大教室の黒板向かって左側、前から三列目。滔々と論説を語る教授と時折目が合うこの席は、適度な緊張感を保てるという理由でわたしと風間くんの定位置だった。二限のちょうどいい時間帯にも関わらずこの講義を選んだ友人はおらず、わたしは家を出てから一言も声を発することなく大学の門をくぐり、誰とも目を合わせることなく着席に成功した。鐘が鳴るまであと五分、教授はいつも遅れて来るから、講義が始まるのはさらに五分過ぎた頃だろう。
 肩凝りを助長するともっぱら評判の分厚い教科書と資料集を取り出すべくカバンを漁りながら、今朝バスの中で携帯を介して交わしていたやりとりを思い出す。最初から出られるの、久しぶりだろうなあ。多忙な彼の立場になって大学の時間割をなぞると途方もない気持ちになる。何か助けになりたいと思うのだけど、風間くん、わたしが言ってもいい顔しないからなあ。

 一人勝手に歯がゆい気持ちになっていると、ふと、唇のすぐ横を中指で触っていることに気がついた。無意識だった。直後にビリッと痺れるような小さな痛みが皮下まで走り、思わず眉間に力が入る。ああ嫌だ。何もかもが嫌だ。風間くんへの献身もどこかに閉じ込めて、今すぐ家に帰りたい。

 左の口角に突如出現した巨大な吹き出物の原因はわかっているつもりだ。ここ数日、差し迫ったレポートの提出期限に追われて毎晩夜更かしをしていたせいに違いない。ただ睡眠時間を削っただけでなく、脳へのエネルギー補給という大義名分の元チョコレートをとめどなくつまんでいたものだから、その影響が文字通り表面化してしまったのだ。頭使ってるから大丈夫だろうという慢心を遠慮なく暴いてくるよわたしの肌。レポートは無事単位取得に足るであろう完成度のものが提出できたけれど、いかんせん代償が大きすぎる。しかも昨日の夜、いけると思って潰したらますます炎症が悪化して、遠目から見てもわかるほど真っ赤になってしまった。パッと見、ちょっと、殴られて口の端切った人みたいだ。
 触るんじゃなかったと毎秒後悔に襲われてるのに、気付いたら触ってしまう。だってあまりにみっともないんだもの。今すぐ消えないかなあ……。


「おはよう」


 するりと鼓膜に届いた声に顔を上げる、直前に口元を片手で覆う。いつの間にか隣の通路に風間くんが来ていた。一週間と二日ぶりの風間くん。口も表情も多くを語らない、けれどいろんなことを知っている彼との逢瀬は、毎回全身に上質な緊張感をもたらした。自然と背筋も伸びるってものだ。
 端正なあいさつに、口を隠したまま「おはよう」と同じように返すもどうも決まらない。風間くんを前にするといつもの自分じゃ到底いられない。加えて今日は後ろめたさもあるものだから、不審に映ってたらどうしようと肩をすくめる。けれど、よく考えたら風間くんといるときの自分は常に変だということに思い至り途端に虚しくなった。
 夏のラフないで立ちでご登場の風間くんはこちらの気まずさなんて気にも留めてないようで、わたしが空けておいた通路席に腰を下ろし、慣れた手つきでリュックから勉強道具を取り出し机に並べていく。気配で感じ取りながら、努めて正面を向くわたし。風間くんはおしゃべりな人ではないので、こちらから話しかけなければ会話が生まれることはほとんどない。だから今日はずっと前を向いて静かにしてようと思う。風間くんにこんな顔見られたくないのだ。
 さっきまで気にならなかった学生の話し声が、打って変わって明瞭になって脳に届く。みんな、今日の予定やサークルの話に花を咲かせている。内容に限らず楽しそうでうらやましい。ここに一人、すぐ隣にいるすきな人に吹き出物を見られたくなくて憂鬱な人間がいるなんて、きっとどうでもいいことなんだろう。わたしだってそりゃあ、知らない人の吹き出物事情に興味はないのだけど。


?」
「うん?」
「具合でも悪いのか」
「ううん、全然、元気だよ」


 風間くんの目に留まってしまった。ずっと口を覆って黙っているのが吐き気を催してるように見えたのかもしれない。使ってない方の手を振りなるべく何でもないように返したけれど、風間くんに訝しげに見つめられてはあっさり降参するほかなかった。風間くんの眼差しは鋭利で、ともすればピッと切り傷ができてしまいそうなのだ。


