涙で濡れた眼球がきらきら光っている。堪えるそれを、俺がどうするわけもない。ただ、参ったなあと頭を掻くだけだ。


事態は日に日に悪化していたのだ。それはさん本人にしか知られることはなく、部外者の俺はもちろん、原因である柳先輩さえも気付くことはなかった。彼女は柳先輩のことをわかりやすく(今思えばわざとらしく)毛嫌いしていたし、関わりは同じ委員会という必要最低限で留めようとしているように見受けられた。ちなみに何故学年も違う上入学して二ヶ月も経っていない俺が二人の事情を把握しているのかというと理由は簡単で、俺も同じ委員会に所属しているからだ。なのでここが割と作業の多い委員会で、柳先輩とさんが共同の作業をする機会が必然と多くなってしまうのもよく知っていた。もっとも、委員会の所属も二人の問題に巻き込まれたのも俺の意思ではない。こんな事態に遭遇してしまったのは不可抗力というやつである。

普段から柳先輩は、自分を毛嫌いするさんをからかって楽しんでいた。もちろん仁王先輩みたいなからかい方ではなく、口では上手く説明できないが、冗談と言葉の綾を巧みに使いこなしさんを怒らせていた。前に柳先輩にどうしてさんをからかうのかと聞いたらふっと笑って「彼女は反応が面白くてな」と答え、そこに他意はなかったように思う。だから俺は、柳先輩は今でも事態の深刻さに気付いていないと推測している。


「柳先輩のどこが嫌いなんスか?」
「嫌いなの。本当に。嘘じゃない」


これは初めての委員会後にした会話だった。彼女は知り合った頃からすでに柳先輩のことを嫌っていて、後輩の俺からするとその光景はとても珍しいものに見えたのは当然だろう。最近は首を突っ込まなきゃよかったと心底思っているが、このときの俺は好奇心だけでそう聞いてしまったのだ。双方にそんな質問をしてしまった俺が巻き込まれないわけがなかった。
それにしても、さんは嘘をつくときに相手に信用を求める言葉を並べるようだ。あのときはまんまと信じてしまったが、今度からはそうはいかない、と俺の注意力に誓う。

とにかく俺は、さんは柳先輩のことをひどく嫌っているという認識でこれまで二人を見ていた。だから今日だって、委員会中不機嫌そうな顔で柳先輩の隣に座っている彼女を一瞥しただけで特に気にも留めなかったのだ。
事態が明るみになったのはそのあとすぐだった。俺と柳先輩が教室を出て歩いていると後ろからさんが呼び止めたのだ。俺じゃなくて柳先輩を。いつもならこんなこと絶対にしない。


「はい」
「…これは?」
「柳に渡しといてって頼まれた。友達に」
「ほう。ならば委員会が始まる前にでも渡せばよかったのではないか?」
「帰り際に渡してって言われた。渡すこと誰にも知られたくないって」
「俺いますけど」
「切原くんはしょうがないよね」
「はあ」


「そもそもそんな心配する意味ないっていうか。ラブレターなんか誰にも見せるわけないっていうか」それは俺も思った。柳先輩が誰かに言ったり見せびらかしたりするとは考えられない。心配性な人なのか、それとも単純に柳先輩を信用できてないのか。ふっと笑ったその人はラブレターを裏返しながら口を開いた。


「そこまで俺を高く評価しておきながら、友人の頼みには律儀に応えるんだな。優しいなは」


そう言って、柳先輩はさんの頭を撫でた。しかし俺がギョッとして固まった一瞬のうちに彼女は柳先輩の腕を振り払い、そして踵を返した。


「ちゃんと渡したから。じゃ」


いつもならもっと怒るはずのさんはそれだけ言って逆方向にスタスタと歩いていってしまった。頭を撫でるなんてところ俺は初めて見たが、もしかしたらさんは何回もされてて慣れているのかもしれない。さっきも言ったけれど柳先輩は冗談と言葉の綾を巧みに使いこなしてさんをからかうから、こういうアクションもするのかと驚いた。しかし今のが面白いリアクションとは思えない俺はそちらを見るけれど、至って冷静な柳先輩がいるだけだった。口元には相変わらず笑みが浮かんでいる。彼女をからかうときは大抵こういう顔だ。


「柳先輩…」
「赤也、悪いがの機嫌をとってきてくれ」
「は?!なんでっスか。自分で行ってくださいよ」
「俺が行っても損ねるだけだろう。今日朝練に遅刻しそうだからとフェンスを乗り越えたことは黙っておいてやるから、頼んだぞ」
「え、ちょ、なんでそれを」
「教室に戻っている確率は92%だ」
「あーもう!」


ヤケクソになって走り出す。三階に上がったところですぐさんを見つけて、名前を呼んでももちろん止まってなんかくれなくて、追いかけると向こうも走って逃げだした。けれど俺のが速いに決まってるのですぐに追いつき、「さん!」肩を掴んで振り向かせた、ら。


「……え」


なんと顔を真っ赤にしているではないか。え、待って、なんで……もしかして、おお?


さんてもしかして」
「違うから。柳なんて大嫌いだから。本当に。切原くん何しに来たの早く帰りなよ」
「(まだ何も言ってねえ…)」


逃げようとはせず、目を伏せた彼女を見れば事の真相はすぐにわかった。それから先程のラブレターが友達からだと言っていたのを合わせて考えると、……もしかしてわざとらしく嫌悪していたのは自分で認めないため?それか友達に対するアピール。あー、友達と同じ人をすきになっちゃったパターンか。なるほど。
それで身を引こうとしているわけだ、こんな顔真っ赤にしておいて。「さん」呼び掛けに応じて俺を見た彼女の目はきらきら光っていた。涙で眼球が覆われているのだろう。参った。俺に何ができるってんだ。


「…あー、じゃあ、柳先輩のどこが嫌いなんスか?」


結局またこの質問をするしかできなかった。逃げ道を与えてあげたつもりなんだけれど、どうだろう。目を逸らすとここが二年C組の教室の前で、俺が上がってきた階段とは別のそれのすぐ近くだった。階段を挟んだ向こうに彼女らのクラスのB組がある。
眉間に皺を寄せたさんは涙を堪えているんだろう。どこに泣く理由が、と思ってみても多分この人の立場から見る物事は今さんが泣くもっともな理由を与えているんだろう。やっぱり機嫌取りは、(もはや慰めと言った方が正しい気がするけど)柳先輩がするべきだったと思う。「…知らない」瞬きしたら涙が零れるんじゃないかと思わせる。


「柳の悪いところが見つからない」


だってほら、この人はあんたのせいでこんなに苦しんでいるんだ。あのはっきりしない嫌悪の理由はつまりこういうことだったのだ。
決定的な証言押さえたんだからもういいでしょ、さっさと階段の陰から出てきてくださいよ柳先輩。