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 事情聴取や待機時間を過ごすうちに事件発生当初の動揺は薄れ、今ではカウンターに立って受付の仕事をする気力が戻ってきていた。安室さんたちはときどき現場を見に行ったりしていたようだけれど、一通り調べ終えた今は蘭ちゃんたちも含め五人ともロビーに集まっている。


「何ィ?!凶器が見つからない?!」


 声を上げる目暮警部に自然と視線が行く。依然難航する捜査に、先の見えない不安感が積もり続けていた。警部に対し高木刑事は、スタジオやごみ箱、トイレの排水溝まで隈なく探したものの、ヒモ状の凶器は出てこなかったと報告した。先ほど、高木刑事にギターや使用済みの弦を調べたいと言われ引き渡したことを思い出す。見つからないのはどう考えてもおかしい。そんなわけがない、だって彼女たちは、わたしが山路萩江さんを最後に見てから屋外へ出ていないのだ。隠したり処分するにしても、必ずこの店にあるはずだ。

 正面の自動ドアが開く。新しいお客さんが来たのだ。事件が起きたあとも表向きは通常通り営業をしているので、今もスタジオではバンドグループが演奏の練習をしている。わたしも予約簿のファイルを開き、来店した二人組の男性客の当てをつける。
 しかし、もっと念入りに探せと指示を出した目暮警部が個室のほうへ、高木刑事は地下の休憩所へ降りていくのを横目に、男の人たちはにやにやと笑いながらこちらに向かってくるではないか。嫌な空気を感じ取り、顎を引く。


「ね、何かあったんスか?」
「表にパトカー止まってたけど、事件?」


「え、えっと……」予想通りだ。人の一大事に対する不謹慎な態度に嫌だなと思ってしまうけれど、この人たちはここで人が亡くなったとまでは知らないのだから、嫌悪感を抱くのはお門違いなんだろう。わたしは曖昧に頷いて、今日は新規の利用ができない旨を伝えた。事前に予約を受けていたグループはいいと言われているけれど、男性二人の予約は入っていなかった。予約簿を抱き込む腕に力が込もる。


「えーそうなの?残念。で、何があったんスか?」
「ケンカ?強盗?もしかして殺人とか」
「教えてくださいよー」


 軽いノリで追及してくる彼らに心臓が鈍く痛む。愛想笑いを崩さないよう努めるので必死だった。シャレにならないこと言わないでよ、早く帰ってくれ……。
 念じながらどう答えるべきか迷っていると、ふっと、左方向から伸びてくる腕が視界に入った。その主を目で追うより先に、人差し指が、わたしの抱きかかえていた予約簿の背表紙を、上から、コン、と叩いた。


「スタッフさん。これ、見させてもらえますか?」


指先から辿るように顔を上げる。――安室さん。


「あ……」
「捜査に必要みたいなので」


 何食わぬ顔でカウンター越しにわたしを見下ろす安室さんは、きっと救世主に違いない。あえてこの場の空気を読まずに割って入ってきてくれたことに心は歓喜で震える。ためらうことなく予約簿を差し出すと、彼はありがとうございますと片手で受け取った。「早く解決するといいですね。こんな痛ましい事件」わたしに向かって話しながら男性客を横目で見遣る安室さんは、口元こそ笑みを浮かべてはいたけれど、眼差しはキンと冷えた温度だった。


「あ、じゃあ、また今度来ますわ…」
「さよならー…」


 そそくさと店を出て行く二人を見送り、自動ドアが閉まったところでほっと胸をなでおろす。助かった……。


「ありがとうございます安室さん〜…」
「君、ああいう人をあしらうの苦手だな」
「じ、実は。困ってしまいました」


 苦笑いで肩をすくめる。安室さんも仕方のなさそうに笑って、たった今受け取った予約簿を返してくれた。本当に捜査に必要なのかと思ったけれど、いらないみたいだ。いやあ、かっこよかったなあ、それで、優しいなあ……。