「……実は、口のところに大きいニキビができてしまって」
「そんなことか。隠すほどじゃないだろう」
「いやあ、恥ずかしいんだよ、結構」


 ちょっと予想していた反応に手の下でこっそり苦笑いする。風間くんがニキビ一つでとやかく言うとは思えなかったので、やっぱりと納得だ。笑われたら、ショックだしなあ。だとしたってこんな顔を見られたくないのは変わらない、わかってほしい。


「風間くんには見られたくないので、あんまりこっち見ないでね」
「わかった」


 わかられた。音速もびっくりのいい返事に、ほっとするような、物足りないような、自分勝手な感情が湧いてしまう。はっきりしてるのも風間くんのいいところだよなあ……。
 とはいえ、と横目で盗み見ると、風間くんはわたしとは反対の黒板の方へ向いていた。視界にすら入れてもらえてない。そんな漠然とした危機感に、唐突に、心臓から首元にかけて冷気が走った。風間くんはわたしのお願いを聞いてくれてるだけなのに。気付いたら俯いて、言い訳を述べる口が開いていた。


「か、風間くん、一応言っておきますが」
「なんだ」


 風間くんは背もたれに寄りかかったまま首を動かさない。そっぽを向いてるように思えてしまうのは勝手だろうか。かく言う自分も口を隠したまま、背もたれに寄りかかって下を向いて、彼の方を見ようとしてないくせに。


「風間くんに非は、少しもありませんので」
「だろうな」
「これはわたしの生活習慣の乱れと、風間くんに幻滅されたくない乙女心が招いた珍事だと思ってください」


「幻滅?」風間くんの顔が少し、正面に戻ったのを視界の端で捉える。向こうも同じだろうと、大げさに頷いてみせた。
 わたしは常日頃、風間くんのハートを射止めるべく「いい人間」であろうとしている。大学で知り合った当初から一方的に好意を寄せていた風間くんに見初めてもらえるように、お化粧や身だしなみに気を遣ったり、姿勢を良くしたり綺麗な食べ方を心がけた。今まで走り書きだった雑な字を丁寧に書くようにしたし、汚い言葉を使わないよう意識した。もちろん学生として学業にも手抜かりしないので、おかげさまで三年生になったわたしのGPAは大抵の人よりかなりいい。
 風間くんはボーダーの優秀な部隊を率いる隊長なので、普通の学生より大学にくる回数が少ない。だからその少ない回数の中で何とか彼の目に留まりたかったのだ。本当に、最初の頃、まったく視界に入れてもらえてなかったから。


「それはもう報われただろう」


 隣に座る風間くんが、ふわっと、綿あめみたいに柔らかい言葉をくれた。声音はまあるくて優しい。きっと食べたらおいしいんだろう。言葉の意味を噛みしめると、甘い味にじんわりと胸が温かくなった。許されるなら、にやあって笑ってしまいたいところだけど、それこそ風間くんには見せられないし、口角が上がると吹き出物が痛いし、慢心はダメだというのはまさにこれが雄弁に語っているので、口はぎゅうと噤むに限る。


「……や、でも、それで怠けちゃ駄目だよね!今後も風間くんにいいなって思ってもらえる人間となるべく精進するよ!」
「そうか。頑張れ」


 わたしのややヤケクソな決意とは正反対の冷静な激励を賜って間もなく、きっかり五分遅刻した教授が入室したため、二人はそろそろと姿勢を正した。



 講義中の風間くんといえば、お願いどおり一度もこちらを向かないでくれた。ずっと集中が続いていたのかといえばそういうわけでもなさそうで、頬杖をついたりあくびを噛み殺す様子が観測された。風間くんの挙動がバスバス刺さる身としては至近距離で拝めることを光栄に思いながら眺めていたのだけれど、逆にわたしに対する興味のなさを改めて考えさせられる機会となった。ずっと口を覆ってるのも不便なので、今や両手を講義のために使っている。だから風間くんが振り向いたら一巻の終わりである。終わりではあるのだけども、もはやそうならないという絶対の安心感すらあった。
 大きく息を吸い、細く細く吐く。いまいち、風間くんがわたしの何をよしとしてくれたのかわからない。さっき風間くんが言ったように、初対面時の無関心ぶりからここまで来れたのだから、わたしの努力が報われてるのは間違いない。でも具体的にどれがよかったのかわからないから、どれも手を抜かず今に至る。よき人間として続けて損はないから、やめどきを失ったというのもあるけれど。

