甘い香りがする。目の前で、小さな指が安い模様のカップをていねいに包み込む。ゆっくりと持ち上げると、神聖なもののように唇が触れる。わたしはそれを息を止めて夢中で眺めた。そしてそれが、自分が与えたものであるということが、たまらない優越を感じさせ、自らの手元にある同じアップルティーのことなど忘れていた。

「飲まへんの?」
「……え?」
「それ」

 真織ちゃんが片眉を上げてわたしのカップを指差した。きれいな指。真織ちゃんに見惚れていたわたしが、突然の問いに言葉を引っ張り上げようとしていると、彼女は呆れたように首を傾けた。

「冷めるで」
「え、ああ、うん。真織ちゃんに見惚れてたから……」
「は、はあ!?」
「真織ちゃん、色白くて顔ちっちゃくて手足も細くて、お人形みたい」
「急に何やねん。きもいわ」

 思ったままを伝えたのに、真織ちゃんはぎゅっと眉を寄せて顔を背けてしまう。でもわたしは彼女が怒っていないことを知っているので、今度は真織ちゃんの横顔を見つめてうっとりと頬杖をつく。不機嫌そうに唇をへの字にした真織ちゃんが、ちらっと目だけでこちらを見る。笑みを深めて応えると、彼女は長い睫毛に囲まれた目を少し見開いて、長いため息を吐いた。

が男やなくて良かったわ」
「どうして」
「いややろ、こんな男おったら」
「そうなんだ」
「あんたなあ、…………もうええわ……」

 真織ちゃんは緩く首を左右に振ると、睫毛を伏せてまたアップルティーを口にする。真織ちゃんは恥ずかしがってあんまり言わないけれど、彼女は可愛くてロマンティックなものが好きだ。そういうところも真織ちゃんの魅力なのだから、恥ずかしがらなくたっていいのに。そう言うと真織ちゃんは頬を赤くして「あんたの台詞の方が恥ずかしいわ」と言うのだ。

 でもね、真織ちゃん、わたしは。わたしはね。



 真織ちゃんがスカウトされてボーダーにやって来たとき、わたしは今と変わらず冴えないオペレーターで、どこの隊にも呼んでもらえず、ただぼんやりと業務をこなしていた。真織ちゃんは少しだけ中央で研修を受けて、そのときわたしが担当で付いていた。元々真織ちゃんは生駒隊専属だったので、あまり一緒に仕事をすることはなくなってしまったけど。

 真織ちゃんはわたしとは違う。何もかもが違う。色が白くて、あたまが良くて、仕事が出来て、よく気がついて、恥ずかしがり屋で、かわいい女の子。わたしが教えたのは基本的な機械の操作とか、ボーダーの仕組みとかそんなことで、能力は段違いだった。
 すぐに研修を終えた真織ちゃんだったけれど、廊下ですれ違ったり、食堂で会えば会釈をしてくれた。わたしはそれが嬉しくて、生駒隊に暇があるときは何かと理由を付けて真織ちゃんを誘った。
 真織ちゃんの方も、お世辞にも人懐こい性格ではないので、なかなか友達を作れずにいたようで、いつもわたしに付き合ってくれた。
 真織ちゃんは一つ年下だったけど、わたしの名前を呼んでほしくてそうお願いした。真織ちゃんがわたしの名前を呼ぶと、わたしの名前はただの記号から途端に色を持った音に変わる。

 初めて真織ちゃんを見たわたしは、そのとき感じた、胸を重い空気が満たしていく息苦しさの名を考えもしなかった。真織ちゃんが生駒隊の隊員たちと話しているとき、わたしといるときと同じように顔を赤らめているのを見て、やっとわたしはその甘く重たい憂鬱の名を理解した。


?」
「なあに?」
「いや、ぼーっとしとるから……」
「真織ちゃんがかわいいから」
「そういうのええから!」
「ほんとなのに……」

 わたしが泣き真似をすると、真織ちゃんはぎょっとして慌て始める。素直なのだ。わたしが何度ずるく嘘をついても、それに怒っても、また疑いもなく信じてしまう。わたしの、わたしの真織ちゃん。

「だって、うちよりも」
「……ん?」
「うちよりも、の方が女の子らしいやろ」

 顔を覆っていた手を外して、真織ちゃんの顔をまじまじと見つめる。何を?言っていることが飲み込めず、彼女の言葉が頭の周りをただぐるぐると回る。わたしの間の抜けた表情に気付かず、真織ちゃんは唇を尖らせて続けた。

だって色白いやん。うちみたいにツンケンしとらんし、みんなと仲良う出来るし。ちゃん可愛いってうちの隊の男共も言っとる」
「ま、まおりちゃん?どうしたの……」
「うちは」

 うちも、みたいに出来たら良かったわ。雪のつもる音ほどの微かな声で真織ちゃんが唇を震わせた。伏せられた睫毛が頬をなぞるように揺れる。薄白い輪郭の細やかさに、背筋を火がのぼってくるような心地がした。
 ほとんど憎悪と呼んで差し支えないほどの醜い劣情が、わたし自身が、この透きとおるような清らに、受け入れられようとしている、愚かな錯覚。わたしの真織ちゃん。
 のどがかわいた。

 わたしは儀式のようにマグカップを手のひらで包んだ。ていねいに指を滑らせて、ぬるい表面をそっと撫でる。真織ちゃんがしたように、神聖なきもちで。そうっとカップの縁を噛む。甘ったるい匂いが鼻腔に充ちる。
 真織ちゃんはもう薄い唇をすっかり結んでしまって、俯いたまま黒い睫毛の隙間からわたしの表情を窺っている。

「……何で黙っとん」
「わたしたち両思いだなと思って」
「はあ!?!?」

 ばっと色を零したように顔をまっかにする真織ちゃんを、わたしは満ち足りたきもちで見つめた。こんなふうに、少しの濁りもない、汚されたことのない少女だ。わたしはその清らかさを愛しているのだ。その無垢が汚されたときのことを想像する。

「ねえ、真織ちゃん」
「何」
「ずっと両思いでいてね、わたしと」

 真織ちゃんは首もとまで赤い色を広げて唇を開いては閉じている。数回それを繰り返すと、「阿呆」と言ってわたしの手の甲をはたいた。わたしは笑う。どうかわたしが、ただ平穏に、汚れなきこのひとを愛していられる日々が続きますように。甘い香りが鼻先にこびりついた。
(20200406)
細井真織/ユニコーン

for project : She is stunning!