隣の席のさんはとても単純で、その単純な思考回路が筒抜けてしまうくらいよく顔に出る人だった。俺はあんまりそういう、頭の悪そうな人はすきじゃなかったのだけれど、彼女と接するようになって少し認識を改めるようになった。
さんは純真というか潔白というか、とにかくそういうきらきらした白い印象を受ける女の子だった。最後列の席を引き当てたと思ったら前に高身長男子のバリケードを張られ板書に苦戦していた彼女が俺に、申し訳なさ気に書かれていることを聞いてきたのが初めての会話だった。クラスのことにてんで興味が湧かないでいた俺は隣が男だろうが女だろうがどうでもよかったのだけれど、授業中やけにそわそわ動いているなと思いそっちを向くと彼女と目が合ってしまい、バツが悪くてすぐ逸らすと「あの、」口を隠すように手を添え、眉をハの字に下げたさんに話し掛けられたのだった。

それから彼女とは割とよく話すようになり、俺が物理が得意だと知ってからはそれの質問までされるくらいになった。人にものを教えるのは面倒くさいけれど、彼女がお礼にとくれる飴はおいしいので仕方なく教えてあげていた。


「あ、ねえ紫原くん!」


物理は別教室での授業だから授業中板書の内容を聞かれることはない。その代わり教室に戻るなり質問を投げ掛けられるのだ。週二回ある今日もそう。次の授業の準備もせずノートを広げ、先生の言ってた公式なんだけど、と説明する彼女を頬杖をつきながら見下ろす。


「これ練習問題のにそのまま当てはめても答え出せないんだけど、…紫原くん?」
「んー…さんて勉強熱心だよね」
「え?!やっ、そんなことないんだけど、」


俯いて目を泳がせるさんをじっと見つめる。みるみるうちに紅潮していく頬はなにもただ褒められたからだけではないだろう。何度も言うが、彼女はわかりやすいのだ。

多分さんは、俺のことがすきなんだろう。こんなことを考えるのはすきじゃなかったけれど、わかってしまうんだからしょうがない。依然困った表情で目をうようよさせる彼女がさすがに不憫に思えてきたので、正面を向いて視線から解放してあげる。隅に見える彼女は熱を冷まそうと手で自分を扇いでいるようだった。あー、なんだっけ、物理の練習問題だっけ。あれはそのまま当てはめるんじゃなくて、一個前の公式で置き換えて解くやつだよ。そう言おうともう一度彼女に向こうとしたとき、


「でもむらさきびゃ…っ!」


ガクンと頬杖から顎が落ちた。はあ、今なんて?「ご、ごめん!」わっと慌てて口を隠すさんをジト目で見遣る。べつに怒ってるわけじゃない、呆れてるだけだ。彼女らしいといえばそれまでだけれど。


「噛むくらいなら呼び方変えれば?」
「え、」
「名前で呼んでいーよ」


何となしにそう言うとさんはますます顔を赤くして、それから俯いたと思ったら小さく息を吸う音が聞こえた。「……あ、」


「あつしくん、……」
「……ん」


……なんだこれ。さんのが伝染したみたい。なんでか熱くなった頬を隠すように顔を背ける。中学でも高校でも俺を名前で呼ぶ人は何人かいるから、それと同じ構えでいたんだけど。なんだこれ。なんなのさん。心の中で全部彼女のせいにしてやる。しばらくして、衝撃も薄れたところで横目でさんを見た。


「……で、何て言おうとしたの」
「え、あ、でもむ、…敦くん、ちゃんと答えてくれるから助かるって……」
「………」


咄嗟に台詞が思いつかず、「べつに。飴くれるからだし」苦し紛れにそう言い返した。苦し紛れ?いいやこれは本当のことなんだけど。人知れず眉をひそめているとさんは困り顔をやめて「そうかあ」なんて嬉しそうに笑った。それを見て無意識に口をとがらせる。彼女が余裕の表情なのが気に食わない。


のくせにむかつく」
「えっ」
「なに」
「や、なまえ、びっくりした…」
「いーでしょ。お互い様じゃん」


そっけなく言いのける。実のところ結構緊張してたけれど、表には出てないだろう。俺はこの子と違って隠すの上手だから。「それもそうだね」けれど火照らせた頬のままはにかむさんからはやっぱり、顔を背けざるを得なかった。