「華ちゃんはチョコとイチゴどっちがいい?」

 染井華には友人がいない。
 いないというよりは、必要な対人関係以外を築くことに興味が薄いといった方が正しい。幼馴染みの介入しない学校生活でも、特別ひどい扱いを受けているということはないが、狭い教室の中で浮いているのは確かだった。
 話しかけられたなら受け答えはする。しかし自分から進んで愛想を振りまくようなことはしない。故に彼女は10代の少女たちのざわめきの群れから離れて、ひとり静かに黙座していることがほとんどだった。
 そんな華に、「華ちゃん」などと友人然として呼びかける人物は、彼女自身に思い当たる節が無かった。無かったのだが。

「ねえねえ。どっち?」
「一体何の話?」

 華は読んでいた文庫本を机に伏せて、前の席から満面の笑みを寄越している少女に目線を合わせた。。クラスメイトなので名前くらいは知っている。だが彼女に与えられた座席はそこではないはずだった。は背もたれを跨ぐようにして後ろ向きに椅子に座り、華の机に身を乗り出した。行儀が悪いな、と思ったが、咎める気は起こらなかった。

「お菓子だよお」

 間延びした語尾で、締まりのない表情でが笑う。手のひらをゆるりと開いてこちらに見せると、片手に一つずつ、個包装の小さな焼き菓子が入っていた。

「チョコとイチゴ」
「それは見れば分かるわ」
「どっちがいい~?」
「質問の意図が見えないのだけど」

 華は菓子を無視しての目を見る。本人にそのつもりはないが、人の目を見て話す美徳が、周囲の人びとに少なからず圧迫感を与えていた。表情を繕わないからだ。
 しかしは少しも調子を変えないまま、倒れていくように首を傾げた。

「華ちゃんにもあげるー」
「……どうして?」
「どうしてって?」

 はなかなか答えない華に問いを重ねることなく、二つともを華の机の上に置き、勧めるように華の方に滑らせた。文庫本は律儀に避けながら。華は薄桃色の包装の方を指でつまみ上げる。

「わたしはあなたから何かもらうようなことをした覚えがないわ」
「え~~~?だって、同じクラスだよ」

 周囲を見渡すと、教室にいるほとんどの女子と数人の男子が同じ小さな包みを手にしている。どうやらクラスの中で配り歩いているらしかった。

「みんなに配っているの?」
「うん。あのね、うちのお母さんがたくさんもらってきたの」
「そう。ありがとう」

 手当たり次第に配っているのなら自分に回ってくるのも納得が行って、華は二つの包みを鞄にしまった。どうせ後で幼馴染みに見つかって食べられてしまうだろうと思ったが、特に不都合がなかった。
 は満足げに頷くと、両手で頬杖をついてにこにこと華に笑みを向けた。理由のない好意に底の知れない居心地の悪さを感じて、僅かに目線を下げる。
 どうして数年来の友人のような呼び方をするのかが気になったが、それを問い詰めるのも妙な気がした。なぜその呼び方なのかと問えば、「だって華ちゃんでしょ?」と返ってくるであろうことは想像できた。その通りだ。恐らくは彼女は華以外にも変わらぬ接し方をしているのだろう。

「自分の席に戻らないの?」
「華ちゃんって放課後なにしてるの?」
「……人の話聞いてる?」
「うん」
「……放課後は、大抵、ボーダーにいるわね」
「へえ~。華ちゃんボーダーなの?」

 もうすぐ休憩時間が終わるというのに、馴れ馴れしいクラスメイトが席を立つ気配は一向にない。元の席の持ち主も戻ってくる様子はないが、一方的に気まずさを感じている華は、早くこの会話を終わらせたかった。しかし質問されれば律儀に答えてしまう。それでは機嫌よく矢継ぎ早に華を質問責めにする。

「ボーダーってかっこいい人いる?」
「あなた、テレビ見ないの?」
「テレビ出てる人?検索したら出る?」
「あ、ちょっと……」

 華が何か言う前には制服のポケットからスマートフォンを取り出して、検索をし始める。まだ何も言っていないのに、と思ったが、の指は瞬く間に文字を打ち、画面には嵐山隊のインタビュー記事が表示されていた。

「あ、この人?」

 が写真の中央で笑みを浮かべる嵐山を指さした。華はぐっと言葉に詰まったが、否定する理由もないので「……そうよ」と肯定する。するとはうんうんと意味ありげに深く頷き、「やっぱり」と呟いた。

「やっぱりって、何?」
「かっこいいじゃん」
「顔だけじゃないわよ」
「顔はすきじゃないの?」

 反論できなかった。だがはそれを揶揄ったりする風はなく、記事の続きを流し読みしては「ふうん」と頷くのを繰り返した。
 華は実のところ、意外だと言われるだろうと思っていた。自分が外にどのような印象を与えているか、自覚しているつもりだった。ミーハー心を隠している訳ではないが、ろくに話したこともない人々から、外面だけのイメージを塗りたくられることは、決して心地が良いものではなかった。しかしそれを払拭するために労力や時間を割こうとまでは思わない。
 はただ質問をして、返って来た答えをそのまま受け止めた。それはほんの少し華の心を慰めた。

 結局その日、からもらった焼き菓子は奪われて、葉子の腹に収まった。




「華ちゃん、おはよう」

 翌朝もは懲りずにやってきた。今度は隣の席を乗っ取って。ホームルームまで読もうと思っていた本を鞄から取り出す間もなく、少し離れていた机を寄せてくる。無論その席ものものではない。

「おはよう」
「はい」
「……これは?」

 はブレザーのポケットからいくつか小さな飴を取り出して、机の上に転がした。小気味良い音を立てて散らばったそれを、華は昨日と同じように判然としない気持ちで見つめた。は大げさに首を傾げる。

