112


 大学は予定通り四限で終わったものの、最寄りの駅の路線で人身事故が起きたときはさすがに諦めそうになった。なんとか超特急で帰って支度をしたことにより待ち合わせの時間に間に合うことができたけれど、駅から走りっぱなしだったせいで夏みたいな汗をかいてしまった。東都ホールのエントランスが見える入り口の前に立ち、ぱたぱたと手で扇ぐ。上着を持ってこようか迷う時間がもったいなくて、荷物になるからと置いてきたの、いい判断だったな。すごく暑いし、まだ四月だから、上着なしでちょうどよかった。日はもう少しで沈みそうだったけれど全然肌寒くない。
 臙脂色のスタッフジャンパーを羽織った関係者らしき人たちが自動ドアを頻繁に出入りするのを横目に、腕時計に目を落とす。と、駅の方角から園子ちゃん、蘭ちゃん、コナンくんの三人がやってきた。約束の三分前だ。みんな季節にあった綺麗目な格好をしており、服装は間違えてない、と内心ほっとする。よそいきの、ウエストで絞ったシルエットが綺麗に見えるワンピースを選んだ判断を褒めたい。シャツ襟でフォーマルに見えるし、落ち着いた薄緑色が気に入っている。
 一瞬、目の合ったコナンくんが、瞠目しているように見えた。けれど気に留めることなく、手を振る園子ちゃんへ意識を向ける。


「お待たせさん!」
「ううん。こんばんは」


 それから、今日はありがとう、とお礼を述べる。ミュージシャンのリハーサルなんて滅多にない機会に同席させてもらえて、実はあれからじわじわと楽しみにしていたのだ。もともと波土さん本人にものすごく興味があるわけではなかったけれど、以来、ネットでミュージックビデオを見たりライブに関するニュースをリサーチしたりしていた。もう有名どころの曲ならだいたいわかるぞ。
 準備万端で今日を迎え内心勇み足だったものだから、三人と合流するなり、早速会場に入ろうと一番に踵を返した。あれ、でも正面の入り口を使っていいのかな?


「あっ」


 園子ちゃんの声が背後で聞こえる。暗にわたしを呼び止めるニュアンスを感じ取り、立ち止まって振り返る。


「ごめんさん!実はまだ人が来るんだ」
「あ、そうなんだね!」


 両手を合わせて謝る彼女に慌てて居住まいを正す。一人で早まってしまった、恥ずかしい。居た堪れず、ぽりぽりとこめかみ辺りを掻く。この四人だけじゃなかったんだな、あと誰が来るんだろう。毛利さんかな、真純ちゃんかな。でも名前を言わなかったってことは、わたしの知らない人かも。となると、わたしお邪魔して大丈夫だったのかな。


「でも、邪魔はしないから安心してね!」
「えっ?」

「すみません。お待たせしました」


 邪魔はこっちの台詞じゃあ…?思っていると、声が聞こえた。とっさに、歩道の方向に顔を向ける。メガネをかけた長身の男の人が、まっすぐこちらに歩いてきていた。
 一瞬フリーズして、それから、「えっ?」また素っ頓狂な声を上げる。しまった、失礼だ。素早く手で口を覆う。ごめんなさい、だってまったく想像してなかった風態の人物だったから。どう見ても年上だし、声をかけられたの、人違いかと思ってしまった。でも明らかにこちらに向かってきているし、わたしたち以外に一般人はいないから、間違いない。
 彼の登場に間抜けたリアクションをしたのは当然ながらわたしだけで、園子ちゃんは「昴さん!」と声を弾ませ、蘭ちゃんとコナンくんも普通に迎えている。本当に顔見知りなんだなあ。


さん、この方は沖矢昴さん。東都大学の院生さんで、今は阿笠博士の隣の家に住んでるの」
「はじめまして、沖矢昴と言います」
「は、はじめまして!です。よろしくお願いします」


 見るからに知的な雰囲気を醸す彼にうろたえてしまう。未だに衝撃を受け止めきれていないわたしは、親切そうな笑顔へ向けてとにかくお辞儀をしてみせた。東都大学の院生さんの知り合いまでいるって、園子ちゃんたち、本当に顔が広いんだな。どこで知り合ったんだろう、やっぱり阿笠博士繋がりかな。


――あれ?阿笠博士の隣に住んでる?おきやさん?


