「夕暮れに染まる」という表現は、例えでも何でもないと思っていた時期がある。だってあの頃の涼介は、本当に染まってしまっていた。真っ赤な夕日を背に、大きな瞳がわたしを見つめていた。


 小学校の校庭で友達と一緒に遊ぶ彼はわたしとさほど変わらない背丈で、けれどわたしと大違いの軽やかさで毎日飽きもせずボールを追いかけていた。夢中になりながらも涼介は、あとを追うわたしが転ぶと決まって手を引いてくれたし、自分で見つけたWコツWを得意げに、けれど根気強く教えてくれた。陽が沈むよりずっと前、親に言い付けられた時間になると、友達と別れ、家までの道を並んで歩いて帰る。通学路はなぜか日陰がほとんどないので、夏は暑くて敵わないけれど、夜に向かう時間帯でも明るいのはわたしたちを守る誰かにとってはありがたいことなのだろう。
 おかげでわたしも、いつだって涼介の姿がよく見えた。テレビで見た日本のプロサッカー選手の活躍を嬉々として語る、あどけない涼介の横顔。今でも覚えている。


?」


 この時間になると夕暮れは、クリーム色の柔らかい髪、白い肌、わたしを見つめる大きな瞳、吉良涼介を構成する全てを、黄やオレンジ、はたまた赤、紫、わたしの知らない色にまで染め上げていた。圧倒的な空の色に涼介は侵食されてしまう。だからわたしは、次の日、白い日の光を浴びる涼介を見るまで、心の片隅にほんの少し不安を居座らせるのだ。


 夕暮れに染まったって涼介はかっこいいのだけれど。





「吉良くん!部活お疲れ〜」
「ありがとう!吹奏楽部もお疲れさま」


 廊下から聞こえてきた声にシャープペンシルを動かす手が止まる。同時に、机の上で絶妙なバランスで開いていた英和辞典がバララッと音を立てて閉じた。それを視界に入れながら、頭の中ではグロテスクな蛇が画面いっぱいにうねる映像が流れ出す。画面全体が黒と赤にゆっくりと点滅している。確かこれは、先週のドラマで見た比喩表現だ。あんなの覚える暇があるなら、百回引いた頻出英単語でも覚えた方が辞典も喜ぶに違いない。

 で、ええと。あの比喩表現の意味するところは。


?」


 教室に入ってきた涼介とおもむろに目を合わせる。それから、わざとらしく彼の席へと移す。窓際の列の中程に位置する自席からでは廊下側の一番後ろにある涼介の机はよく見えない。ただ、改めて確認するまでもなくスクールバッグは置いていないし、椅子はしっかり机の下にしまわれている。
「まだ帰ってなかったの?」目を丸くする涼介に「うん」と頷くだけして、自分の机上に目を落とす。解きかけの宿題、未着手のプリント、閉じた辞書。松風黒王高生が皆これらを難なくこなしているという事実が未だに信じられない。
 涼介は何も返さず自席へと歩み寄り、机から何かを漁ったと思ったら「お」と短く声を漏らした。「あった、あった」どうやら忘れ物か何かをしたのだろう。人気者の吉良涼介くんにもそういうお茶目なところがあるらしい。いや、そういうところもいいのかもしれない。


、もうすぐ終わるなら一緒に帰る?」
「……うーん」
「あれ、そんな難しい宿題出てたっけ?」
「うーん」
「帰ったら教えてあげようか」
「うーん」


 ……あ、悪いとこ出てるな。冷静な部分で客観視し、咄嗟に顔を上げ彼の方を向く。


「帰る。教えてほしい」
「お、そうこなくちゃ」


 にっと口角を上げて笑う。つられるようにして、肩の力が抜ける。よかった、こうしてよかった。
 幼なじみの吉良涼介は何でも持っている、と思う。なんたって、わたしをちょっと素直にさせる力もあるのだ。
 こちらへ歩み寄ってきた涼介が机に広げられた教材を見下ろす。ああ、ともうわかったかのような反応。英語も数学も涼介にかかればお茶の子さいさいらしい。本当にすごい。涼介の頭の良さというか、要領の良さはどこで培われたんだろう。思い返すと、生まれたときから備わっていたのかもしれない。
 彼の手元を見下ろすと、青いペンケースが握られていた。最悪家に持って帰らなくても何とかなりそうなものだ。そもそも忘れたことに気付いたのも偉いし、わざわざ取りに来ようとするのも偉い。部活終わりで疲れているだろうに。


「あっ、吉良くんだー!先週の試合見たよ!シュートかっこよかった〜!」
「ん、ありがとう!よければまた来てね」
「うん!今週も行くね〜……あ、」


 教室の前を通りかかった女子生徒は涼介に手を振ったあとわたしの存在に気付いたらしく、二人を不思議そうな目で交互に見、結局何も言わず通り過ぎて行った。目を合わせないよう帰りの支度を始めたわたしとそばに立つ涼介を、あの子はどう思ったのだろう。
 どうもない。わたしたちの間にある事実は、小さい頃からのご近所さんというだけ。生まれてこの方ずっとそう。今日まで、涼介は何人かの可愛い子と付き合って、それぞれと円満な別れ方をした。わたしはすきな人一人作れず、いつも何かを見ている。いつも目の届く範囲に存在を感じて安堵している。多分一生こうなのだろう。


