「おかしいよね」


「うん」さんの呟きには即答する。おかしい。放課後の2年3組の教室がたまたま綺麗に無人なのも、そんなとこに帰らないで二人、俺とさんが隠れるようにしゃがみこんでるのも、おかしい。廊下からは見えない壁沿いに並んでしゃがんでるから目の前には誰かの机があって窮屈だしすぐにでも帰りたい。そう、カバンはすぐ近くにあるんだし、さっさと立ち上がって昇降口へ直行できる。なのにそうしようとしないのは隣のさんがまだぐずったままだからだ。ちなみにさんが言った「おかしいよね」の主語は俺が思ったことと違うってことは、わかってる。


「わたしべつに黄瀬くんと仲良くした覚えないのになんでファンの人に嫌われてるの…」


鼻水をすすりながら言うさんは黄瀬ちんのファンの子たちに嫌われてるらしい。というのは、さっき廊下で一方的に罵られてるさんを目撃した俺自身が証言できる。ああいうのってほんとにあるんだね、女子って怖い。あと少し俺が早くに気付けば助けてあげられたかもだけど、どうだろうね。後ろ姿だったから顔わかんなかったしさんも名前わかんないっぽいから三年生なんじゃない?って思う。まあ俺、年上とかでも全然怖くねーけど。虹村主将は怖いけど。
ぐずってるとは言ったけど大泣きでもなく、かといってこのまま外に出たら注目集めちゃうんじゃないかってくらいに、泣きました!って顔してるさん。かわいそうなのかもしれないけどあんまり慰める気分に慣れないのは、ぶっちゃけもう元気じゃん、と思ってるからだったりする。だから適当なことを言ってしまう、けど、残ってあげてるだけ感謝してよね。


「席替えまで我慢するしかないんじゃない」
「来月かあ〜遠いなあ…」
「黄瀬ちんと一言もしゃべらなきゃいいじゃん」
「か、勘弁してくれ隣黄瀬くんしかいないんだよー…!」


まあそうだけど。無理だってわかってて言ったから目を逸らす。さんの席は後ろから二番目で、廊下側の壁際だ。その左隣が黄瀬ちんだから席順でペア組むときは大体黄瀬ちんだし、話しかけやすい位置も隣の黄瀬ちんだ。もし彼と話すことを禁じられたらきっとさんは授業中簡単に誰かと話せなくなるんだろう。ああそう、後ろから二番目なんて位置なものだから、きっと廊下歩いてた三年生の目に止まっちゃったんだろうね。


「というか、ねえ、紫原くんから見てもそんなにベタベタしてた?わたし」
「してないんじゃない」
「だよねえー!」


「後ろの席の紫原くんがそういうなら間違いないよ!」途端に勢いを盛り返したさんにあからさまにうげえと顔を歪めてみせる。このノリほんとめんどくさい。そりゃ嘘は言ってないけど。さんほんとに、黄瀬ちんだからって特別ベタベタしてたわけじゃないし。中一も同じクラスだったからなんとなく知ってるけどこの人、思いついたことは誰かに言わなきゃ気が済まないたちらしく、授業中も誰彼構わず隣の人によく話しかけてた。意味不明に賑やかな人なのだ。だからか知らないけど一年で五回も席が近くなった俺とはよくしゃべってると思う。今は黄瀬ちんの後ろの席なので、三人で話すことがときたまあるくらいだけど。
とにかく、鼻はぐずってた名残りでまだ赤いものの普段の彼女に戻ったさんはようやく腹が立ってきたらしく曲げた自分の膝をペシペシと叩きだした。


「わたし!悪く!ない!」
「めんどくさー…」


正直に漏らしたのにさんはちっとも頓着する様子はない。人の話を聞かない。自分の話は聞いてほしくてたまんないくせに、自分勝手っていうんだよそういうの。恨めしげに彼女を横目に見下ろすとそんなことにも平気そうに「ね!」と同意を求めてくる。その眼力といったら。電気は点いてないのに夕焼けの光を受けてさんの両目がキラッと光っていた。それに気付くくらいちゃんと目を合わせてしまって動揺する。ヤだなあ、なんか吸い込まれてるみたいで。


「ねーもう帰っていい?」


変なことを言ってる自覚はあった。さんは決して俺に残れとは言ってない。さんが上級生に罵られてるのを教室の入り口から覗いた俺に、ちょうど解放されてこっちを向いていたさんが気付いて、見てた?って言って、俺が何か返す前に、ポロッて涙をこぼした。それで静かに泣きながら歩み寄ってきて、俺は内心慌てて後ずさって、そしたらさんが壁に寄りかかって座り込んだから、俺も、なんとなく、隣に座ってしまったのだ。なんでかさんが落ち着くまでそばにいてあげる役目になってしまった。これを成り行きと言うんだろう。
だから俺はいつだって彼女をほっぽって帰ったっていい。なのに俺の足は縫い付けられたように動かないし、腕も床を押して立ち上がろうとしない。こんな狭いとこにいるせいで身体が不自由だった。なんで座っちゃったんだろう。泣いてる女の子を放って帰るとかひどい、なんてことは多分さんは言わないと思うからそういうのも気にしてない。なのに。最後までわからなかったな、と視線を彼女と反対方向に逸らす。「……」まだじっと見上げられてるのがわかったからだ。「うん」


「一緒に帰ろ」


……そういう意味じゃないんだけど。あからさまに嫌な顔をして向いてやったら、やっぱりさんは頓着しないで満面の笑みを浮かべていた。嬉しそうな顔しちゃってさー、変な子すぎでしょ。頭の中ではドン引きした旨の感想をつらつら述べているのに、すくっと立ち上がった彼女を見上げた途端に俺の身体は自由を取り戻して立ち上がることができた。上履きを縫い付けてた糸を、プチプチと切っていくさんを想像して、やっぱり変な子なんだと納得した。この想像は俺のもので、さんが本当に抜糸したわけじゃないのはわかってるけど。動けなかったのも帰ろうとしなかったのも全部俺次第だった。


「今度は紫原くんのファンに嫌われちゃうかも」


目の前の自分の席にカバンを取りに行くさんが言う。さっきあんなに傷ついてたくせになんで楽しそうなの。思いながら俺も彼女の斜め後ろの席に歩いてって、ぺちゃんこに潰れてるカバンの持ち手に手を掛けた。


「俺にファンなんていんの?」
「聞いたことない」
「あっそー」


どうでもいいんだけどね。随分元気出たさんは肩にカバンを掛けたあと、ふと口元に手をやって神妙に考え込むそぶりを見せた。


「…でもいないことないと思うな?」
「いなくていーよ」


なにその言い方。気ー遣ったんなら無駄だから。おや、とか目を瞬かせたさんはまた笑った。「じゃあいない!」ほら、適当なこと言ってさあ。なんか、もう、色々思うのが馬鹿らしくなってくんだよ、あんた見てると。
いなくていいよそんなの。いいから、さんはどこにも行かないでよ。とか、思うの馬鹿じゃねー、ってなるじゃん。さんは嬉しそうににこにこ笑ったままだ。それが悔しいしもどかしいしでぎゅっと顔をしかめてしまう。もう投げやり。


「……俺の近くは安全だよ」
「そうかも!」


教室を並んで出て行く。二人で帰ったこと誰かが知ったら付き合ってるんじゃないかとか言われるかもね。俺はべつにいいけど。どっちでも。