「どうしたの?世良ちゃん」
「今の人たち怪しんでるの?」
「あ、いや……ギターケースを背負ってる人を見ると、思い出しちゃうんだ」


 安室さんへの憧憬の念を強めていると、少し離れたところでは真純ちゃんが思い出話を始めるようだった。感慨深げに語る声に、自然と意識が向く。
 何でも四年前、駅のプラットホームにギターケースを背負って佇むお兄さんを偶然見つけた彼女は、どうしてもお兄さんのギターを聞きたくて追いかけたのだという。ところが、何度か電車を乗り換えあとをつけたものの、披露する場所に着く前に駅のホームで見つかり、帰れと怒られてしまった。
 真純ちゃんの帰りの切符を買いに行ったお兄さんを待つ間、彼女はお兄さんの連れの男の人にベースを教えてもらった。真純ちゃんがバンドでベースを担当するのは、そのときドレミの弾き方を教えてもらったからなんだそうだ。ただ、お兄さんと連れの人が純粋な音楽仲間なのかは定かじゃなく、その理由は、ベースを出したあとのソフトケースが形を崩すことなく柱に立てかけられていたことから、ベースはカムフラージュで、別の硬い何かを入れていたんじゃないかと、暗に音楽以外の別の目的を持って一緒にいたんじゃないかと真純ちゃんは推測しているらしい。まだ中学生だったのに、そんなところを疑問に思うなんて、視野が広いんだなあ。感心してしまうよ。


「その人の名前聞いた?」
「いや、聞いてないけど……そのホームに来た別の男が、その人のことをこう呼んでたよ」


「スコッチってね…」予想外の呼び名にえっと目を剥く。てっきり日本人の男性を想像していた。とはいえ、真純ちゃん曰くその人はどう見ても日本人だったから、あだ名だったんだろうとのこと。


「でもさ……彼をそう呼んだその男、帽子を目深に被ってたから顔はよく見えなかったけど、似てる気がするんだよね…」


 真純ちゃんが、おもむろにこちらに目を向けた。話に入らないで盗み聞きしてるみたいかも、と今さら申し訳なくなり、つい肩をすくめる。まるきり杞憂だったのだけれど。


「安室さん、アンタにな!」


「えっ?」今度は声に出てしまう。目を見開き、カウンターに寄りかかっていた安室さんを見る。真純ちゃんの思い出に安室さんが出てくるとは思いも寄らなかった。意外な接点があったんだと度肝を抜かれたものの、当の安室さんは驚いたようなリアクションを一切見せず、腕を組んだ姿勢のまま顎を引いた。


「人違いですよ。そんな昔話より、今ここで起きた事件を解決しませんか?君も探偵なんだよね?」


 またもや新情報に驚く。「ま、真純ちゃん、探偵だったの?」我慢ならず口を出してしまう。そういえば彼女、事件が起きた当初から捜査に立ち会っていた。悲鳴を聞いて駆けつけもしていた。どれもこれも、探偵だからと言われたら納得だ。
 当然のように肯定した彼女は、しかし依然、安室さんを注意深く見つめていた。まるで、昔安室さんと会ったことについて、自分の記憶を確信しているようだ。ついカウンターへ身を乗り出し、口を手で囲いながらひそひそ話の声で安室さんへ問う。


「安室さん、本当に覚えがないんですか?」
「ないな。彼女とは今日初めて会ったはずだよ」


「彼女はああ言っているけれど、もう四年前のことだし、記憶違いだろう」カウンターに寄りかかったまま、安室さんも顔を少しだけこちらに向ける。声は潜めていたけれど、歯切れはいつも通り良い。安室さんも真純ちゃんとは初対面であることに自信があるみたいだ。
 安室さんの記憶力を疑う余地はないけれど、でも、それこそ思い違いをしている可能性はある。四年前の真純ちゃんの見た目が今と大きく違っていれば、安室さんがあのときの子供と今の真純ちゃんを別人だと思ってしまっているかもしれない。それに比べて……。


「でも安室さんに似てる人なんて、そうそういないと思いますけど…」
「肌や髪の色に特徴があるだけだろう。逆にいえば、それさえ合致してしまえば顔立ちなんて些末な問題になる」


