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 弦だけでなく張り替えに必要な道具を友人の指示で揃えたあとは、例のお客さんが休憩所から上がってくるのを待つだけだった。さあ来たれと階段のほうを気にしているも、彼女が姿を見せたのは安室さんたちが降りていってから二十分以上経ったあとだった。その間にも山路さんやベースの人がそれぞれ上がってきていたので、長めの休憩なんだろうと思う。
 彼女はお礼を言い、早速張り替えるのだろう、スタジオへ戻っていった。時計を見遣り、それから受付票に目を落とす。彼女たちの利用時間は残り二時間を切っている。山路さんはスタジオに戻ったきり見ていないけれど、ベースの人はギターの人と入れ違いで地下に降りていったし、キーボードの人もずっと休憩所にいるはずだ。利用時間の使い方は自由なのでスタッフが気にすることではないけれど、防犯カメラの件もあって山路さんのグループはどうしても気になってしまう。

 しばらく受付が暇になるので、安室さんたちが入るであろう部屋を防犯カメラで監視することにした。少しでも早くご案内したいから、引き上げる気配があったら事前に会計ができるよう準備をしておいて、精算が済んだらすぐに清掃に入れるようにしよう。
 安室さんたちが部屋に入ったら、わたし、極力ここで覗き見してしまうかもなあ。声は聞こえなくとも、蘭ちゃんたちに教える姿は見えるだろう。ちょっとジェラシーを感じてしまうかもしれないけど、見えないよりはいいよ。立ちっぱなしの足がそろそろ疲れてきたので、カウンターに背中から寄りかかって、モニターを見上げる。休憩所にもカメラがついてたらいいのに。仕事に励む自分が、とても惜しいことをしている気分になる。溜め息が漏れた。



◇◇



「もー、いつまで寝てんだか……」


 複数人の足音が階下から聞こえてきたと思ったら、山路さんのグループが上がってきていた。とはいっても山路さん本人はおらず、彼女以外の三人が呆れた様子で受付の前を横切っていく。時計を見ると、彼女たちが休憩に入って四十分近く経っていた。そろそろ再開するのかな、と防犯カメラの映像を見る。相変わらず右半分が隠れた、無人の部屋が映っている。今更だけど、山路さんは部屋のどの辺りにいるんだろう。やっぱりドラムのところに座ってるのかな。
 やがて、映像に、今しがた前を通った彼女たちの姿がちらちらと映る。詳しくは黒い部分に隠れてわからないけれど、すぐ始める感じではないようだ。なんとなくドラムが置いてあった部屋の奥のほうに集まっている気がする。
 ベースの人が、カメラの視界にフレームインする。ドラムから離れるように、後ずさりした、ように見えた。


「きゃああああっ!!」


 突如響いた悲鳴にびくっと肩を震わせる。とっさに、聞こえてきた個室の方向を振り返る。それから、またモニターを見る。――今の、この部屋の人たちだ。
 何かあったんだ。一瞬躊躇ってから、カウンターを飛び出す。今店にいるスタッフはわたしだけだ。わたしが行かなくちゃ。怪我したとか、ドラムを倒しちゃったとか、そういうのかも。でも、突発的なハプニングに対する悲鳴とは違った気がする。じゃあ一体、と起こりうる事態に想像を巡らせながら突き当たりの部屋へ駆け出す。


!」
「?! 安室さん!」


 振り返ると地下の休憩所から安室さんが上がって来ていた。安室さんだけでなく、コナンくんと真純ちゃんもこちらに駆けてくる。足は止めることなく速度だけを落とすと、あっという間に三人が追いつく。


「今の悲鳴は?」
「こっちの部屋です!」


 一度指を差し、先導する。突き当たりの部屋はそう遠くもない。開けっ放しのドアはもう目の前だった。


「ちょっとこれ……死んでんじゃないの?」


 漏れ聞こえた声に、一瞬耳を疑った。ひゅっと息を吸い込む。誰かの人差し指で左胸をとんと突かれたような衝撃に足がもつれると、その隙に真純ちゃんとコナンくんに追い越され、彼女たちは部屋へ立ち入った。閉まっていた二枚目のドアを開ける彼女たちに続くように、安室さんと、自分も入室する。
 ドラム付近に集まった、今日だけで顔を覚えた四人の姿が目に飛び込んでくる。


「ちょっと萩江?!」
「ウソでしよ?!」
「萩江!」


 一心に呼びかける三人に囲まれ、ドラムに座り寄りかかる山路さん。目を見開いて、恐怖やショックの対象を目の当たりにしたような、愕然とした表情に見える。顔をスネアに乗せるようにもたれかかって、両手はだらんとぶら下がっている。どう見ても起きてるはずなのに反応がない、と視覚から得た情報を整理する脳の別の部分で、非常事態を知らせる直感が、全身を粟立たせた。


「君は見なくていい」


 異様な光景に放心するわたしを後ろへ押しやるように、安室さんが彼女らに歩み寄る。目の前の彼の背中によって視界を遮られ、山路さんの姿が見えなくなる。そうなってようやく我に返る。「すみません、離れてください」声をかけていた三人を遠ざける安室さんたちから目を逸らし、床を見つめたまま、二、三歩後ずさる。……山路さん、もしかして、本当に。


「首に吉川線…」
「絞殺だな…」


 それから、わたしに振り返った安室さんがどんな表情をしていたのかはわからない。「、受付に戻って警察に連絡をしてくれ」とにかくわたしは、彼の言葉が脳に届くなり、弾かれたように、来た道を駆け戻っていた。
 カウンターに身体を滑り込ませ、壁沿いの棚に置いてある固定電話の子機を掴み取る。今日は一度も触ってないけれど、前に予約の電話を受けたことがある。一般的な子機だから使い方も難しくない。なのに、両手で包み込むそれの、どのボタンをまず押せばいいのか、指はさまようばかりで、挙げ句の果てに手を滑らせ床に落としてしまった。慌ててしゃがんで拾う。両手が震えていた。指先が急速に冷えていく。

 山路さんが、亡くなった。つい数十分前まで生きていた姿をこの目で見ている。あの個室へ戻ったのも見た。それがなんで、あんなことに。
 人が亡くなったという事実と、変わり果てた山路さんの姿と、この店に確かに存在した見えない殺意が恐ろしかった。まるで今も、わたしの背中をよく研がれたナイフが狙っているような、得体の知れない恐怖に襲われる。

 もたつきながらも警察に連絡をし終えたタイミングで、安室さんを含め部屋にいた全員が戻ってきた。通報した旨を伝えると、安室さんは短くお礼を述べたあと、「あの部屋の防犯カメラの映像を見せてくれ」と頼んだ。
 二つ返事で了承し、レコーダーの前にしゃがんで操作する。さっき散々いじったのにびっくりするほど手こずりながら、彼女たちの部屋を全画面で表示させることに成功した。パッと画面が切り替わる。

 右半分が黒く塗り潰された映像が映る。瞬間、冷水を浴びせられたかのように、全身が凍りついた。


「おい、なんだよこれ?!」


 背後に立っていた真純ちゃんの声が耳を通り抜けていく。だから、なんでこんなに察しが悪いのか。

 間抜けなわたしは呆然としながら、ようやく、なぜ安室さんたちが映像を見たいと申し出たのかを理解していた。そして、他ならぬ自分の罪も。


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