昨日「赤司っちに変な虫がついた」と騒ぐ黄瀬を青峰がどついていたのを思い出したのは昼休み、廊下を出た青峰に黄瀬が忘れ物を借りに来たときだった。「英語の教科書貸してくんねーっスか?」「あ?」教室の入り口を塞ぐようにして立ち止まった二人を視界の隅に捉え、少々の苛立ちを覚えながら眼鏡のブリッジを上げる。自席に座る俺が無言で歩兵を一つ進めると、駒から手を離した瞬間相手のそれが自陣の同じ駒へと伸びた。淀みなく対極の歩兵が一マス進められる。ふと顔を上げると、その対戦相手である赤司も目だけで入り口の二人を見ているようだった。大方こいつも傍迷惑なあいつらを咎めたいのだろう、と思ったが、その表情に特に悪い感情が見えないのは不可解だった。


「注意するか」
「ん?…青峰たちのことか?」
「ああ」
「それは大丈夫だろう」


逡巡もなく答えた赤司の言った通り、二人は間もなく教室を離れ隣のクラスへ歩いて行ったようだった。通行人の邪魔にならなかったならいい、と人知れず息を吐く。そんなやりとりの間に将棋盤はお互いのスムーズな手によって次第に基盤が形成されていっていた。じきに手を止め熟考しなければならなくなるだろう。そうなるとざわついた昼休みの教室が少し耳触りだ。やはり部室に移動してやるべきだったか。時間が惜しいと言った赤司に丸め込まれた五分前の自分を内心叱咤する。……それにしても。ちらっと、目の前のその男を再び見遣る。


「何をよそ見しているのだよ」


こちらに集中しろと言わんばかりに銀を動かすと駒の軽い音が普段より大きく響いた気がした。なにせ奴は自分の手を指し終えるたび明後日の方向を見ているのだ。気にならないわけがない。俺の声にこちらを向いた赤司は目を丸くし、それから再び盤上に落とした。「ああ、悪い」そう返し、さした時間もなく次の手を打ってくる。毎度余裕を保ったままのこいつをなんとか打ち負かしたくて幾度となく挑戦しているというのに、俺は未だそれに成功した試しがなかった。よそ見する余裕はないぞと駒を動かしていくが、経験から、じわじわと自分の首がしまっていく感覚を覚えていた。
無意識に眉間にしわを寄せながら奴を見遣る。視線だけではあるが、やはり別の方を向いている。注意してこれだ。自分から対局を申し込んできておいて、何がそんなに気になっているのだ。
そういえば、その視線は先ほどと同じ、教室の入り口に向いていないか。


「あっいた!」


そのことに気が付いた瞬間、教室内の騒めきに混ざって耳に飛び込んで来る声。ハッと顔を上げる。軽快なその声の主は他クラスの教室に図々しくも押し入り、周りには目もくれずまっすぐこちらに駆け寄ってきていた。…また来たのか。自分の顔がしかめられていくのを自覚する。「赤司くん!」もちろん奴の目的は赤司だ。俺の机の横に立ち、将棋盤を上から覗き込む彼女、は赤司のクラスメイトだ。


「今日は将棋やってるんだ!どっちが勝ちそう?」
「今のところは俺かな」
「おー赤司くん強い!」
「……」


「わたしが見てるときいっつも赤司くん勝ってるよね!」嬉しそうに言いのけたにピクッと眉が動く。それを見た赤司がおかしそうにクスクスと笑っているのがさらに腹立たしく、落ち着けるように眼鏡のブリッジを再度上げ直す。は将棋で俺が赤司に勝ったことが一度もないことを知らないらしい。しかしわざわざ言いたいことではなく、その上相手が自分にとって良い印象のないとなれば積極的に沈黙を貫きたいのが本音だ。ほとんど迷わずそれを実行することを決め、息を吐き出し試合に集中する。


「ずっと見てたらなんとなくルールわかってきたなー。赤司くん今度相手してよ!」
「ああ、いいよ」
「やったー!ねえ緑間くんって強いの?」
「強いよ」
「へえー…」
「……」


強いよと即答する割にこちらの手を止める一手を打ってくる赤司に口角が引きつるのも無理はない。苦し紛れに時計に目をやると五時間目まで残り十五分を切っていた。対局を持ちかけてきた赤司に昼休み中に終わるのかと問うたら大丈夫と即答されたが、よもや力づくで終わらせる気ではないだろうな。良く言えば大胆、悪く言えば大雑把な攻め方にこいつの意図を垣間見て冷や汗をかいてしまう。……問題は、そんな雑な戦略で進行する赤司に自分が勝ち切れていないことにある。


「じゃあ赤司くんって相当強いんだねー」
「どうだろうね」
「謙遜かっこいい!」
「はは、どうも」


ひたすら赤司を持ち上げるに苛立ちを覚えるのは何もひがみなどから来ているのではない。単に空気の読めない言動が癇に障るだけである。こいつが赤司に好意を抱いていることは既に把握済みだが(本人目の前にそのようなことを言っているのを目撃したことが何度もある)、そのアプローチの方法は考えものだった。そう、黄瀬に言われずとも俺が気付かないわけがない。赤司についた変な虫というのはこの女のことで間違いなかった。
存在を認知したのは彼女が赤司にしつこく付きまとってくるようになった数ヶ月前のことだ。あれからというものの昼休みに赤司がここに来るたび遅れてこいつもやってくるし、部活を覗いていることもしばしば、休みの日には練習試合を見学していることすらあるらしい。俺としてはすでに目に余っているのだが、赤司も赤司でしっかり応対してしまうからがつけ上がるんじゃないのか。ジト目で二人の応酬を見ているといつの間にか赤司の隣のイスを借りて座っていたの方に「どうした緑間くん」と言われてしまった。が、このイライラを説明するのも億劫なので相変わらず沈黙は貫かせてもらう。
そういえば赤司、もうよそ見をしないのだな。…の相手をしているから仕方がないといえばそうだが。


「…あれ?次の数学って宿題あったっけ…?」
「あるよ。ワークの16ページから22ページまで」
「やばいやってない!戻るね!」


ガタガタとイスを元の位置に戻し慌ただしく帰って行ったに呆れた溜め息をつく。結局何のためにここに来たんだ、あいつは。赤司はあいつの話し相手になっただけではないか。


「…赤司、大丈夫か」
「ん?何がだ?」


のことだと付け加えると赤司はああ…とまた明後日の方向を見ながら、「大丈夫だよ」と答えた。その視線に、どこか既視感を覚える。さっきまで入り口を見ていたそれと同じ気がしたのだ。赤司が呆ける俺の目をじっと見る。それに応えるように見返すと、彼の目が弧の形へ次第に細まっていった。伴うように口角も上がっていく。その表情は誰が見ても、楽しげだった。


「…相変わらず緑間は、にぶいなあ」


「ほら、王手」その声に、視線を碁盤に落とす。綿密に組み立てたはずの陣営は、気付けば赤司の力技によってボロボロにされていた。


「…投了なのだよ」


昼休み終了きっかり五分前。考えの読めない赤司にまたもや負けた。