手持ち無沙汰で退屈で、いいえ本当はやるべきことがないなんてこと、わたしには一時だってないのだけれど、だとしたって何もしたくない気分というものは、誰にだってあるでしょう。昼下がり、手入れ待ちの忍具が山積みで、未習得の術が収められた巻物が散乱するテーブルを前に、何もやる気が起きなくたって、罪はないはずだ。わたしだけじゃないもの。きっとあの金髪の自信家な男の子だって、黒髪の寡黙な男の人だって、一日何もしたくなく、組織からあてがわれた自室で無為な時間を過ごすことがあってしかるべきだ。そう思い込むことで、自分の価値を保つことができる。他者を自分と同じ格まで下げることで、相対的に自尊心が下がらずに済む、ちんけな己を客観視したときにはもう、価値は底まで落ちている。

 忍具や巻物を押し退けて、両手を広げて置けるスペースを作る。それから、右手の爪先で、左手の爪を叩く。コンと、わたしにしか聞こえない音を立てる。この音が好きだった。わたしは生来すきな音が多いけれど、爪を叩く音が一等すきだ。耳をそばだててようやく聞こえるこの音は、自分だけのものだと思えた。このためだけに、爪を伸ばしているくらいだ。
 もっともっと物を押し退け、うつ伏せる。カン、カランとクナイが床に落ちて転がる音がする。クナイといえば、クナイがぶつかる音もすきだ。相手のクナイを弾いたときなんか、特にいい音がする。その音を鳴らすことは、相手を害するより大切なことだと思うときがある。忍を殺すのは何もクナイでなければならないなんて決まりはないのだから、ならば音を奏でるために使ったほうがいい。
 うつ伏せたまま、コツ、コツ、と、ほんのわずか聞こえる音でリズムを刻む。すきな音が多くても音楽の才能がないので、テンポはしっちゃかめっちゃかだ。前にサソリさんに「音を使った忍術を使えるようになりたい」と言ったら、彼は珍しくわたしを見て、とても、それはそれは愚かな人間を見下すように、嘲笑なさった。そのときはわたしの音感のなさを笑ったのだと思い、だからといって不満に感じることなく、へらっと笑い返した。数日後、サソリさんの元相方の大蛇丸さんが音隠れの里の忍を従えて騒動を起こしたと教えてもらい、ああそういうことか、と、彼のひどく馬鹿にした表情を思い出した。

 きっとサソリさんには音など一つも必要ないのだろう。そもそも、忍は突き詰めると「無音」が理想なのだろう。
 サソリさんが音もなく死んだらどうしよう、と思う。わたしは後ろで付き従っているのに、肝心なときに目を離して、意識の外に追いやった瞬間死んでしまわれて、サソリさんの死に目に会えない。次に目に留めたときには絶命している、そんな気がする。嫌だ。わたしは絶対にサソリさんが死ぬ瞬間を見たい。そうして、だんだんと動きが鈍くなり、やがて死に絶えるサソリさんを見て、ほっとしたい。
 わたしも、自らが死ぬときはみんなが気付くような大きな音を立てたい。デイダラくんの粘土を食べたらいいのかしら。でも、わたしはあの忍術を使えない。隣の芝は青いという通り、他の人の使う忍術はおしなべて良く見える。

 爪を叩く指を止め、顔を上げる。血で錆びついたクナイ、習得できていない忍術の巻物。すきなものや憧れは人並みにあるのに、そのための努力を重ねることができない。この性質ばかりは、組織にいる誰も、わたしの格まで落ちてくれない。そもそも誰一人としてわたしと同格だなんてことはまったくもってあり得ないのだ。だってサソリさん、あなたの部下に、わたしのような忍がいますか。でも、いたらいたで嫉妬してしまうだろうな。おこがましいでしょう。サソリさんがわたしだけを駄目だと思っていることに喜びを覚えていることこそ、真に駄目だ。

 サソリさんの爪が欲しい。

 ずっと思っていて、一度も口にしたことがない願望だった。均一に染められた青緑色が美しく、ちらりと光沢さえ見せるものだから、一度触ってみたかった。形や爪先も揃っていて綺麗。いいえどんな形容も後付けだ。「サソリさんの爪だから」以上の価値を見出してなどいない。
 ふらふらと自室を出、洞窟じみたアジトを歩いていく。サソリさんはどこだろう。今日は事前に指示を受けていないから一度もお姿を見ていない。次の任務は三日後だと言われたので、その間は自由にしろという意味だと受け取ったけれど、もしかしたら違ったかもしれない。

