に落ちるぞ。目論見があったから、安室さんに対してのみ箝口令が敷かれたり、わたしの前で梓さんが行きたいって言い出しにくくなってたんだ。「ごめんね、どうしても波土のリハーサルを一目見たくって」謝る梓さんに、園子ちゃんもバツの悪そうに、わたしも梓さんが波土さんをすきなこと知らなかったからごめんと返す。大ファンならこの機会を逃したくない気持ちもわかる。ましてやわたしが咎めるのも違うので、園子ちゃんの気持ちだけありがたく受け取ることにしよう。一人胸に手を当て心を安らかにさせる。よかれと思って画策してくれた園子ちゃんにも、遠慮させてしまった梓さんにもなんだか申し訳ないな。加えて、さっきの安室さんと梓さんの仲睦まじい光景を思い出すと無性に胸が痛い。


「驚いたといえば、あなたも来ていたんですね?沖矢昴さん」


 ――あ。目を開き声の方向を向くと、安室さんが挑戦的な眼差しを沖矢さんに向けていた。そうだ、いろいろびっくりしすぎて繋がってなかったけど、安室さんと沖矢さんが顔を合わせてる状況なんだ。
 認識した途端、血の気が引いた。無意識に手で口を覆う。やばい、さっき普通に名前を呼んでしまった。安室さんが偽名を使っていたことがバレてしまった。取り返しのつかない失態に背筋が凍る。


「先日はどうも……僕のこと、覚えていますか?」
「えーっと、あなたは確か……宅配業者の方ですよね?」


 沖矢さんのトンチンカンな返答に思わず目を丸くしてしまう。宅配業者…?冷蔵車から安室さんが助けてくれたときの話だろうか。そんな風に伝わってたのか?
 黙ったままよく考えて、あっと思い至る。もしかしたら安室さん、探偵として調査をしに行ったとき、宅配業者を装って沖矢さんの家を伺ったのかもしれない。なるほど、探偵の身分すら伏せていたのか!本当に下手なことを言わなくてよかった。これまでの会話でポアロの店員でもあることはバレているかもしれないけど、兼業できない職種じゃないから突き通せるだろう。あとはコナンくんたちから、本当は探偵が本業なことがバレてないといいけれど。
 名前についても特段疑義が生じてなかったから、もしかしたら偽名は使っていないのかもしれない。協力してもらった人たちには偽名だったのに、そんなこともあるんだな。たしかに、沖矢さんがコナンくんたちと知り合いなのは安室さんも知ってたし、すぐバレる恐れがある偽名を使うのは得策じゃないかもしれない。じゃあわたしがさっき呼んでしまったのも、やらかしてはいなかったんだ。
 一人密かに、はあ、と安堵の息をつく。また失敗してしまうところだった。安室さんの足を引っ張るなんて一番避けたいことだから、本当によかった。

「じゃ、あとは四人でごゆっくり…」言うなり、園子ちゃんは蘭ちゃんとコナンくんと一緒に入り口へと踵を返した。突然の行動にポカンと呆けてしまう。どこかいくのかな?リハーサルはまだみたいだし、休憩しに行くのかも。思いつつ、蘭ちゃんに手を引かれるコナンくんが梓さんに何か話しかけている隙に、フリーになった安室さんへ近寄る。


「安室さん、沖矢さんには宅配業者の設定なんですね。わたし安室さんのことは何も話していないので、ご安心を」
「そう。ありがとう」


 安室さんは横目でわたしを一瞥したと思ったら、すぐに逸らしてしまった。視線の先には、コナンくんと梓さんがいる。なんだか会話を断ち切られたようで居た堪れず、どうにか繋げようとしてしまう。


「あ……でも、だとするとわたしと安室さん、ただのポアロの同僚ってだけになっちゃいますね」


 つい口をついた台詞だった。自分で言ったあと、さみしくなる。探偵と助手の関係がないと、わたしたちは一気に他人だ。それこそ梓さんと同じになる。いや、梓さんを下に見てたつもりはない、けど、でも安室さんとの関係に限ってはわたしが一番近しいと思っていたから、他の人に差を詰められると途端に焦ってしまうのだ。


「そうだな。じゃあ、今日はそういう設定で頼むよ」


 こちらに振り向き、含みのある笑顔で受け入れの姿勢を見せる安室さん。わたしはといえば、今さらやっぱりやめましょうとも言えず、苦笑いを浮かべるばかりだった。ほら、全然余裕がない。


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