夏休みは教習所漬けになると言う小太郎に何度目かの距離を感じたわたしは間抜けに、「すごいね」というありきたりな感想を漏らしたのだった。


中間試験を乗り越えた大学生に待つものは約二ヶ月間の夏休みだ。実渕くんにリークしてもらった過去問のおかげもあって出来はまずまずといったところだ。初めての試験で相当びびってたけど、心配するほどじゃなかったなあ。重箱の隅をつつくようなとこまで頭に入れたのに全然出なかった。あそこまでやんなくてよかったな。そんな結果論を脳内で述べながらココアを黒のストローで吸う。今は一人で駅前の喫茶店で時間を潰しているところだった。ココアのグラスは汗をかいてカウンターテーブルに水たまりを作っていた。わたしの方は先ほど最後の科目を終わらせてきたところで、三限の試験があるという小太郎を待っているのだ。
昨日のやりとりを思い出して頬杖をつく。…免許かあ、いつかは取っておかなきゃと思うけど、大学一年目であれもこれもと手を出したせいで目を回したくない。こういう腰が重いところも駄目なのかなあ。小太郎なんて一人暮らししながらサークルも出て、バイトもしてちゃんとお金を稼いでるっていうのに。わたしすでにクラクラしてるよ、照らし合わせたらバイトをしてることくらいしかやってないのに、もう手一杯だ。

小太郎と付き合ってるってだけで。

テーブルの上の携帯が、メッセージの受信を知らせた。葉山小太郎。わたしの唯一の幼なじみ。それで、ついこの間、付き合い始めた。





「ごーめんお待たせー」


駆け寄ってくる小太郎にお疲れと労いの言葉をかける。ココアは五分前に飲み終えてお店の外で待っていたのだ。小太郎は軽そうなモスグリーンのリュックサックを背中に、申し訳なさそうに眉尻を下げている。昼休憩から含めたら二時間ほど時間が空いたけど、本も持ってきてたし退屈はしなかった。それより、と腕時計に目を落とす。三限の試験開始からまだ一時間も経ってないけど、もう出てきてしまって大丈夫なのだろうか。そのことを聞くと「持ち込みオッケーだから楽勝だった」と笑って返された。昨日のやりとりの時点でもそう時間はかからないと言ってたのはそういう理由だったのか。出席点もあるしねと付け加える小太郎にならよかったと頷くと、小太郎もにっこりと笑った。


「じゃ、行こっか」


歩き出すと同時に手を取られる。(わ、あ)驚いたのが顔に出たかもしれないけど小太郎の視界には入らなかったのだろう、彼は特に気に留めることなく進行方向を向いたままだった。引かれるままわたしも足を動かし始めたので少しおぼつかない。夏の気温で上がった体温がさらに急上昇しているのがわかった。

小太郎のスキンシップが激しいのは前からだ。わたしももう慣れてるからどうとも思わないよ、頭ではそう判断できるのに心が追いつかなくて、わたしは今更たじろいでしまう。付き合うことになってからお昼や休日など共有する時間は格段に増えたのに、一向に慣れる気配はなかった。
そういったお誘いはほとんど小太郎の方からで、わたしは安心するし、忙しい小太郎の都合に合わせた方がうまく収まることも理解しているので努めてそういう形にしている。そういう、ほとんど小太郎に甘えてる状態なのに、小太郎は「こうやって誘えんの、彼氏の特権だよな」とか言えてしまう。その言葉にわたしはまたクラクラする。やっぱり当分、他のことに手がつかないと思う。

ピタリと足が止まる。わたしのじゃない、小太郎のだ。とはいっても、彼に引かれていたわたしも必然的に立ち止まることになったのだけれど。今は駅を通り過ぎて小太郎の家の方向へ向かっている途中だった。けれど目的地はそこではなく、彼の家付近にあるレストランへ行くつもりなのだ。道は小太郎が知ってるはずだし、どうしたんだろう。顔を上げるとやや視線を下ろした小太郎の横顔が見えた。それから、わたしを見る目と合う。ちょっと困り顔なのがさらに心配にさせた。


「…俺、大丈夫?変じゃねえ?」
「え?」
と二人でっていうの、まだ緊張してんの」


空いた右手で顔を覆う小太郎。依然わたしの手を掴んだままの左手に、少し力が込められた。きんちょうしてる。その意味がわかった瞬間、自分の心臓の音が一層大きくなった、気がした。


「…へんじゃない」
「ほんと?!ならよかった〜」


わたしの返事に小太郎はホッと胸をなでおろしたようだった。彼はいつでも素直な反応をする。だから今も、言葉の通りなんだろう。
痛いその臓器の位置を、小太郎といると確認することが多かった。胸の中心の気持ち左寄り、そこがどんどんと動いてるのがよくわかる。そう、だから、きっと小太郎よりわたしの方だ。むしろ小太郎は、前と変わらない。ずっとわたしなんかの相手をしてくれる、構ってくれる存在のままだ。


「わたしこそ変、だと思う」
「え?」
「小太郎と、つ、付き合うのとか、夢のまた夢だと思ってたから」
「……」


顔が見れなくて俯いたわたしに、小太郎は返事をしなかった。…引かれたかも。嫌な予感がしておそるおそる顔を上げる、と、予想に反して小太郎は何かをこらえるように眉に力をいれて、口もぎゅっとつぐんでいた。太陽を背にして影になった目が、きらきら光っているようだった。


「あの、こた、」
「たまんないって、そういうの」


「だめ」伸びてきた手はわたしの口をやわく覆った。咎めるように呟いた声にうまく呼吸ができなかった。赤い。わたしの顔もだろうけど、小太郎の頬が、耳が、真っ赤になっていた。…ああほら、心臓の位置がよくわかる。

小太郎は大学生活を十二分に楽しんでいる。一人暮らしは大変だろう。それでバスケサークルでの交友関係も広くて、アルバイトは家の近くで体力仕事なんだそうだ。そんな多忙の中に運転免許も取ると言う。
さみしいって思ってるわけじゃない。そんな忙しいのに、わたしなんかに構ってくれるのが嬉しくて、それで、ただただ距離を感じる。小さい頃はそんなこと思わなかったのになあ。小太郎はいつの間にか自立したしっかり者になった。それに比べてわたしは。
こんな女に小太郎はよく、時間を割こうと思うな。つまらないんじゃ、ないのかな。


「でもやっぱ俺の方だよ」


ゆっくりと手のひらが離れていく。…どういう意味だろうか。馬鹿みたいにきょとんと小太郎を見返してしまう。彼の言葉を理解できなかったのだ。そんなわたしを見下ろして小太郎の方はもどかしそうにふたたび口を強く結んだ、と思ったら、がしっと両方の肩を掴んだ。


「…言っとくけど、俺、すきなのかなりこじらせてっからね。なんたってガキんときからずっとだし!」


小太郎は顔を真っ赤にして、怒ってるような気迫で、むしろ開き直ってるように見えた。 嘘じゃない。小太郎は本当に昔から、素直な人だった。
わたしが勝手に不安になって小太郎に引け目を感じてることには気付いてないんだろう。なのにこうやって、荒っぽくも見事にわたしを救う小太郎への好意を、わたしはどうしたら返せるだろうかと、涙目になりながら思った。