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「ごちそうさま!」


 パンと乾いた音と共に聞こえたあいさつに水仕事の手を止め顔を上げる。カウンター席に座る園子ちゃんが、満面の笑みで両手を合わせていた。それから、隣で同じポーズをする蘭ちゃんと顔を合わせる。揃って口角を上げて、二人ともご満悦そうだ。わたしも無意識に張っていた気が緩んで、クリーム色のエプロンの上からほっと胸をなでおろす。


「どれもおいしかったよさん!」
「ね。いつもポアロで食べてる料理と変わらず、おいしかったです」
「よかったー……ありがとう二人とも〜!」


 カウンター越しに、二人がしたのとは違う意味で両手を合わせる。園子ちゃんたちの目の前に並べられた四つの取り皿はどれもきれいに空になっており、完食してくれたことは一目瞭然だった。オムライスやミートスパゲティなど、通常の量の五分の一程度ではあれど、ポアロの定番のフードメニューをほぼ網羅する品数だ。夕飯前のお腹にそれらすべてを入れてもらうことに申し訳なさを感じたのは本当だけれど、お客さんのいないタイミングで来店した二人に、天啓だ!とつい頼んでしまったのだ。快く承諾してくれた二人にはもう足を向けて寝られない。


「本当に助かったよ、ありがとう…!」
「いえ、わたしたちもラッキーだったよね」
「ね!ポアロのご飯全部食べられるなんてねー」


 スイングドアを通って客席に出、二人分の取り皿をトレンチに乗せていく。蘭ちゃんたちはよくここに来てくれる、いわゆる常連と呼べるお客様だ。今日みたいに学校の帰りに寄った日は、ドリンクと、ときどきデザートを注文するけれど、休日に来店したときはフードメニューを頼むこともある。特に蘭ちゃんは毛利家総出で朝のモーニングセットを食べに来たりしてくれるから、ポアロの味はよく知っていることだろう。
 顔見知りで頼みごとをしやすい関係性であることも相まってのお願いだったけれど、やっぱりこんな時間に食べさせる量じゃなかった。後ろめたさから、片付けが終わるなりいそいそとカウンターに戻り、小皿やカトラリーを流しに置いていく。
 でも、背に腹は変えられなかったのだ。以前からポアロではわたしの調理デビューを実現すべく、安室さんを始め従業員総出でレクチャーをしてくれていた。プライベートでの料理ならまだしもお金との対価に提供するとなると腰が引けて仕方なかったわたしは、安室さんたちの明快な指導を真剣に見聞し、こつこつと練習を積み重ね、何度も三人に試食をしてもらった。数ヶ月の時間が過ぎこの間、もう十分だとマスターのお墨付きをもらったものの、受け入れられず躊躇していたわたしは、最後の関所として別の人に試食してもらいたいと進言したのだった。
 きっと従業員の三人は、わたしの作った料理に舌が慣れてしまって良し悪しのラインが曖昧になっているんだ。わたしがいる日の従食が、強制的にわたし作のご飯になるから。安室さんも最初のほうは困った様子で食べてたのに、大して上達もしないうちから何食わぬ顔でお礼を言って食べてくれるようになっていた。アドバイスをするときも傷つけまいとしてくれるのが伝わって、ありがたいやら申し訳ないやら、情けない気持ちでいっぱいだった。
 梓さんもマスターも丁寧に教えてくれるし褒めてくれるから、おかげでわたしの心は凹むことなく完璧に守られていた。しかしながら独り立ちしても大丈夫という自信はついぞ持てず、だからこそ三人以外に最後のチェックをしてもらいたかった。少年探偵団や大学の友達など、ここに呼べる知り合いの当ては何人かいたけれど、実行に移す前に蘭ちゃんたちが来店したのだ。これ幸いとお願いし、快諾してくれた優しい二人に腕をふるって料理を作った次第である。終始おいしそうに食べてくれた二人の家の方角へは、今日寝る前にお祈りを捧げよう。


