101 それも、本来部外者立ち入り禁止のカウンターの内側に立って、店の予約簿である厚さ三センチ程度のA4の黒いリングファイルを、のん気に開いたまま手の上に乗せている。その体勢で、一緒に受付に立つ、そわそわと落ち着かない様子で袖を捲っては腕時計を確認している友人を見つめる。 託されたファイルには、今日を含め二週間分の予約がまとめられていた。今日は平日にもかかわらず開店からみっちり予約が入っていたようだ。素人のわたしにはこのスタジオが具体的にどう良いのかはわからないけれど、お店は繁盛しているらしく、部屋の空きが出るのは夕方以降だそうだ。つまり当分は当日の受け付けをすることはない。だから、そこまで不安はなかった。 申し訳なさそうな表情のまま彼女が顔を上げる。帰りの身支度は済んでおり、すぐにでもここを発てそうだ。 「今の時点でわからないことはある?」 「ううん。今までとおんなじ感じでいいんだよね」 最後の確認をすると彼女は頷き、大丈夫だよと答えた。なら平気。はっきりと笑顔で意思表示をしてみせる。 茶髪の襟足がうなじを隠すふわふわしたパーマと細い目で柔らかい印象を与える大学の友人は、この貸しスタジオのバイトスタッフをしている。大学に入学したと同時に働き始め、約二年半に渡り真面目に勤めあげた彼女は、今では他のスタッフさんからの信頼も厚い。ちゃきちゃきしているというよりほんわかした人柄なので好かれやすく、顔なじみの常連さんもたくさんいるらしい。 そんな彼女の職場の、それも関係者の領域になぜわたしがいるのかというと、いわゆるお手伝いをお願いされたからに他ならない。 「本当にごめんね。何かあったら私か店長に連絡してね」 「うん!多分大丈夫だよ」 ぐっと親指を立てサムズアップしてみせると、彼女は眉尻を下げて申し訳なさそうに笑った。それから最後に、首に提げていたスタッフ用のネームプレートを外し、わたしに託したのだった。 彼女のお手伝いとして受付に立つのは今日が初めてじゃない。去年どうしても人手が足りずお手伝いを頼まれてから、何度か駆り出されたことがあるのだ。この貸しスタジオでの受付業務は通常一人で回すようシフトが組まれるけれど、事前に繁忙やイレギュラー対応が予定されているときは臨時で応援をつけることがあるらしい。もちろん駆けつけるのは他の社員やアルバイトのスタッフであるべきなのだけれど、どうしても調整がつかないと頼みの綱として声をかけられることがある。同じクラスの友達のお願いとあらば、何も知らない素人だろうと馳せ参じたくなるのが人の性よ。もちろんと二つ返事で協力し、以来、最後の砦として応援を頼まれるようになって今回が四度目だった。そして今回が一番急で、一番無茶振りだ。 お昼を家で食べ、暇だからポアロに行こうと支度をしていたら、友人から電話がかかってきた。何かと思って出たところ、急用ができてすぐに新幹線に乗らないといけなくなったため店の受付を頼まれてくれないか、という趣旨だった。聞けば、急用というのはのっぴきならない事情で、それは早く行ってあげて!と思わず返してしまうほどの内容だ。ポアロに行こうとしてたのはお客さんとしてであって、仕事が入っているわけではない。ならばと了承し駆けつけ、友人から午後の業務内容を手短に引継ぎ、今に至る。 「それじゃあ、お願いします」 「いってらっしゃい。気をつけてね!」 カウンターの後ろにある扉を開け、スタッフルームへと消える彼女を見送る。とにかく、半日一人で乗り切ったらいい話だ。一人の受付は初めてだけど、なんとかなるだろう。今までも一緒にここに立っていた彼女にいろいろ教わったし、彼女がイレギュラー対応に追われて長い時間受付を外すこともあった。予約がほぼ埋まっているということは各個室の利用時間も決まっているということで、タイムスケジュールに頭を悩ませる心配もない。それに全員スタジオの利用経験があるとも聞いているから、初めての人に使い方を説明することもなさそう。あとは今まで経験したことを反芻させながら頑張ろう。 