「あ、緑間くん」


その声で存在に気付く。今までの経験から、呼び掛けられたわけではないとわかっていたため特別こちらからリアクションをとることはしない。もはや慣れたことだ。顔を上げ、声の主に目を遣る。ハンドタオルを手にしている彼女はおそらくトイレから戻って来たところなのだろう、理由はわからないが楽し気な表情を浮かべながら、再度口を開いた。


「またおしるこだ」


彼女がこの話題で話し掛けてきたのはこれが初めてではない。今日は自分の席に座り四限に出た課題を昼休みのうちにやっていた俺だが、彼女はいつのまにか、俺の状況がどうであれある条件を満たせば構わず話し掛けてくるようになっていた。話し掛ける、というよりは感想を述べると言った方が近いかもしれない。俺の三つ前の席である彼女はそこに辿り着くまでにほぼ毎回この通路を使い(そのことを知ったのは最近ではあったが)、ここを通るたび、俺の机にそれが置いてあると必ずといっていいほどその台詞を口にした。あるときは通りすがりに一言、あるときは立ち止まって数分の会話が続いた。そして今日は後者らしい。溜め息を吐きながら眼鏡のブリッジを指で上げる。


「そんなにおいしい?」
「何度同じことを言わせる気だ」
「そうだね」


このやりとりも何度目だろうか。口を大きく開け笑ってみせるはまるで俺の理解の範疇を超えていた。こんな決まり切った応酬を繰り返して何が楽しい。無意味だとしか思えないと眉間に皺を寄せると「緑間くんはいつも難しい顔をしてるね」とやはり笑いながら言ってのけるので少々腹が立った。まったく誰のせいだ。しかし彼女自身はそんな俺の苛立ちに気が付いていないらしく、机の上の缶に視線を落としていた。


「緑間くんがいつも飲んでるから味が気になるんだよ」
「それなら買えばいいだろう。購買前の自販機にいつも売っている」
「ええ、そこは一口くれるところでしょう」


何を言っているんだこいつは。不可解と不愉快の感情を隠さず思い切り顔に出すと、彼女も不思議と言わんばかりの表情を見せた。くだらない沈黙が流れる、その前に溜め息をついたのは俺の方だった。


「意味がわからないのだよ」
「まずくて一本飲めなかったらどうしろと」
「あり得ない、が、もしそうだったとしてもいくらでも手の打ち様はあるだろう」
「そっか、じゃあ緑間くんにあげよう」
「いらん」


そんな名案を思いついたように言っても流されるわけないだろう。彼女相手に、溜め息はいくつ吐いても足りなかった。こうして毎回会話は何の実りもないまま、中途半端な終わり方で彼女は去って行くのだった。


相性が悪いのだと思う。翌日の昼休み、部室に用があったついでに購買前の自販機に寄り、慣れた風に丁度の額の小銭を入れた。ボタンが緑色に光り、もう配置も覚えたそこに人差し指を持っていく。普段ならすぐさま押し目的の物を手に入れるのだが、そこに並んでいた前半分のみの見本品を目にしたところでふと彼女のことを思い出した。手が止まり、頭の中で記憶の想起と分析がなされる。そうして、その結論に至ったのだ。
あんな取るに足らない会話のみでの判断はいささか早計かと思われるが、それなりの時間を経たにもかかわらずまるで進歩しない、取るに足らない会話しかしてこなかったのも事実だ。その間わずかながらも彼女に対して感じた苛立ちなどが、自分と彼女の相性の悪さを表していると思えた。それだけを理由とするとこれまでの経験で他の人間とで当てはまらなかった例もあるため説得力には欠けるが、べつに誰を説得したいわけでもないので自分が納得できればいいだろう。とにかく、彼女とは多分……


「緑間くんだ」


ぎょっとして思わずボタンを押してしまった。自販機の光が消え、その直後ガコンと音がして取り出し口に目的の物が落ちて来た。しかし俺はそれには気にも留めず、突然現れた、自分の名を呼んだ人物に振り向いたのだった。……相変わらず楽しそうに笑う。


「またおしるこにしたの?」
「…ああ」


購買に何か用があったのか、知ることに意味はないので聞かない。腰を曲げそれを手にすると今日の気候にはありがたい温かさが伝わってきた。彼女は声を掛けた位置から動かない。不思議に思いつつも目を合わせ対峙していると、ふと、教室での距離と随分離れているな、と思わせた。通路に立つ彼女との距離はなかなかに近いものだったらしい。今になって気付いた。「わたしも何か買おうと思ってさあ」今の間は何だったのか、彼女はようやくこちらに足を踏み出し、ゆっくりと大股で五歩進むと、俺の前で立ち止まった。無意識に缶を握り締める。

相性は悪い。悪いとして、俺は、どうするのだろうか。


「…やる」
「え?」
「味が気になると言っていただろう。折角だから飲むといい。俺は違うものにする」


何をしてるんだと思ったが、少なくとも彼女との話、ひいては関係を終わらせようとの理由ではなかった。おそらく俺は、あの生産性のない話題が進展したらどうなるのか、幾分か興味があったのだろう。その結果として、彼女は目をまん丸に見開いたと思ったら二度瞬きをし、「えーありがとう!」パッと笑顔を咲かせたのであった。嬉しそうに受け取る彼女をある種の感慨にふけりながら見下ろしていると、そういえば俺の方が目線が上なのも今日が初めてだ、と思った。
「じゃあわたしも緑間くんにおすすめのあれを…」財布から出した百円玉と十円玉を一枚一枚丁寧に入れ、迷わず押したそのボタンは温かいココアだった。下から取り出し「はい!」元気良く渡されたそれを受け取る。それおいしいよおとやたら間伸びした声で言われ、「おすすめも何も定番の飲み物だろう」と返しはしたものの、自分の口から発された声音が普段よりずっと穏やかだったことに内心では驚いていた。今日は彼女に対して微塵も苛立っていなかった。財布を脇に挟み、両手で温かいおしるこを包み込んだは確かにそうだねと笑ったあと、はあと息を吐いた。溜め息ではない、安堵の息に近い。「…やっぱりなあ」


「緑間くんと話すのはとても楽しいなあ」


目を伏せてそんなことを言ってのけてしまう彼女の頭の中など知る由もないが、今まで何度も感じていた苛立ちが確かに、その声で昇華されていく感覚がした。
「乾杯でもしようよ」スチール缶のそれを持ち上げてみせる彼女は相変わらず笑っていて、こんなのも悪くはないと思わせた。