 目を細めてそう言った安室さんは、視線をわたしから逸らし、床に落とした。どこか自虐的に聞こえた分析に、口を閉ざすほかなくなる。だってあまり触れられたくなさそう。
 安室さん、自分の外見にコンプレックスがあるのかな。今まで一度も聞いたことがなかったし、誰がどう見ても目を惹く整った容姿をしているから、それを本人が好ましく思っていないかもしれないなんて、考えたこともなかった。だとしたら、わたし、無意識に安室さんを傷つけてたんじゃないかな……。日常的に安室さんの外見を褒めているから途端に不安になってしまう。安室さんは見た目もかっこいいし言動もかっこいいから。


「……あれ?そういえば安室さん、わたしとコナンくんが誘拐された事件のとき、真純ちゃんと会ったんじゃないんですか?」


 ふと気付く。よくよく思い返すと、あの日、わたしが脳震盪を起こした原因、真純ちゃんのバイクの巻き添えを食ったことを教えてくれたのは安室さんだった。気絶したあとの状況がどうだったのかはわからないけれど、現場に居合わせた二人が面識を持っていてもおかしくない。と思ったけれど、安室さんは、ああ、と首を傾け笑うだけだった。


「気絶したをすぐタクシーに乗せたから、顔は合わせなかったよ。あのバイクを運転しているのは蘭さんの友人だとだけ聞いてね」
「そうだったんですね…」


 どうやら本当に二人は初対面らしい。それによく考えたら、四年前の件は中学生の真純ちゃんだけじゃなく、スコッチさんという知り合いと一緒にいたという情報もあるのだから、思い違いをしていたとしてもすぐ気付くかあ。じゃあやっぱり、真純ちゃんの人違いなのか。


「あの事件といえば、目暮警部が言っていた若い女性の探偵って、彼女のことだったんじゃないかな」
「そんなこと言ってましたね!そっか真純ちゃんだったのか…!」


 その話を聞いたときはてっきり安室さんと歳が近い女の人だと思っていたけれど、若いも若い、まさか女子高生の探偵だったとは。浮気の心配が杞憂だったとようやくわかり、よかったと安堵する。真純ちゃんはどんな探偵なんだろう。この先もしかしたら、世良真純ちゃんという探偵の名が世に轟くかもしれないんだ。同業者として負けたくない気持ちはあるけれど、今日見てきただけでもわかる彼女の明るさと物怖じしない堂々とした佇まいに、応援したいと思うのも本当だった。……せらますみ、探偵……?


「あっ!」
「どうした?」
「思い出しました!安室さん、真純ちゃんって、ミステリートレインに乗ってましたよね?!」


「ミステリートレイン?」首を傾げる安室さんに頷き、事件が起きたとき、乗車している人の情報を得るため車掌さんから名簿を拝借したことを話す。あのとき、コナンくんと調査しているのがセラさんだと蘭ちゃんたちから聞いていたから、セラさんの名前を借りて部屋番号を調べてもらうため名簿を持ってきてもらったのだ。そうだ、彼女は気付かないうちに近くにいたんだ。


「そういえば、そんなこともあったな」


 思い出したと笑う安室さんもわたしと別行動で調査をしていたはずだけれど、どうやら真純ちゃんとは会わなかったようだ。毛利先生がトリックを見破り犯人を突き止めたときも、彼女の姿はなかったと言う。
が乗務員に突撃したときはハラハラしたな」当時を思い出すように言う安室さんに苦笑いする。ミステリートレインに乗った一日は、わたしが捜査中に居眠りをするという失態を犯したせいで苦い思い出になってしまった。けれど、安室さんがあんまり気にしてないのはつくづくよかったと思うよ。もう二度と居眠りなんてしまい、と固く決心はしているけれど、あのときだって寝ようとしたつもりがなかったので、正直明確な対策の取りようがないのが本音だった。


「一応言っておくけど」
「はい」
「乗客のプライバシーに関わる調査だったから、彼女の名前を借りたことは二人の秘密だよ」


 口の前に人差し指を立て、内緒のジェスチャーをする安室さん。ほらあ、見た目も言動もかっこいいんだよ〜!まともに食らって心臓に大ダメージを受けるわたしは、ぶんぶんと何度も頷くのだった。


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