口元を真横に引き締める。友人が去ったことで、一人のフロントを心細く感じたのだ。気のせいに違いない。ぶるぶるとかぶりを振る。 イメージトレーニングが功を奏したのか、ピンチヒッターは予想外にも順風満帆だった。これまでの三回のお手伝い経験や普段の接客業務のおかげでスムーズに予約の確認をしたり会計を済ませていく。困ったお客さんがいないのもよかった。わたし以上にこの店のことを知っているバンドマンの皆々様が慣れたように応対してくれるのでとても助かる。常連さんに「新人さん?」と聞かれたときはギクッとしてしまったけれど。 そんなこんなで概ねのんびり仕事をし、夕方になろうとしていた頃、あれ?と気がついた。もう予約の時間が終わろうとしているにもかかわらず、部屋から出てこないお客さんがいるのだ。普通、時間内に片付けまで済ませてから受付で支払いをしてもらうことになっているので、この時間までフロントに来ていないのは変だ。 おかしいなと部屋番号と代表者の名前を受付票から探す。思わず顔を歪めてしまう。 「クラスの人だ…」 そこにあったのは見覚えのある男の人の名前だった。大学のクラスメイトで、彼がバンドマンだという話は友人から聞いたことがあるので知っていた。彼率いるバンドはこの店の常連で、二時間前に受付をしたときも「なんでさんがいんの?」と驚かれた。 ここを利用し始めたのがスタッフである友人に誘われたかららしく、二人はそこそこ仲がいい。けれど、彼特有の、いわゆるチャラさがあまりすきになれないわたしはいつまでも他人行儀だった。 スタジオで会うのは初めてだったけど印象は変わらない。苦虫を噛み潰したような顔のまま、どうするべきか頭を悩ませる。もう五分もしないうちに次の組が入る時間だ。まだ来店していないけど、お客さんが入れ替わるときには部屋の清掃をするから待たせてしまう。 ――もしや時間を超えて利用する気じゃないだろうな?!彼に対する印象の悪さから疑念が生まれてしまう。だとしたらトラブルになる前に確認しに行ったほうがいい。思い立ったわたしはすぐさま、受付票や個人情報の記載された予約簿を引き出しにしまい、カウンターを飛び出、そうとした。 「こんばんはー」 「! いらっしゃいませ!」 反射的に足を止めあいさつする。正面の自動ドアからお客さんが来店したのだ。女性四人はバッグの他に、大きめの楽器ケースを背負っている人もいる。女性だけで構成されたバンドの来店は今日初めてだったので、顔には出さないようにおおっと歓喜する。と、同時に嫌な予感がよぎる。 「四時から予約してる山路だけど」 営業スマイルを保持したまま、内心でうわああと頭を抱える。山路萩江さん。未だ空かない部屋の次の予約者だ。そりゃあもう時間だ、来て当然だ。慌てて受付の定位置につき、さっきしまったばかりの黒い予約簿を引っ張り出す。「山路さまですね」スタッフ然としながらも脳内は大慌てで、いかにして対応すべきか考えを巡らすも名案は浮かばなかった。受付票を記入する山路さんの山吹色のニット帽を視界に入れながら、ファイルの内側に挟んである時間割を確認するふりをする。 「はい。もう入れる?」 「は、あ、いえ、少々お待ちください」 「もう四時回るじゃん。前の人ら出てきてないの?」 山路さんの隣で眉をひそめた黒髪の人に、つい肩をすくめてしまう。そうなんですって包み隠さず言っていいものなのかな、だめだよね、と自問自答して、その、と曖昧に苦笑いを浮かべる。一旦地下の休憩所にご案内して、部屋の確認をしに行くしかない。思い、彼女たちを正面から見据える。 「も――」 「さーん、終わったよ」 ぎょっと左方向を振り返る。問題のバンドが、奥の部屋から出てきていた。ここのスタジオは入り口から受付を横切ってまっすぐ進むと奥にいくつかの部屋があり、彼らが借りていたのは突き当たりの個室だった。部屋番号が頭の中でパッと浮かぶと同時に、あっ、はい、と返事をする。とりあえずすぐに会計して清掃しよう。地下に行ってもらわなくて済みそうだと、顔には出さず安堵した。 