最終学年になった自分の環境に慣れてきた頃にはもう夏が控えていた。自覚はしていたけれど思った以上に順応性の低いわたしは四月から変わったはずの下駄箱や教室を間違えて去年のところに行ってしまい、周りの見たことない生徒の顔ぶれに気付いて恥をかきながら本来の場所に逃げることが何度もあった。ちょっとぼんやりしながら登校するとすぐそうだ。六月に入って回数は減っていたけれど今日の朝またやらかした。

そういえば、夏休みは大学のオープンキャンパスなんかに行った方がいいのだろうか。三年生になってから考えないといけないことは多くなった。去年まで何も考えずに過ごしていたから今年いきなりあれこれ悩まないといけなくなると思うと気が重い。毎回テスト勉強だけでも手一杯なのに、何ヶ月も先のための受験勉強もやらないといけないのだ。早い人はとっくに始めているだろう。鬱だなあ。


?」


俯いていた顔をパッと上げ振り向くと、教室から並んで歩いていたはずの氷室くんが二メートルくらい距離を開けて後方に立ち止まっていた。彼は目を丸くして首を傾げているのだけれど、そっちこそどうしてそんなところで、とわたしも首を傾げようとした瞬間、ハッとした。またやってしまった、ついさっきまで考えていたはずなのに。急いで駆け寄る。


「ご、ごめん」
「またボーっとしてたね」
「ちょっと…」


昇降口で、また二年生の下駄箱に行こうとしてしまったのだ。ふふっと小さく笑い声を漏らす氷室くんの笑顔はきっといつも通り綺麗なんだろう。けれど今は自分のしたことが恥ずかしくて見れない。小さくなって本来の下駄箱に行き、ローファーに履き替えた。
氷室くんは初めて会ったときから物腰柔らかで温厚で、優しそうな人だった。アメリカからの帰国子女かつ抜群のルックスの彼を同級生に限らず女子生徒は放っておかず、多分、相当もてもてだったんじゃないかと思う。裏門をくぐり、少し進んだところで隣の彼がこちらを向いたのがわかった。吸い寄せられるように、わたしも顔を上げる。
そういえば、氷室くんと初めて会ってからまだ一年も経ってないのかあ。それで、


、手」


氷室くんと付き合って、もうすぐで三ヶ月になるんだ。

肩に掛けたカバンを握っていた手をおずおずと氷室くんの方にやる。すると彼は満足気に笑い、とても滑らかにわたしの手を自分のそれで覆うように、ぎゅうと握ったのだった。…とても慣れたようにやるよなあ…。わたしは氷室くんとこうして手を繋ぐたびに心臓がどきばくしてしまうのに、氷室くんはといえばまるでそんな様子はなく、わたしをエスコートするみたいに至って自然に歩くのだ。いつまで経っても慣れない氷室くんの行動にわたしは翻弄されるばかりである。


「バスケ部ね、もうすぐ大会なんだ」
「あ、そうだ、夏と冬があるんだっけ」
「そうそう。夏の方は去年出られなかったんだけどね」
「そっかあ。じゃあ楽しみだね」
「うん。楽しみ」


氷室くんがにこりと笑うので、わたしもつられて笑う。氷室くんがいろいろなことを犠牲にしながらもバスケットに打ち込んでいることはなんとなくだけれど知っているので、この彼の笑顔が心からのものだということはわたしにもわかった。
氷室くんと共にする帰り道は十分間ほどだ。突き当たりのT字路で、いつも左右に分かれてさようならをする。「じゃあまた明日、」繋いだ手はいつも挨拶と一緒に自然と離れるのだけれど、何故か今日はがっちり握られて離れる様子がなかった。


「、?」



見上げた氷室くんの表情は、声音から想像していたような深刻さはうかがえなかった。その代わり眼差しは真摯で、そんな目に見つめられてしまってはわたしは固まる他なかった。「な、なに?」


「もっと一緒にいたいな」


その一言で顔が真っ赤になる。さっきから速かった脈はそれ以上に忙しくなり体温も急上昇する、感覚に陥った。目をまん丸に見開き凝視するも彼が態度を変える様子はない。


「、え、ひ、むろくん、」
「ダメ?」


繋いでいた手が一瞬離れた、と思ったら少しずらして指と指を絡めてまた繋がれる。そんな繋ぎ方をしたのは初めてで、思わずびやっと肩が跳ねてしまった。「え、あの、えっと、」どうしたらいいのかわからずわたしの口はロクな言葉を発さない。そもそも頭もまともな思考ができていないんだから当然だ。以前から氷室くんの積極的な言動に慌てふためいていたけれど今日みたいのは初めてで、恋愛経験ゼロのわたしはもうお手上げだった。もともと壁側を歩いていたせいですぐに追い込まれてしまい、いよいよ逃げ場がなくなる。べつに変な意味はないはずなのに、この氷室くんの色気はなんなんだ。
氷室くんが、繋いでいた手に力を込め、おもむろに持ち上げた。引っ張られるように持ち上げられ、されるがままそれを目で追っていくと、繋がれた二人の手は氷室くんの顔の近くまで上げられた。何をするんだろう。ショート寸前の頭でぼんやり思ったすぐ、氷室くんはゆっくりと、わたしの手の甲に口づけた。びくっと体が跳ね、そのまま再び硬直する。はっきり伝わってくる柔らかな感触に、わたしの心臓はもう限界だった。一度伏せられた目が開かれ、彼に射抜かれる。氷室くんの方が明らかに背が高いのに、上目遣いをされているみたいだ。やたら様になっているからますますどきどきしてしまう。


「ひ、ひむろくん、こんな、外で、だめだ、」
「そうなの?じゃあうち来てよ」


もうくらくらだ。外国が長かったからなんてとぼけたってムダだ、って思うのに、さらりとそんなことを言いのけてしまう氷室くんに、わたしは何も言い返せないのだ。