 道中誰ともすれ違わずに辿り着いた先、サソリさんの自室をノックする。コンコンと乾いた木の音が鳴る。部屋の中からサソリさんが応答してくれることは滅多にない。「サソリさん、わたしです。です」名乗るとますます返事をしてくれない。前に、訳あってデイダラくんと一緒にここへ来たときなんかいい例だ。案の定わたしが無視をされ、そのあとデイダラくんが声をかけたら、なんとすぐさま返事が返ってきたのだ。さすがにショックだった。扉を開けデイダラくんと建設的な任務の話をするサソリさんを呆然と凝視していたら、なんだと言わんばかりに眉をひそめられた。もちろん、口ごたえなどできず、首を横に振るしかなかった。

 サソリさんは今部屋の中にいるのだろうか。耳をそっと扉に押し当てる。物音は一つもしない。傀儡をいじる音も毒を調合する音もない。いない、ということが確信できた。お出かけかしら。
 扉から離れ、両手で耳を塞ぐ。塞いだ耳に聞こえるゴオゴオという音は、手に血が通っている証拠だという。この音もすき。心音と同様、生き物からする永続的な音はどうしてこうも心地が良いのだろう。ずっと聞いていたいから、ずっと生まれてこなければよかった。
 ぎゅうと手を押し付ける。血の音しか聞こえない。パッと離す。ピタリと音がやんだあとは、聴覚が冴え渡る感覚がする。
 足音一つ、耳に入る。次第にそれは近づき、やがて動かないでいるわたしの元へ辿り着く。


「なんだ」


 振り向くと、足を止めたサソリさんが迷惑そうに眉をひそめていた。わたしは「あっ」と声を上げたあと、不躾にも一度視線を落として、それから彼の身体を舐めるように見上げた。慌てて居住まいを正して、すみません、と謝罪を口にする。


「他人の部屋の前で何してやがる」
「す、すみません」


 どう見ても邪魔にしか思われてない。いいやこれまで、サソリさんに邪魔以外に思われたことがあっただろうか。デイダラくんとの任務の話を立ち聞きしているときも、その任務で大怪我をしたときも、うっかりサソリさんの本当の姿を見てしまったときも、彼は至極迷惑そうな顔をしていた。
 サソリさんは、わたしにも聞こえるようにわざとらしく舌打ちをし、進行方向、つまりわたしの方へ近づいてくる。
 真横を通り過ぎる。サソリさんの身体が、外套越しにほんの少しだけ、わたしの腕を掠った。
 その瞬間、背筋がゾッとし、伝播するように全身が総毛立つ。まるでずっと蓋をしていた記憶を思い出してしまったかのように、恐怖に襲われる。怖い。サソリさんという存在が。だって、だってこのひとは、ぜったいてきにちがうから。


「……あ?」


硬直して動けなくなったわたしに、サソリさんが立ち止まり、振り返る。このひとに気を向けられることがどんなに光栄か。なのに、まったくもって有頂天になどなれず、しかし冷静でもいられない。


「あ…あの……」
「なんだ」
「つめを……」
「爪?」
「爪が、欲しいんです……サソリさんの……」


 自然と視界が足元を映す。欲しいものを口にするとき、人はこうも後ろめたく、心許なくなってしまうものなのだろうか。金輪際何も欲しがりたくないと思わせる、気味の悪い空気だ。何かが混ざり合ったまま、ピンと張り詰めてしまった空気。
 その空気が震える。サソリさんが笑ったのだ。愉快げに、クツクツと喉で笑っている。おそるおそる顔を上げる。確かに、笑っている。


「おまえからすると爪が生者の証なのか?」


 サソリさんが身体の向きを変え、わたしと対峙する。すぐそばの距離から、両腕が伸びてくる。ふわりと、両耳を手が覆う。手のひらを押し当てられる。

 広がるのは、無音ばかりだ。どこまでもどこまでも、音は聞こえてこない。血の音などしない。目の前のひとから音がしないことは、ただただ恐怖だ。いよいよ何も言えず目を瞠るわたしに、サソリさんはやはり馬鹿にしたように小さく口角を上げる。


「悪かったな。死んでいて」


 間違いなく罪悪の感情などなかった。同情などない。むしろ嘲笑うように、そう、愉快げに、目を細め口角を上げている。
 サソリさん。動く人形。そこに在るはずなのに、血の音も心臓の音もしない。サソリさんからはわたしのすきな音がひとつもしない。思い出しては恐怖する、それでも、あなたの本当の死に目に会いたい。会えたら、サソリさんは生きていたのだと、真に信じられる気がするのだ。