「あめだよ?」
「それは見れば分かるわ」

 同じ会話が繰り返されている、と思いつつ、華は飴を指でつまむ。苺の模様が散りばめられた白いワックスペーパーに飴が包まれ、両端を捻って留めてある。ふわりと甘酸っぱい香りが漂う。
 今度はクラス中に配っているという訳ではなさそうだった。どうやらは自分に興味を持っているらしい、とさすがに華も気がついて、嬉しいでも厄介でもなく、物好きな、と感想を抱く。昨日の会話で彼女の関心を引くようなことがあったとは華には思えなかった。

「それね、好きなやつなんだ」
「あなた、いつもお菓子持って来てるの?」
「うん」
「そう……ありがとう」

 呆気に取られて礼を言うのを忘れていた、と、取って付けたように付言すると、ふにゃりと崩れるようにが笑った。やわらかいスポンジケーキが、ほろほろと倒れるように。
 華は無意識に目を逸らした。吸った息が熱を持ったような、何故か、肺を圧されたような気がして。誰にも触れられてはいないのに。
 机の汚れを無意味に眺める華に気を留めず、は机に投げ出されたままの飴をひとつぶ拾い上げて、まるで情緒なく引き開けると口の中に放り込んだ。くれたんじゃないのか、と思ったが、元はのものだ。華は唇の裏側を柔く噛んで黙っていた。

 おそるおそる目を上げるとは先の表情をほどいていた。理由も分からず華がほっとしていると、またがポケットをごそごそと掻き回し始める。今度は何が出てくるのだろう、まるでメリー・ポピンズの鞄みたい、そう思って華は僅かに緊張を解いた。
 探り当てた何かをが取り出す。手のひら大のチューブだった。ほぼ白と言っていい、薄いベビーピンクのパッケージに赤い蓋。どうやら食べ物ではなさそうだった。くるくると蓋を回して開けると、チューブの腹を押して中身を手の甲に押し出した。ハンドクリームだ。先程の飴よりも濃く、強い香りが、途端にの周りを取り囲む。

「……すごい匂いね」
「あ、ごめん、いやだった?」
「いいえ。大丈夫」


 思わず声にした言葉は、どちらも華の本心だった。しばらく消えないであろう甘い香りは、人工的なものだったが、不思議と不快には感じなかった。
 手にクリームを擦り込みながらがチューブに描かれた絵を見せる。そこには苺の乗ったケーキが描かれていた。

「これ、ショートケーキの香りなんだって。すごくない?」
「そんなものまで甘いものなのね……」
「お菓子食べちゃいけないときとかに塗る」
「なる、ほど」

 なるほどと言ったが華には良く分からなかった。は神妙な顔つきで爪の周りを馴染ませている。
 言われてみれば、バニラのような香りがする。ショートケーキの香りとは、と華は悩みかけたが、こういうものはリアルに再現することは重要ではないのだろう、とすぐに考えるのをやめた。イチゴ味、と書かれた飴玉も、実際の苺の味はしない。

「華ちゃんもいる?」
「え、」

 自分の手を塗り終えたが、チューブを示して小首を傾げる。華は反射的に自分の手を見た。色味のない、地味な手袋。その下に隠された自分の手。思わず言葉に詰まる。
 はぱちんとまばたきをして、華が凝視するその両手を瞥視した。華もその気配に気付いたが、発する言葉も、すべき行動も思い付かず、ただ自らの手を見つめた。

 すると突然その視界にの手が伸びてくる。は、と気が付くと、が華の腕を緩く握っている。状況が飲み込めず、華はそれを目を丸くして見ている。が華のブラウスの袖を数センチ捲ったところで、華はきゅっと身体を硬くさせた。
 しかしは手袋には触れず、予め指に取ってあったハンドクリームを、そっと華の手首に乗せた。の指が、するりと華の手首を撫でる。

「……っ!?」
「あ、ごめん、冷たかったよねえ」

 そういうことではない。吐き捨てたい気持ちがいっぱいに広がったが、声にならずに腕を胸に引き寄せた。は手を振り払われてもにこにこと嬉しそうにしている。触れられた手首から背中までざわざわと落ち着かない。の指はもう離れているのに、皮膚に何か触れているような感覚が抜けないのだ。
 華が透明な触感と戦っていると、は呑気に手のひらを顔に近付けて見せた。

「ね、いいにおいでしょ」

 顔を覆うようにしていた手のひらを、ぱっと外側に向けて、彼女はまたふうわりと笑った。華は、まだ白いクリームがうっすら残った自分の手首に視線を落として、逡巡したが、がしたように鼻先に近付けた。
 そんなことをしなくても、十分この(ショートケーキらしい)香りは辺りを満たしていたが、それを見てはますます嬉しそうに目を細める。
 華は遮るようにまばたきをして、残ったクリームを擦り込んだ。

「わたしにはちょっと甘すぎるわね」
「えー?だめかあ」
「でも」

 あなたには似合うんじゃない。雫された言葉に、がどんな表情をしたのか、顔を背けたままの華には見えなかった。
 ただ机の上に転がされたままの飴を手に取って、また幼馴染みに奪い取られるのは少し惜しいと思い、包みを開いて口に放り込んだ。イメージ上の苺の味で、本物の苺の味にはやはり遠い。でも、嫌いじゃない、と華は思う。
 甘いだけのクリームの香りに、この甘酸っぱい苺の香りが混ざれば、少しはショートケーキらしくなるのでは、とも思ったことは、何故だかには言えなかった。

(20200420)
染井華/ハンドクリーム

for project : She is stunning!