犬飼くんは恐ろしい人だ。超能力者かもしれない。布団に入ったままわたしはしみじみと、自分の一番近くにいる男の子がただ者じゃない、という予感に息を吐いた。

 どうして声も聞けないメッセージのやりとりで、体調を崩してることに気付いたのだろう。きのうの時点で自分の体内に嫌な感じはしてたのだ。なんかだるいし、眩暈もするような。でも寝れば治るものだと十八年生きてきた経験がそう判断したから、わたしは特に心配せずに布団に潜り込んだ。起きてびっくり。風邪だった。わたしの勘はポンコツである。

 犬飼澄晴くんとはポツポツと、けれど断続的にメッセージのやりとりをする関係で(いわゆるお付き合いをしている仲である)、今朝、予定していたボーダーの仕事がなくなったから一日暇になったことを教えてくれた。わたしも元気だったら会って、何か二人で楽しいことをしようって言いたかったのに、と熱に浮かされてにじむ涙を枕に染み込ませながら、楽しいことできるといいねって返した。そしたらすかさず送られてきたのだ。「具合悪いの?」って。どうしてわかったんだろう。


「さあ、なんかわかっちゃった」


 フローリングの床に置いてある丸座布団にあぐらをかく犬飼くんがひゅうっと答える。すごいねと掠れた声で言ったらちょっと嬉しそうに笑って首を傾げてみせた。彼のメッセージにイエスの返事をしたら「じゃあ今からお見舞い行くね」と返ってきて、しばらくして家のチャイムが鳴ったのはものの十分前のこと。ビニール袋に入った飲み物が汗で張り付いてラベルを透かしている。アイスは家の冷凍庫に入れたのだと。母があらあらと遠慮しつつも受け取ったらしい。それを聞いて、気の利く男の子だなあとしみじみ思ったけど、「戦略的犯行だよ」と笑った彼はやっぱり不思議な人だ。ゴマを擦ったの、なんてのたまうのだ。
 げほっと痰の絡まった咳をする。首が疲れたので天井を向くことにした。三十八度の熱と咳。喉が痛い。ベッドに潜って寝ているわたしの横で、犬飼くんがあぐらをかいたまま自分のペットボトルをテーブルに置く。


「喉ひりひりしてそう」
「とても痛い…」


 風邪が苦しめる喉はしゃべるだけでも痛いことを彼は知っているのかもしれない。自分から会話を切って、床に左手をついてずいっとわたしの顔の真上に身を乗り出した。それから立て膝で距離を詰め、覗き込むように目を合わせる。わたしのむき出しの喉を、犬飼くんの冷たい手がスルッと撫でた。ぞわりとした感触に肩をすくめる。それに満足したのか犬飼くんは目を細めて笑ったみたいだった。右手のひらが喉を、首を、覆う。距離が近く思うのは、こんな態勢だからだろうか。かすかに影のかかる犬飼くんが、心底楽しそうなのはよくわかった。


「早く治るといいね」
「……」


 頷く。犬飼くんの手のひらはまだ首を覆ったままだ。今しゃべったら変な感じになる。思ったから声は出さなかったのに、犬飼くんは楽しそうに笑ったまま動こうとしない。


「……犬飼くんも、うつらないうちに、帰ってね」
「うん」


 観念して声を出す。すると頷くようにそう言ってあっさりと離れていく手。一体何だったんだろう。思ったけれど、喉の振動はばっちり伝わってしまったのだと思うと気恥ずかしくて何も聞けなかった。どっどっと心臓もうるさいままだし。
 犬飼くんはときおり、わたしで遊ぶことがある。それはわからないことだらけの君の生態に関する数少ない調査結果だった。当のわたしといえば、嫌かと聞かれたら首を振って、流されるように実験台のモルモットになる。今日も彼の好奇心の役に立ったらしい。彼を追いかけるために、寝返りを打って身体を横に向ける。


「うつっちゃったら、困る。明日もボーダーあるんでしょ?」
「風邪引いても戦えるから大丈夫」
「そんなことあるわけない」
「あるよ」


 犬飼くんが膝立ちしたままわたしを見下ろしていた。口角は上がってるから笑ってるように見える。何も心配いらないよと言われたみたいだった。ゆっくりと、瞬きをする。

 犬飼くん、君はまだ謎に包まれているんだよ。付き合ってしばらく経ったと思うけど、未だに底知れなくて、艶やかな、澄んで、どろっとした、いろんな雰囲気を醸す君のことを、わたしはまだ知り切れてない。この間初めて君のお姉さんに会ったとき、とっても驚いたくらいだ。わたし学校にいるとき以外の君の顔もぜんぶ見てみたい。なんて独占欲だ。びっくりしちゃうね。熱で浮かされてるからだと言い張れたらどんなにいいか。残念ながら日常的に、病的に思ってることだった。「何も心配しなくていいから追い返さないでね」冗談めかしてケラケラ笑う犬飼くんに、うん、と笑う。追い返したいわけがない。


「はい、手」


 差し出された手のひらに同じものを重ねる。ぎゅうとどちらからともなく握り締めると、犬飼くんはそっと俯いて、わたしの手の甲に額を当てた。


はわかりやすいね」
「そんなこと、ないと思う」
「じゃあずっと考えてるからわかるんだ」


 ゆっくりと顔を上げた犬飼くんは、やっぱり楽しそうで、上目遣いの両目がわたしを捉えた。


「おれものこと知り切りたい」


 ああぼんやりしてるからかもしれない。心臓が破裂しそうに鳴ってるのに口からは息しか漏れないのだ。


「さあそろそろおやすみだ。かわいそうだから顔は隠しましょうね」犬飼くんの台詞掛かった、透き通った声。右手は離れ、彼の両手で引っ張った掛け布団に頭から覆われる。言葉の意味を考えて、犬飼くんわたしの顔なんか見たって楽しくないだろうに、って思う。でもそういう気持ちがわたしに向いてる以上、犬飼くんを知り切ることは無理なのかもしれない。だとしたら犬飼くんも、わたしのことを知り切るのは難しいんじゃないかな。


 もしかしたらわたしたちは、二人して恐ろしいことを考えてるのかもしれないね。


 思いながら、でも気分は悪くなくて、犬飼くんの言う通りすうっと目を閉じた。静かで恒久すら思わせる眠りの世界へとおちていく。彼の気配はわたしをひどく混乱させ、一方でひどく落ち着かせるのだ。