 ガバッと顔を上げる。高い背、濃いめのミルクティーのような綺麗な茶髪、黒いメガネの向こうに見える細い目、寒がりなのか、首がしっかり隠れるハイネックを着ている。初めて見る人で間違いない。でも、わたし、この人のこと知ってる。
 フラッシュバックしたのは、夜、彼の家の前、スーツを着た男の人たち。阿笠博士の家の陰に隠れ息をひそめる。落ちた携帯。それを拾った――。


「じゃ、行こっか」
「うん」


 園子ちゃんと蘭ちゃんの先導で一行が移動を始める。どうやら正面の自動ドアからじゃなくて、別の入り口から入るようだ。彼女らに続いてコナンくんと沖矢さんがついていく。遅れて、最後尾につく。先ほどまでちょうどいいと思っていた空気が、次第に肌寒く感じる。どっどっと心臓がさわぐ。
 沖矢さんって、あの日、安室さんがわたしに内緒で当たった依頼の関係者だ。安室さんが沖矢さんの家から出てきたことを知っている。結局どういう依頼内容だったのか、沖矢さんがその件でどんな立場だったのかはわからない。ただ、安室さんがスーツの男の人たちへ指示を出していた中に、拳銃なんていう、物騒な言葉が出てきていたのは覚えている。明らかに事件性のある依頼だった、と思う。そんな件に関わっていた沖矢さん、何者なんだろう。
 すごく気になる。正確にいうと、気になるのは沖矢さんの立場ではなくて、安室さんが引き受けた依頼内容そのものなのだけど。沖矢さんに聞いたら教えてもらえるだろうか。探りを入れるくらいなら、大丈夫かな。
 自然と呼吸が、ひそめるようにぎこちなくなる。何者かにつぶさに監視されているような気分になる。わかる、この感覚は、悪いことをしようとしてるときの感覚だ。


さん?」
「えっ?」


 顔を上げる。後ろを振り返ったコナンくんに声をかけられたらしい。首筋の違和感でようやく、へし折れるんじゃないかってくらい俯いていたことに気付く。思いっきり考え事をしていた。コナンくんの隣を歩く沖矢さんもこちらを振り返っている気がするけれど、勝手に後ろめたくて顔を見られない。


「大丈夫?具合悪い?」
「だ、大丈夫だよ!あはは」


 究極的に下手くそなごまかし方で笑ってみせる。これじゃあ逆に気にしてほしいと言ってるようでよくないよ。二人から目を逸らし、なんとか別の話題を、と頭を回転させ、あっと名案を思いつく。


「そういえば沖矢さん!」
「はい?」
「前に、あの、クール便の件ではありがとうございました!機転を利かせてコナンくんたちに携帯を預けてくれたって聞きました」


 そういえば、最初に沖矢さんの存在を知ったきっかけがそれだった。ときどき思い出しては、すごい連携プレーだったんだな、としみじみ感嘆していた。身に覚えのない荷物を受け取って、伝票に仕込まれたSOSを読み、集荷の配達を依頼する。何の事情も知らなかった沖矢さんがとっさに取った行動は、とてもできるわざじゃない。わたしなら絶対できない。安室さんなら、できてしまうだろうか。もっとも、安室さんは違う方法でわたしたちを助けてくれたのだけれど。


「ああ……いえ、とんでもない。機転を利かせたのはコナンくんですよ」
「あはは…」


 沖矢さんが苦笑いするコナンくんを見下ろす。伝票に状況を書き込んだコナンくんの行動あってこそだという意味だろう。確かに、一理ある。でも沖矢さんの頭の回転が速いことには変わりない。

 安室さんが依頼を内緒にしていたことは、翌日にコナンくんにも話している。だから、もしかしたらコナンくんから沖矢さんに話を振ってくれないかな、とずるい期待をしたけれど、彼の口からその話題が出てくる気配は微塵もなかった。目論見が外れたことで、自分の意地汚さが露呈したような羞恥が湧く。じっとしてられなくなって、気を紛らわせるように、大きめに溜め息を吐く。
 だいたい、安室さんはわたしに何としてでも隠したがっていたんだ。依頼を受けていたことがバレても、詳細は一切口にしようとしなかった。そのくらい確固たる意志があるのに、わたしがほじくり返すのはよくないことだ。それこそ安室さんに対する裏切り行為に他ならない。わたしが詮索することに、安室さんは決していい顔をしないだろう。もしかしたらあの夜みたいに傷つけてしまうかもしれない。それは嫌だから、何も触れないのが、本当はいいんだろう。
 人知れず、はあと溜め息を吐く。考えるのはやめよう。知らないふりをすればよかったって、後悔したじゃない。それに安室さんが、次からはちゃんと教えるからって言ってくれたの、信じてないみたいになってしまう。

 そういえば、依頼を受けたとき、安室さんは偽名を使っていたんだっけ。コナンくんや園子ちゃんが沖矢さんにわたしのことをどう説明しているかわからないけれど、もしかしたら「安室さん」の顔はまだ知らないかも。偽名だってことがバレたらまずいから、下手にわたしから安室さんの名前を出して「家で会った探偵」と「安室さん」が同一人物だと気付かれないようにしないと。発言には細心の注意を払おうと決意を込め、口元を引き締め前を向く。
 同じく進行方向を向いていると思っていた沖矢さんが、横目でこちらを見ていた。ちょっとびっくりして目を丸くすると、彼はにこりと微笑んだ。優しそうな、柔和な笑みだ。悪い人には到底見えない。


top /