「またあんたたちかよ!いい加減にしな!」 山路さんの怒鳴り声にびくっと肩を揺らす。来店のときからちょっと不機嫌そうだと思ってたけど、まさか火山が噴火するみたいに怒るとは。クラスメイトに噛みつく勢いの彼女。予想外の事態に思わずフリーズしてしまう。 「はあ?ちょっと過ぎただけでキレんなよババア」 「周りに迷惑かかる使い方してんじゃないよ!こっちだって金払ってるんだからね」 「まあまあ、萩江……」 ハットを被った小柄な女の人がなだめてくれたおかげで、なんとかその場は収まったようだ。山路さんは不機嫌そうに舌打ちし、彼らの横を通り抜け個室の方向へ歩いていく。「せ、清掃がまだ…」完全にへっぴり腰のひょろひょろとした声をかけたものの、黒髪の女の人に「いいよ、時間もったいないし」と断られてしまう。 「それよりギター借りられる?」 「えっ、は、はい」 予約簿には楽器のレンタルのことは書いてなかったけれど、急遽借りたくなったのだろう。彼女の荷物に楽器ケースはなかった。後ろにあるギターから一つ選んで大事に渡すと、彼女はどうもと言って受け取るなり、残った二人と一緒に山路さんを追いかけていった。 「ほい。どーぞ」 残ったクラスメイトを含む三人のバンドメンバーは、悪びれる様子もなく伝票をカウンターに置いた。それに目を落としながら、尖りそうな口元を必死に抑える。確かに彼の言う通り、大目に見ることのできる程度の利用時間だ。でもそれは混雑してないときの話だし、三人の態度を見ていると、延長料金払え!と言いたくなってしまう。 「利用時間内に片付けまで終わらせてください……」 もちろん強い言葉を口にする勇気はないので、精一杯の苦言を呈す。語尾は尻すぼみになって、聞き入れてもらえたかは定かじゃない。はーい、とやっぱり響いてなさそうな返事をされ悔しい気持ちになりながら渋々レジに数字を打ち込んでいく。 「つかあのバンド、ボーカル死んだのにまだ続けてんだな」 それを言ったのは、クラスメイトの後ろで携帯をいじっていた同い年くらいの男の人だった。一瞬、手を止めてしまう。クラスメイトがバンドメンバーに振り返る。 「じゃー、今誰がボーカルしてんの?」 「知らね」 「ドラムだけはねえな」 三人の心ない笑い声がフロアに響いて、いよいよ気分が湿ってくる。聞きたくない。早く帰ってほしい。実現させるには手早い会計しかない。思い、いつもより強い力でボタンを押していく。自分の顔が今どうなっているのか、気にしていられなかった。 彼らが退店し、声が聞こえなくなると気分は幾分かマシになった。時間帯的にも新しいお客さんが来ることもなく、一人穏やかな空間であると言えた。 あのクラスメイトは、相変わらず軽薄そうな人だった。性格の合う合わないじゃなく、人としてすきになれないかもしれないと思ってしまった。大学の同じクラスとはいえ、必要がなければほとんど関わらないから今まで表面しか知らなかったけれど、ちょっと知ったってこの有様だ。第一印象って意外と当てになるんだなあとしみじみ思う。 ほんとうに、あの人たち、安室さんを見習ったほうがいいよ。時間は守るし人の死を笑わない。当然のことだ。でも人として当然のことができるのって、すごく大切だけど、ときに難しいことだ。安室さんはそれができる、とても誠実な人だ。 でも、誠実な人でも隠し事はする。それをわたしは肝に銘じなければいけない。当たり前のことなのに、浅はかだから、いちいち追及してしまう。自分のことを棚に上げて責めてしまう。よくないことだ。ちゃんと見定めて、聞かないでおくことが相手のためになる。あの一件でよくわかった。もう安室さんを気に病ませたくない。 「……仕事しよう」 いつのまにか俯いていた顔を上げる。時計を見ると、時刻は十六時半になろうとしていた。十七時に利用時間が終わる部屋の確認をすべく、カウンターの内側に設置されている防犯カメラに視線を移す。異常な光景はすぐに目についた。 「えっ?」 なんと、画面の右半分が映っていない部屋があるじゃないか。 |