窓から見える風景に目をやれば、向かいの家のベランダに干してあるシーツやタオルケットが風にたなびいていた。窓で隔てられた夏の日差しはこちらには視覚でしか伝わってこなくて、どこか他人事のように感じる。



「なに?」
「ちゃんと向き合って、ほら」


ぽんぽんとテーブルの上のノートを叩く綺麗な手を見て、それから目だけで幸村の顔を見た。向こうもわたしを見ていたので当然アイコンタクトとなる。目も綺麗なんだなあ。


「どうして数学のプリントだけで五枚も宿題が出るんだと思う?」
「出しやすいからだろ。ほら、これ終わったらこころ読まないといけないんだろ、終わらないよ」
「幸村は読んだ?」
「読んだ。いいから解きなって」
「もう疲れたー」


「そんなの見ればわかる」声が透き通っている。思うけど幸村ってどこを取っても綺麗だ。完成した人形みたいでいっそ女の子に生まれればよかったのではないかと思わせるけど幸村としてはもちろん嫌なわけで、わたしは一度本人に向かって言ったきり口にすら出していない。でも顔を合わせるたび思っている。幸村精市はわたしの知る男の中でもっとも女の子に近い容姿をしている。下手したらわたしより近いかもしれない。自分は女なので近いもくそもないけれど、美人のレベルでいうと確実に白旗を振るよ。
幸村の妹さんが用意してくれた麦茶のグラスが汗をかいている。氷がもう少しでなくなってしまう。それだけ長い時間ここで勉強をしているというのに、わたしの宿題は一向になくならないのだ。

気分転換に五枚のプリントを山登りに例えてみよう。単純に考えれば三枚目を頂上とするだろう、が、実際は違う。四枚目までは登山である。五枚目だけ急勾配の斜面を下山するのである。詐欺というべきか、もちろんそうではない。そしてあまり気分転換にならなかった。
とにかく絶賛登山中のプリントと向き合ってみた。勉強会なのに幸村といえば、教えないからとにっこり笑顔で宣言しそのとおり自分は別の教科の宿題をやっている。お互いがお互いの監視を務めているだけでそれ以外の何物でもない。二枚目であるプリントはまだ半分も埋められていない。怖くて五枚目の内容なんて見れなかった。

二十八度の冷房の音が静かな空間に居座っている。今さら緊張なんてしないのだ。


「幸村、わからない」
「何が?」
「ここ」
「ふうん」
「教えてよ」
「俺教え方下手だから。ごめんね」


こいつがごめんねと言うときは大抵わざと嘘を言っているときだ。誠意がこもってない。教え方が上手いか下手かはわたしが決めるので教えてくれよと言ったのに幸村は自分でやらないと意味がないだろという極論を持ち出してきてわたしをねじ伏せる。極論だが正論なので言い返せない。そうしてわたしは解けない問題とまた格闘を始めるのだ。
瞬きをして、コンタクトの縁がまぶたに当たるような感触が拭えなくて、人がよく言う「目がごろごろする」というものであろうかといつも疑問に思うのだけどこういうのは感覚的なものだから共有できないので難題である。寝ないためにコンタクトを入れてきたのだけど目薬を忘れてしまった。乾燥させるエアコンの存在を意識してしまうと、もう何回瞬きしても目が痛い。


「エアコン目が乾く。目薬ある?」
「コンタクトしてるの?」
「うん」
「へえ。…はい」
「ありがとう」


引き出しから取り出し渡された目薬を受け取って真っ先に注すと、それおまえのだよと声が聞こえた。確かにこれはわたしのだ、片目だけぼやける視界でプラスチックの容器を見た。なくなったと思ったら幸村の家に忘れていたのか。まず裸眼の幸村の部屋にコンタクト用の目薬があること自体がおかしいのだ。よかった忘れてて。「、何個目薬持ってるの」頬杖を付いてわたしに向く幸村の問いに、ひらめいた答えは昨日見た金曜ロードショーでやっていた紺色の魔法使いの台詞だった。


「自由に生きるのに必要な分だけ!」
「…ハウル見たんだ」
「幸村も見た?」
「見たよ」


ネタが通じて安心した。そこで思いついたのだけど、私の家と幸村の家の距離なら、金曜ロードショーを一緒に見て帰ることもできるはずだ。来週何がやるのかな、物によっては誘ってみよう。幸村と一緒に見たい。


「魔法が使えればこんなプリント一瞬で終わらせられるのに」
「どうだろうな。そんな甘くないと思うけど」
「夢くらい見させてよ」
「現実主義なんだ、俺」


今度はごめんねとは言わない。本当に現実主義者である幸村は魔法を信じないのだろうか。そんなくだらないことを考えて勉強が進まなくても明日もあるからいいかと思うわたしは楽観主義者ではない。こんなのん気でいるのも、


「…夏休みだねえ」
「そうだな。夏休みだ」


こうやって幸村がわたしの相手をしてくれる、夏休みだからだ。


「明日は?」
「部活。一日」
「そっか…頑張れ」
「うん」


気付くと麦茶の氷がなくなっていた。エアコンの音も消えている。部屋の温度が下がったから運転が止まったのだ。代わりに外の蝉の音が響いてくる。目を伏せた幸村の笑みを真っ直ぐ見れない。
やっぱり緊張しているらしい。