「さすがにお腹いっぱいになっちゃったね」
「なんの、まだまだいけるわよ!なんたって今日はアレを食べに来たんだからね」


 背もたれに寄りかかりながらお腹をさする蘭ちゃんに、園子ちゃんがウインクをしてみせる。「お腹が落ち着くまでゆっくりしていってね」彼女の指示語の意味を知っているわたしはそう言って、キッチンに置いてある白いケーキストッカーに目を移した。最近置き始めた、ここでは一番新しい電化製品だ。中にはまだ半ホール残っている。
 そう、何を隠そう今日二人が来店した目的こそが、最近常連客の間でまことしやかに話題になっている、安室さん特製のショートケーキなのだ。なんと安室さん、わたしがフードメニューの特訓をしている間に、僕も何か作ろうかなと新メニューの製作に取りかかっていたのだ。彼の入念な試行錯誤を経て出来上がったオリジナルケーキは、卵を多く使った生地と甘すぎない生クリーム、ストロベリーソースが上品にマッチしてとんでもなくおいしいと、瞬く間にポアロの人気メニューとなっていた。あまりの評判に、恒常的に提供できるよう安室さんがいない日や早朝に対応するべくケーキストッカーまで導入されたほどだ。安室さんのポアロへの功績たるや、わたしの働きなぞ足元にも及ぶまい。
 安室さんのケーキとわたしのフードメニューの試食で、ここ最近はシフトに入るたびお腹いっぱいだったなあ。蘭ちゃんたちの食休みのご歓談を小耳に回顧にふけっていると、おもむろに裏口のドアが開いた。今日は安室さんがお休みで、マスターは事務室で経理の仕事をしている。だから、戻ってきたのは遅い昼休憩を取っていた梓さんで決まりだ。
 従食のお皿を持って戻ってきた彼女は、蘭ちゃんたちのテーブルが片付いていることに気付くと、あら、と表情を明るくした。それから、わたしの手元で洗い途中の取り皿を目に、にこりと笑みを浮かべる。


「合格をもらえたみたいね!おめでとうちゃん!」


「ありがとうございます〜…」梓さんからの言葉に安堵が再度込み上げてきて、かっこつけることもできず、へなへなと口元が緩んでしまう。浮かれて手を滑らせないよう、泡立てたスポンジで洗った小皿を慎重に重ねる。梓さんに祝われて嬉しい気持ちにならないわけがない。本当に、わたし幸せ者だなあ。


「そうだ!さん、波土禄道って知ってる?」


唐突な質問は園子ちゃんからだった。顔を上げ、彼女の期待にも似た爛々とした表情に首を傾げる。……はどろくみち?


「ミュージシャンの?」
「そうそう!ウチら、金曜の夕方にライブリハの見学に行くんだけど、さんも来ない?」


「今日のお礼に!」身を乗り出す勢いの園子ちゃんに目を丸くする。なんたって、お礼するべきはわたしのほうなのに。
 園子ちゃんの心遣いは素直にありがたかったし、なかなかない機会に純粋に興味も湧く。行きたい!と口をつきそうになって、慌ててぐむっと噤む。
 よく考えなくてもわたし、金曜日は夕方まで講義入ってるんだよなあ……。早くても帰るのは七時を過ぎてしまう。学期初めにサボるわけにもいかないしなあ。残念だけど、断らないといけなさそうだ。せっかくのお誘いに申し訳なさから眉尻が下がる。
 それから、ふと思い出す。……いや?そういえば初回の講義で、今週は休講だって言ってたっけ?そうだ、間違いない!ということは、四限で帰れる、から、間に合うのでは?!


