ちらりと隣の彼女を盗み見るがやはりこちらの視線にまるで気付く様子はなく、ただ一心にそれに集中しているのだった。ダイレクトで伝わってくる柔い感触がくすぐったいけれどそれを言ってもきっと効果はない。わかっていても口にするのは、しゃべって誤魔化さずにはいられないからだ。


「くすぐったいわ」
「だいじょうぶだいじょうぶ」


にこにこ笑いながら答える彼女は楽しそうにワシの左手をいじっている。大丈夫かどうかはこっちが決めることや、と思いながらも自分からどうにかする気はないので彼女のすきにさせている。いつものことだ。一通り触り終えたのか、彼女の両手がされるがままの左手を包み込んだ。
よくはわからないが、彼女はこの手がすきらしい。毎度のように「翔一さんの手は綺麗だ」と呪文のように唱えながら触れ、形を覚えるように指を這わせたり撫でたりする。ベタベタ、という形容が似合わないのは彼女に由縁するのだろう。春の陽気に溶け込む彼女の雰囲気はいやらしさというものをまるで感じさせなかった。部活が休みで来週に控えた小テストの勉強をするけれど、それでもよかったら、との前提条件つきではあったものの誘ったこの部屋に警戒心ゼロで転がり込んできた彼女に正直複雑な気持ちにはなったが、それよりも時間を共有することは多忙を極める運動部員としては貴重なことに違いなかったので前向きに考えることにする。信用されとると思えばええ。飽きもせず手を触り続ける彼女を見下ろしながら、そう考える。


「翔一さんの手は綺麗だ」
「そうでもないやろ」
「白くてホネホネしてて、とてもすきだ」


何度も聞いた台詞と共に手の甲に出っ張る指の関節をぐりぐり押す。さすがに堪え切れず、にやけてしまうのを抑えるため頬杖をついていた右手で口を覆い隠した。手フェチかと思わせる彼女だが、がこれに目覚めたのは付き合いだしてしばらくしてからのことだ。告白される以前にそのような節は見受けられなかったし、例の呪文を唱えるようになったのは季節が肌寒くなってきてからだったと思う。人肌が恋しかった延長だろうか。夏はもうすぐだから彼女のこの異様な行動にも休暇がやってくるのかもしれない。

そういえば、が告白してきたのは夏真っ盛りの八月やったな。

嗜好も思考も理解の範疇を超えることはあれど、常にといっていいほど柔らかい雰囲気をまとう彼女で連想する季節は春だ。冬も秋も似合うと思うが、しかし夏だけは似合わないと思う。彼女の部屋に初めて行ったのは去年の冬だった。暖かそうな絨毯の敷かれたその空間は一目で彼女らしいと思わせ、逆に夏に彼女が生活しているところが想像できなかった。無論あの部屋はとっくに冬の仕様に変えられていただけで、彼女はただの学生で、自分の一個下で、何より人間なので今まで十六回は夏を過ごしているはずなのだが、たとえば今こうして、穏やかに目を伏せ口元には小さな笑みを浮かべながらワシの左手をもてあそんでいるが、次の瞬間夏に放り出されたらどうなるのか、想像できなかった。彼女と経た夏はあの一日だけだったから余計に。

あのとき、自分にはっきり、すきだと言った彼女は、果たして。


「もしかして勉強の邪魔ですか?」


ふと気付くと、彼女は手を止めきょとんとこちらを見上げていた。おそらくさっきから勉強が進んでいないことに対してだろう。そりゃあ片手をそんなにいじられていては集中できるものもできない。が、しかし実のところ、勉強なんてどうでもいいのだ。ただちょっと出掛けるのは億劫で、でも折角の休日だから顔が見たくて、自室に招くのを変な意味に捉えられないための口実だった。(結果として、彼女にそんなものは必要なかったのだが)「邪魔やないで」言いながら、左手を持ち上げる。離れた彼女の手には構わず、頬を包んでみせた。は手の甲に自分の右手を添え、心地よさそうに目を細める。左手はワシの手首をやんわりと握っていた。……何度か考えたことがある。彼女の手が口だったら、自分はとっくのとうに食われているのだろうと。


「よかった。翔一さん、今年受験生だから」
「ああ…なんや、そないなこと気にしとったん」
「うん」
「まだ気が早いわ。部活も冬まで行くつもりやし、勉強は二の次や。心配せんでええ」
「ならよかった、とか言うのは不謹慎か。翔一さんの頭脳にばんざい」


くすぐったそうに笑う彼女はあの日、ワシが頷いたときの表情に似ていた。不思議な彼女はおそらく何にでもなれるのだろう。だから、あの日の彼女は本物で、すぐにやって来る夏もしたたかに生き延びるのだろうと、アホみたいなことを確信した。