まだマフラーは手放せなかった。毎日お世話になるそれをいちいちハンガーに掛けるのが面倒くさいと思うのは何もわたしが面倒くさがりだという証拠にはならないと思うのだ。コートさえも椅子の背もたれに掛ける大着をするのだってべつに、違うと思いたい。「ちゃんとハンガーに掛けなよ」その台詞は冬限定で精市の口癖みたいになっていたけれど、自分の耳にタコができても改善はされなかった。わたしはいつものようにソファに放り投げてしまったマフラーを見て、わざとらしく顔をしかめた。これは禁句だ、誰に対してじゃなく、言ったら認めることになるから。でもこれ以外に返す言い訳が見つからなかった。


「面倒くさい」
「…ってほんと面倒くさがりだよね」
「違う、こんなの普通面倒くさいって思うよ、みんな」
「何を根拠に言ってんの。ハンガーにマフラー掛けるだけのことじゃないか。制服はちゃんと掛けるのにマフラーとコートは面倒くさいって、」
「はいはいわかりましたわかりました。掛けますよ」


こうなったら意地でも掛けてやるもんか、と張りたいけど張ったところで勝敗は残念ながら目に見えているし、彼はわたしの代わりに片付けてくれるほど甘やかしてはくれないからこちらから折れるしかない。精市の正当性に、面倒くさがりが勝てるはずがないのだ。「精市こそなんでそんな口うるさいの」せめて文句の一つや二つ言うのは許してほしい。


「口うるさいって、の為を思って言ってるんだよ。……」
「……精市」
「いや、俺も思った。お母さんみたいだって」
「うん、同じ台詞言われたことある」


手で口を隠して気まずそうに目を逸らした精市に思ったことを正直に言ってあげると、ちらりと目が合って、それから二人でくすくす笑った。コートとマフラーを言われた通りに一緒に掛けてからお茶の準備を始め、我が家に来慣れた精市はわたしに促されることなく自然に腰を下ろした。今日は二人でご飯を食べるように互いの両親から言付かっているのだ。四人の用事が同じか、はたまた全く違うのか、きっと精市は知っているのだろうけれどあまり興味はないので聞かないことにする。お茶を置いてから彼の向かい側に座った。さっきまでわたしが入っていたのでスイッチはついたままだ。


「あ、もうご飯食べるか」
「うん。お腹すいたな」
「だよね、こんな時間まで部活やってたんじゃあ」


精市は今日の放課後も部活動に励んでいた。お腹が空くのも当然である。帰宅部のわたしは先に帰って、精市が来るまで一人で再放送のドラマを見たり宿題をしたりと時間を潰していたのだ。そして部活動後一度自分の家に帰って制服から私服に着替えて来た彼は、わたしの家のリビングに入った瞬間目についた防寒具の放置を指摘したのだった。そういうときは口うるさいけれど、「夜ご飯なに?」立ち上がって、台所へ向かうわたしのあとに付いてくる精市を可愛いと思ったのは内緒である。


「カレーライス」
「おー。かぼちゃ入ってるんだ、おいしそう」
「冬はよく入ってるよ」
「皿勝手に出していい?」
「むしろお願いします。ついでにサラダ用のも」
「了解」


食器棚へ背を向けた精市を横目にカレーを温める。帰ってくる時間予想してあらかじめ温め直しておけばよかった。大きめの鍋にたくさん作られたそれは、全体に熱が通るのに少し時間がかかりそうだ。食器の配置も覚えているらしい精市はすぐに目当ての物を持ってくる。伊達に十五年もお向かいさんをやっていない。


「サラダ分けていい?」
「うん、ありがとう」
「…二人分でいいの?」
「いいって言ってた」
「わかった」


カレー用の皿は重ねてコンロ側に、サラダ用の皿は二枚並べて流し台の方に置いて、手を洗ってからボールに入っているレタスやトマトを盛り付けていく。そういう手作業が慣れているように見えるのは普段から料理の手伝いをしているからか、趣味のガーデニングによる賜物か。彼の生活スタイルを考えたら料理の手伝いをする時間はないと思うのできっと後者だろう。そういえば、精市が育てているのは花だけなのだろうか。プチトマトくらいならありそうだなあ。


「運んでおくよ?」
「あ、うん。お願い。ドレッシングは冷蔵庫」


表面の周りはぐつぐつしてきた。もう少しで完全に温まるはず。一度こたつにサラダを置いた精市は今冷蔵庫からドレッシングを取り出している。青じそがいいなと思っていたらちゃんとその通りのものを出してくれたので少し嬉しい。それしか出さなかったところを見ると彼も同じのでいいと思ったのだろう。ついでに箸とスプーンも頼んでおいた。カレーかき混ぜるのも飽きてきたなあ。でもまだ辛抱しなきゃ。


「それ置いたらこたつで待ってていいよ」


丁度箸とスプーンを並べ終わったらしい精市にそう言うと、顔をきょとんとさせたあと少し困ったように「そうはいかないよ」と言ってまた台所へ戻ってきた。


「もうやることないのに」
「あるから大丈夫。カレーもういいんじゃない?」
「そう?まだな気が」
「…ふふっ」


小さく笑い声を零したあと、ご飯盛るね、と言って後ろの炊飯器に向いた精市に訝しんだ。


「なんで笑うの」
「え?いや、」


少し間を置いて一つ目を盛り終わった精市がこちらの台にそれを置くと、彼の方に体をひねったわたしと向き合う形になった。わたしが不可解と言った風に精市を見ているのに本人は随分楽しそうだ。


「面倒くさがりのが几帳面だなーと思ってさ」
「……」


そのとき、わたしは瞬時に、下心を見透かされた、と思った。女の子らしさを挽回したいという気持ちがばれた、と。それは本当に、穴があったら入りたいくらいに、恥ずかしかった。「…だから面倒くさがりじゃないんだって」この返答が正しい気がしないくらいには、動揺していた。


「ああ、食べ物にはちゃんとしてるって?」
「は、違うわ!」


茶化してるのだろう、変な方向へ転換した台詞を否定するも精市はにこにこしたまま二つ目のご飯を盛った。丁度カレーの方も温まってきたので、べつにおまえに言われたからじゃないんだぞと思いながら火と換気扇を止めた。


「そうだ、今度プチトマト採れたらにあげるよ」
「…野菜育ててたんだ」


今食べ物の話題に食いついたら食い意地張ってるのを認めることになりそうだったけれど、その部分についてはあくまで茶化しただけだろうから大丈夫だと思う。こいつはいつも、何でもお見通し、みたいな目をするからわたしは下手なことを言えないのだ。実際見透かされているかは時と場合によるけれど。


「いや?今までハーブぐらいしか口にいれる植物は育ててなかったんだけど、最近プチトマトの苗買ってさ」
「あ、へえ」
「夏に実るらしいから、そしたらにもおすそ分けするね」
「、うん」


穴に入りたいほどの恥はすっかり感じなくなっていた。挽回したかった女の子らしさはきっとばれてはいるのだろうけれど、茶化すことによって置いておいてくれたのは精市の優しさなんだと思う。彼に触れる空気はとても暖かいから、わたしはずっとそれに寄り掛かっているのだ。


「楽しみにしてる」
「ふふっ。そう言ってくれるなら頑張るよ」


心地よい距離感が手放せないのはわたしだけじゃないといい。