「たぶん行ける!」
「よかったー!じゃあ決まり!」


 楽しそうに手を合わせる園子ちゃんにありがとうと頷く。ラッキーだなあ、運良く休講になっててよかった!タイミングの良さに教授へ感謝の言葉を述べたくなる。ライブのリハーサルなんてそうそう見られるものじゃないし、波土禄道といえば有名なロックミュージシャンだ。そういえば近々ライブをやるってCMを見た気がする。確か先週くらいのニュースに、ライブで新曲を披露するみたいなことも書いてあった。あれ、でも引退の噂があるのもその人じゃなかったっけ?別のミュージシャンだったかも。とにかく、結構話題性の高いライブなのではないだろうか。ミーハーは否定できないけれど、俄然興味深い。園子ちゃんは鈴木財閥のご令嬢らしいから、その関係で縁があったりするのかな。いやはや、人脈すごいなあ。


「あっ。このこと、安室さんには内緒ね」
「安室さん?」
「梓さんも、ね!」
「ええ…」


 口の前で人差し指を立てる園子ちゃんと、曖昧に笑う梓さん。交互に見比べても唐突に上がった名前に意図はちっとも察せない。
 不在の彼を、ぼんやり思い浮かべる。安室さんに秘密にする理由って何だろう。思案するも、あまりいい可能性が思い浮かばず眉間に力が入ってしまう。見学の人数が決まっていて、安室さんが行きたがっても参加できないからとかかな。でも安室さん、誘われたならまだしも、自分から行きたがる人じゃない気がする。むしろお出かけに誘ったって丁重に断られることのほうが多いというのに。ましてやライブだ。安室さんの口から、波土禄道はおろか、音楽の話を聞いたことがないのでいまいちピンとこない。
「ウチらも洋服決めないとね!明日とかどう?」「何言ってんの、明日は掃除お願いしてるでしょ?ほら、新一の家の……」「あー、あれ明日だっけ」女子高生二人の安穏とした会話を聞きながら、こちらにやってきた梓さんからお皿を受け取る。「ごちそうさま。おいしかったわ」毎回必ず言ってくれるお褒めの言葉に、にやっと口角が上がってしまう。特訓は今日までになるなら、従食担当もお役御免だろう。でも梓さんたちが褒めてくれるならまだ続けてもいいかもなあ。邪な原動力を胸に潜め、洗い物を再開させた。

 蛇口を閉め時計を確認すると、そろそろお客さんが増えてくる時間帯に差し掛かっていた。さっさと片付けて夜のピークに備えなければ。乾布巾を取ろうとハンガーに目を向けると、いつもそこにある布巾が一枚もなかった。そういえば最後の一枚を洗濯かごに入れてしまった。新しいのを出そうと、後ろの戸棚に振り返る。
 ふと、ついこの前まであった、電化製品のカタログがなくなっていることに気がついた。それが置いてあった棚台に目を落とし、付近にも見えないことを確認しながら、近くにいるだろう梓さんに問いかける。


「梓さん、電気ポット、結局どれにしたんですか?」


 ここ最近、梓さんとマスターがそれの購入を検討していたのはアルバイトのわたしたちも知っている。なんでも、ポアロの給湯器は年季が入っており、開店前はすぐにお湯が出てくれず不便を感じているのだそうだ。問題解決のため、店の備品として電気でお湯を沸かせるポットを置こうという話になり、カタログを見てはどれがいいかみんなで話していた。
 カタログには付箋がいくつも貼られ、実用性とデザイン性を鑑みどんどん絞られていった。候補は最終的に三つくらい残っていたけれど、ここにないということはもう決まったのだろう。梓さんはしゃがんだ体勢のまま、キッチン下の収納スペースからフライパンを選びながら、ああ、と顔を上げた。


「銀色の、ノズルが細長いポットよ。おしゃれかなって」
「ああ、あれですか!」
「それに、家から電源を入れられるんだって。便利よね」
「へえー、そんなことができるんですか。届くの楽しみですね」
「ええ」


 にこりと微笑む梓さんはそれから立ち上がり、「夜の仕込み、手伝ってくれる?」と問うた。反射的に、うっ、と一瞬ためらって、いやでも、と振り切る。「はい!」勢いだけで返事をすると、梓さんもフライパンを片手に嬉しそうに笑った。お誘いは梓さんの心遣いだとわかっていたので、無下にしたくなかったのだ。梓さん、明るくて優しくて、大好きだから。


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