 でもそもそも、風間くんがいなければこんなに頑張ることはなかっただろうな。

 鐘が鳴る五分前に教授が教室を出て行く。正味八十分間の講義を乗り終えたあとの脱力は必至だろう。始まる前よりどことなく緩んだ空気に混ざるように肩の力を抜く。次の三限の前に、お昼ご飯だ。二限を一緒に受けた日はお昼ご飯も食べられるのでラッキーだ。胃に今日の気分を問いながら、勉強道具一式をカバンにしまっていく。


「食堂でいいか?」
「うん!今日はお蕎麦かなー……あっ」


 口を覆う。いけない、思いっきり風間くんの方見てしまった。片付けしててこっち見てなくて助かった。
 それから、はたと気付く。あれ?これ、まずいのでは……。
 サアッと青ざめる。今、自分が何をしていたのかわからなくなり、ルーズリーフの上で手を右往左往させてしまう。想定できたはずなのに今さら気付くという失態が焦りを加速させていた。(いや、え、ちょっと待って、どうしよう)わたしの考えてることがわかったのか、風間くんは手を止めてこちらに振り向いた。つられるように、視線だけを合わせる。講義前ぶりに対面した真正面からの風間くんの顔は、ちょっと呆れたように目を細めていた。


「カウンター席に座るとか言う気か?」
「いっ……言わな……」


 大変申し訳ないことに、いい、名案!と思ってしまった。風間くんが「なし」って顔をしてなければ飛びついていた。ぜひともそうしたい。だって、とにかく今日、今日さえごまかせられたら、次会うときまでに全力で治すから、みっともない顔面が風間くんの記憶に残ることはないのだ。この期に及んで風間くんに悪いイメージ持たれたくないんだよ。


「……」


 口を噤んだり変な呻き声を上げたりと煮え切らない反応をするわたしに、風間くんはしびれを切らしたのか、おもむろに手を伸ばしてきた。風間くんの右手がまっすぐ、口を隠すわたしの右手首を掴む。突然の行動に頭が追いつかず、避けることもできなかった。

 風間くんは力が強い。多分そこら辺にいる男の人より腕力がある。わざとじゃないのに、勢いは殺してるにもかかわらず掴むときも引っ張るときも相手の抵抗を許さないから、ひょっとしたらもう誰かに乱暴だと言われてるかもしれない。わたしとしては、驚くことはあっても、痛くてやめてほしいほどではないし、夢にまで見た風間くんに触ってもらって初めて知った一面に胸をときめかせるほどだった。

 などと風間くんの強引さにときめいている間に、やすやすと手を剥がされてしまったわけだ。
 露わになった吹き出物に風間くんの視線が集中しているのがわかる。怪我みたいな赤い炎症が、口角から頬にかけてじくじくと存在を主張する。風間くんに見られるという最悪の事態にもかかわらずわたしはどんな顔をしたらいいのかわからなくて、笑うことしかできない。人はどうしたらいいかわからないとき笑ってしまう生き物なんだという話を何かで読んだことを思い出す。
 手首を掴んだまま、風間くんが少しだけ首を傾げる。あいかわらずのポーカーフェイス。


「べつに悪くないが」


 ひょっ、と肩が跳ねた。次の瞬間急速で心臓から全身に熱が伝わる。末端の顔が、いの一番に真っ赤になる。言葉の意味を理解する前に、衝撃が大きすぎて息がうまくできなかった。反射で出た声も裏返ってしまう。


「わっ、悪いよ?!」
「悪いのか。難しいな」


 解放された手でまた口を覆う。難しいと言う割に風間くんの声はどこか軽やかだった。よく見たら彼の口角はほんの少し上がっていて、わたしはなんだか胸がいっぱいになって、涙が出そうだった。風間くんの意図が言葉以上に伝わってくる気がしてしまう。本当に、だとしたら、なんて嬉しいことだろう。


「それで、席はどうする」
「……て、テーブル席でお願いします……」


 隠したい吹き出物なんてなんのその。風間くんの、わたしの心に歩み寄ってくれる言葉だけで、天にも昇る心地ですよ。