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 大学からの帰路の末、一人暮らしをしている自宅のマンションの最寄駅に降り立つ。駅前のおいしい洋菓子のお店でロールケーキを買って、余裕を持って一時間分の保冷剤をつけてもらった。ありがとうございました、またのご来店をお待ちしております。お姉さんのパリッとした声を背に店を出る。新商品であるこれの情報はメルマガでばっちり収集済みだ。果物に目がないわたしは飲み物でも食べ物でも果物を選んでしまいがちで、今回も例に漏れずクリームに練りこまれたラズベリーに心を奪われまるまる一ロールお買い上げした次第である。
 誤解しないでいただきたいのだけれど、何も一人さみしく食べるんじゃない。このあと自分のマンションに帰るわけではないのだ。目指すは、わたしの低家賃のマンションなんかではなく、そう、そのすぐ近くにそびえ立つ高級マンションである。

 階は中ほどの十階。一年くらい前から住んでいるらしいその部屋の住人は安室透さんという男の人だ。職業は探偵、歳は今年で二十九歳。何のゆかりもないその人は、本来ならば人生で一生関わることのない人間だったけれど、偶然の、いいや!運命の出会いを果たし、今はこうして親しくさせてもらっているのである。


 きっかけは安室さんへの依頼だった。とはいっても、わたし自身は無関係で、いとこが夫の浮気調査の依頼を持ちかけたのだ。電話でアポは取ったけど一人じゃ心細いから一緒に来てと言われ、あれよあれよととあるターミナル駅の近くの喫茶店に連行された。状況はよくわからないながらも、探偵との邂逅というなかなか経験できないことに対してどきどきしながら待ち構えていると、しばらくしてやって来たのが、安室さんだった。

 依頼で顔を合わせたのは二回だけだった。探偵の相場はわからないながら、そのたったの二回だけでも安室透さんという探偵はものすごく優秀なんじゃないかと思わせた。なんたって依頼したこの日からほんの一週間でいとこの夫の浮気現場を押さえ、相手の女性が会社の部下で名前が何々で、というところまで暴いたのだ。二度目の会合にもわたしは同席し(というか夫に見つかったときわたし関係のあれそれだと誤魔化すためでもあったらしいので当たり前だ)、彼の鮮やかな手際のよさを目の当たりにした。


「以上ですね」


 写真を並べ、そう締めくくった安室さんは堂々とまっすぐいとこと目を合わせた。勘繰っていたとはいえ、証拠と事実を叩きつけられては落ちないわけがない。いとこは見るからにしゅんとして、ありがとうございますと頭を垂れたのだった。
 とっても申し訳ないのだけれど、わたしはこのとき、いとこの心傷に同情する隙もなく、終始目を輝かせていたと思う。探偵という職業のわくわく感たるや。そしてそれよりも、安室さんへの憧憬が、胸の感動を占めていた。喫茶店の外で解散してすぐいとこと別れ安室さんを追った行動がその現れだろう。
 どうしよう、何を言おう、そう考えているうちに、気付くと彼のあとを尾ける形になっていた。

 もともと隠れたりするのはすきだし得意だったのでなんとなくそれを続けていると、しばらくして安室さんがふいに路地裏を入って行った。驚いて、急いで同じ場所を曲がり、すぐにまた彼が奥の角を曲がるのが見えたため追いかけて曲がろうとしたら、「ワンワンッ!」「わっ?!」反対側から散歩をしていた大型犬に吠えられてしまった。や、やばい、思いっきり声上げてしまった…。口を押さえつつ曲がろうとしたほうをおそるおそる見ると、案の定安室さんがこちらを見ていた。
 バレた。というか、曲がってすぐのところで腕を組んでこちらを向いていた様子からして、どうやらわたしを待ち伏せしていたらしかった。だからこんな路地に入ったのか、すごい…!より憧れの度合いを増すわたしとは対照的に、捉える彼の目は驚いたようにやや見開かれていた。なのでもしかしたら、尾行は気付いていたけれど人物としては予想外だったのかもしれない。


「君は……」
「あ、あの、先ほどはどうも…」
「僕のあとについてきていましたよね?」
「はい…」
「何か用でしたか?」


 にこりと、喫茶店の前で別れの挨拶をしたときと同じ笑顔を見せる安室さん。それに無意識にホッと息をつく。わたしストーカーみたいなことしたのに、優しいなあ。そんな場違いなことを考え、それからピンと背筋を伸ばす。ここまで来て、言いたいことはもうまとまっていた。


「安室さんの助手にしてください!」


「……はい?」結論という名の申し入れをしたところ首を傾げられてしまった。しかも続けて熱意を伝えたにもかかわらず、「申し訳ありませんが助手は取らない主義なんです」といとも容易く断られてしまった。くっ、世にそんな主義があるとは…!しかしその程度でハイそうですかと諦めるわけにはいかない。運命めいた感覚はまだ冷めていなかった。


「助手を募集している探偵なら他にいるんじゃないですか?」
「安室さんの助手になりたいんです!」
「……どうして?」


 そう問うた彼の眼光が一瞬鋭くなった気がした。思わず怖気付く。
 肩をすくめ、何と返すべきか逡巡していると、突然、ポタッと頭上に何かが落ちてきた。雨?空を見上げてみるも、あいにく雲一つない快晴だ。じゃあ気のせいか、と頭を戻したら、今度は対峙していた安室さんの顔がひどく呆気に取られていることに気がついた。……ん?