「さ、帰ろう」


 窓から差す西日によって涼介がオレンジに染まっている。こんなことでもう不安になったりしないけれど、どこをとっても色素の薄い彼はすぐに消えてなくなりそうに思う。涼介の優しく作られた瞳がわたしを見つめる。わたしが立ち上がると、彼は踵を返して歩き出す。あとを追って隣に並ぶ。
 教室を出て無人の廊下、階段を通り、昇降口を出る。サッカー部の部室に寄るとチームメイトが涼介を待っていたらしく、おせーぞなどと口にしながらも彼を囲んだ。涼介も嬉しそうに笑顔を浮かべ、ごめんごめんと返す。それを輪の外で眺めて、動き出したのに続く。二年生の団体が校門を出、駅へと向かう。次第に散り散りに別れ、当然ながら最後は、涼介の隣にはわたししか残らない。

 真っ赤な夕焼けの中、家までの道を二人並んで歩く。決まった通学路だ。見慣れた横顔が、口を開く。


も今週の試合見に来てくれるだろ?」
「うん。行くよ」
「へへ。ちゃんと俺のこと見ててよ」
「うん」


 チームメイトといたときは一言もしゃべらなかった。涼介は元来社交的な人間なので、誰とでもすぐに仲良くなれるらしい。サッカー部に限らず友達も多い。だから、誰かがいるとき、わたしの優先順位はだいぶ低くなる。わたしも積極的に涼介に話しかけないので仕方のないことだ。部員に混ざって帰るときは団体の後ろについていくのが常だった。でも、疎外感に襲われたとしても、最後はこの形になるから良かった。そもそも彼女がいるときは一緒に帰るなんて絶対にできないから、一時的なボーナスタイムのようなものなのかもしれない。
 わたしの二つ返事に、涼介が歯を見せて笑う。こっち側からだと泣きぼくろが見える。ほんとうに、よくできたお顔だこと。


が喜んでくれると嬉しいんだよね、俺」
「え、……なんで?」
が俺のことで喜んでたら、なんかいいじゃん」
「いい…?わかんない。なんで?」
「えー?」
「幼なじみだから?」


 涼介は友達も多い。可愛い彼女もいた。勉強もできる。見た目も抜群にいい。
 涼介はこの期に及んで「いい幼なじみ」も欲しいのだと、わたしを搾取しているんじゃないかと、完璧な彼を怪訝がる友人に言われたことがある。だから早く離れなよって。


「うーん、そうなるのかな?」
「そうなるんだ」
「でも、俺が試合で活躍すると喜んでくれるだろ?」
「それは涼介が嬉しそうだから」


 でも多分、実際のところ、搾取しているのはわたしなんだろう。


「わたしべつに…涼介の価値をサッカーに見出してないから…」
「え。……複雑だな。あんまり嬉しくないかも」
「ごめん」
「謝るならさあ……」
「サッカー下手でも、涼介がここにいてくれればいいの、わたし」


 涼介の足元を指さすと、彼は、言っている意味がわからないといった表情を浮かべた。
 いてくれればいいのに。誰のものにもならないで、ずっと、わたしのとなりにいてくれればいいのに。


「でも涼介の軸に「サッカーうまい自分」があるなら、ずっとそうであってほしい」
「……やっぱりって変わってる?」
「変わってないと思う。言われたことないもん」
「俺よく聞くけど。「さんって吉良くんの幼なじみなのに吉良くんに興味なさそうだよね、変わってるよね」って」


 声色を誰かに寄せることなく言葉をなぞる。誰よその女。古典に出てきそうな台詞が口をつきそうになってぎゅっと噤む。自然と唇が尖る。


「涼介には興味あるもん。変わってなくない」
「あー、確かに。そうだよな」


 進行方向を向きながら、なんてことないように得心した様子を見せる涼介。彼の横顔は綺麗。私の頭ではまた、蛇がうねっている。赤と黒に点滅している。この比喩が意味するところは、こんなの、小学生の頃からわかっている。


「子どもの頃、、俺見てときどきさみしそうな顔してたしね」


 涼介を見上げる。教室にいたときより濃い夕焼けを浴びて、涼介の色は侵食されていく。黄色、オレンジ、赤、紫、複雑そうに見えて、結局は黒。どこにも行ってほしくない存在がこちらを向く。瞳がじっと、わたしを見つめる。


「もう大丈夫になった?」
「……なってない」
「そっか。よかった」


 涼介が笑う。思いのほか嬉しそうに。はたして、わたしは今どんな顔をしているのだろう。きっと涼介の思い通り、さみしそうな顔をしているに違いない。

 幼なじみの吉良涼介は何でも持っている。わたしを素直にさせる力がある。嫉妬させ、反対に、安心させる力もある。わたしは涼介がいないと何も感じられない気がして怖い。