「おい、君…」
「はい?」
「鳥の糞、」
「えっ……ぎゃああああ!!?」


 咄嗟に頭を触って見ると手に白い液体がついていた。「う、うわ、ちょ、」すぐさまカバンから取り出したティッシュでそれを拭き、頭の被爆箇所も拭き取ろうとするも当然ながら自分じゃ見えず加減がわからない。うわあ嫌だ嫌だ!取り乱すわたしをさすがに哀れに思ったのか、安室さんはこちらに近づいてきて手を差し出した。浮かべた表情はこの上なく呆れ顔だったけれど。


「見えないでしょう。取りますよ」
「え!あ、ありがとうございます…」


 な、なんか…かっこつかないなあ〜…!羞恥に見舞われながらもおとなしく安室さんにポケットティッシュを託す。わたし、助手にしてもらおうと思って来たのになあ……鳥の糞取ってもらうためじゃないのに…。さっきまでの勢いはどこへやら、あまりの情けなさに気分はしゅるしゅるとしぼんでいく。


「大体取れましたけど、近くのコンビニで洗っていった方がいいですよね?」
「そうしたいです…」


 丸めたティッシュを受け取ろうとしたらそれはやんわりと断られた上、ここら辺の土地勘のないわたしを安室さんはありがたくもコンビニへ連れて行ってくれた。外のゴミ箱にティッシュを捨てた安室さんに先に手を洗ってもらおうと促すとちょっと驚かれたけれど、彼はそれじゃあとトイレに入り、すぐに出てきた。
 入れ替わるように入り、鏡と向き合って髪の毛を水で流す。不快感が取れるくらいにはびしょびしょにしたので洋服まで少し濡れてしまったけど、まあいいだろう。……。はあ、と大きく溜め息をつく。落ちた気分のままトイレから出、カバンからハンカチを取り出そうとした。


「はい。大丈夫ですか?」


 パッと顔を上げると入り口のところに安室さんが立っていた。そして差し出されたものに目を落とす。スポーツタオルだ。見るからに、今このコンビニで買ったものだ。「え、」もう一度安室さんを見上げる。「使ってください」優しく笑って再度差し出される。それを、おずおずと受け取る。


「一旦外に出ましょうか」


 出口へ促され、コンビニの外に出る。受け取ったスポーツタオルで遠慮がちに髪を拭きながら、心臓は色々な意味で騒がしくなっていた。だってわたし、ストーカーまがいなことして、助手にしてもらいたくて頼んだけど断られたのに、……えっと……。
 安室さんも、わたしなんて置いて帰ったっておかしくないはずなのに、わざわざタオル買ってくれたんだ。や、優しすぎないか……。おそるおそる隣の彼を見上げると目が合う。心臓が一層うるさくなる。

 ……安室さんの助手になりたかった理由、が。


「わかりました!」
「え?」
「すきです!」
「は、」
「安室さんがすきです!なので助手にしてください!」


 興奮のあまり目はうるんでいたかもしれない。スポーツタオルを被ったまま、何かに負けじと大声を張り上げた。



◇◇



 結局そのときは断られてしまったのだけれど、あの手(張り込み)この手(尾行)を行使し、しつこく頼み込んで三ヶ月ほど経った今では、安室さんのマンションを教えてもらうまでには昇格していた。未だに助手とは認めてくれないけれど、無理やり押しかけてはときどき依頼のお手伝いをさせてもらっている。いわゆる押しかけ女房ってやつだ。これはこれでにやにやしてしまうでしょう。

 以前教えてもらった、住人の許可なしにエントランスの自動ドアを開けられる番号を打ち込み、マンションの中にあるエレベーターに乗り込む。10のボタンと三角が向かい合った閉じるのボタンをタッチすると、扉が閉まり箱が引っ張りあげられる浮遊感を覚える。

 実は助手を申し込んだ当時、一人暮らしをしていたマンションの隣の部屋で小火騒ぎがあり、わたしは住む場所を失ったため実家通いをしながら新しい部屋を探している最中だった。それから安室さんのマンションを教えてもらった日、さすがにここは問題外とはいえ、近くを歩いていたらすぐに丁度よさそうなマンションを見つけたので、これはいいかもと調べて即決したのだ。これで安室さん家に通いやすくなりますと報告したらものすごく白けたリアクションをされた。
 そういえば、助手を断られた初日からしばしば安室さんについて調べているのだけれど、やはり探偵というのはあまり情報が出回っているものじゃないらしく、今のところ探偵業は数年前からということくらいしかわかっていなかった。

 まあ、今はわからなくても全然いい。これから聞いていけばいいし、自分の力で調べることは結構すきだ。それでいつか、安室さんにすきになってもらえたらさいこ――。

 ガコンと揺れ、浮遊感は消える。あれ、いつもより早いような?ボタンの上にある小さな液晶画面を見上げてみると、そこでは6の下半身と5の上半身が、縦に並んだまま、停止していた。


「……ん?」


 エレベーター止まった。


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