地面に落下し粉々になったガラス片のイメージが脳裏に浮かぶ。それに気を取られ、気付いたときには森の中にいた。
「……え?」
思わず瞬きをする。いきなりなんだ?さっきまで町中の人混みを歩いていたはずなのに、どこ、ここ?手に持っていたショッパーどころかカバンもなく、完全に身一つになっているじゃないか。摩訶不思議な現象に目を白黒させてしまうのも無理ないだろう。
「夢…?」
そう思うのが妥当ではあった。こんなに意識のはっきりしている夢もなかなかない気がするけど、まさかどこかの森にテレポートしましたなんて方が信じられない。辺りを見回してみると、なるほど夢らしく風や生物の音は一切なく、現実感がなかった。まるで時間の止まった世界のように、わたしの存在以外が無音だった。
とにかくここでじっとしているわけにもいかず、動くことにした。手始めにまっすぐ歩いていく。道なんてなかったけれど、前方は他より木と木の間が開けているように見えたのだ。
その感覚は正しかったようで、しばらく歩くと建物を見つけることができた。森の開けた場所にポツンと建っているそれはただの一軒家などではなく、中世の貴族の住まいのようにやたら豪奢な西洋風の家だった。とんがり屋根と繊細な装飾が施された外装に自分の想像力の豊かさを感嘆せざるを得ない。わたしの脳内にいつからこんなお家が眠っていたのだろう。とにかく、森の中の洋館なんてメルヘンなシチュエーションを社会人になって体験することになるなんてなあ。
ひとしきり観察してから、どうせ夢だしと怖いもの知らずな気分でドアをノックする。返事はなかったものの構わずドアノブを捻ると、思った通り鍵は掛かっていなかった。
「お邪魔しまーす…」
ゆっくりと開き中を覗く。玄関はなく、いきなりリビングらしき空間が広がっていた。内装も外国のそれのようで、華奢な木製の丸テーブルやイス、棚や花瓶などがいちいちエレガントだった。
そして、それら家具に必ずといっていいほどバラの装飾が施してあった。さらには至る所に本物のバラの花が飾っており、過剰と言えるほどバラづくしの内装だった。花の色は赤で統一されており、花瓶に刺さっているそれはもちろん、棚の上にもプランターで置いてあったり、よくみると床に花びらが散らばっている。ついさっきまでバラモチーフのものを目にしていたのもあって、だからかなあと考えた。
ドアを閉め、部屋の真ん中まで歩く。奥にも部屋が続いているようだけれど、なんとなく行く気にはならなかった。脚がくるんと丸まっているテーブルの上に置かれた花瓶のバラに目をやると、一本だけ枯れているのに気が付いた。部屋に飾ってあるバラもよくよく見てみると、枯れて色がくすんでいる花がちらほら見つけられた。手入れが行き届いてないのだろうか、と考えて変な気分になる。夢なのに。
「ああ、来てくださったんですね!」
ビクッと大きく肩が跳ねた。誰かの声が聞こえるとは予想しておらず、自分でも驚くほど大げさにリアクションしてしまった。反射的に振り返ると、隣の部屋からなんと観月さんが顔を出していた。
「ずっと待っていたんですよ。さ、どうぞお座りください」
どこか高揚した様子の観月さんはそう言ってバラの模様が彫られたイスを引いた。「は、はい…」うろたえつつも促されるまま、着席する。テーブルを囲んで九十度左に同じイスが置いてあるので、観月さんが座るんだろうなと思っていたらそうはせず、隣の部屋に消えてしまった。
彼はすぐに戻ってくると、手にしていたトレーから茶器をテーブルにテキパキと並べ始めた。例によって取っ手や蓋にバラのモチーフが付いている。そういえば、お財布バラだったなあ。
なるほど、あの意外な印象が、この夢に反映されているのか。現状に納得がいったわたしは彼に対する警戒心を緩め、予想通りのイスに着席してティーカップに紅茶を注ぐ観月さんをまじまじと見つめることにした。わたしの夢なだけあり、観月さんは見た目だけでなく所作も理想的に美しかった。ほぼ初対面で何も知らない相手をこんなに近い距離で眺める機会もないので本人に悪い気がするけれど、観月さんは嫌な顔一つせず、それどころかご機嫌そうに口角を上げていた。
「どうぞ」
ソーサーに乗ったティーカップを目の前に差し出される。「ありがとうございます」美人にもてなされるなんて悪い気しないなあ。観月さんに関して、恥をかいたり不信感を抱いたことはあれど、平均して悪い気がしない。どれもこれも観月さんが好みドンピシャなのがいけない。わたしはなんだか負けた気分になりつつ、いっそいい気にすらなって、高揚した心持ちでティーカップを手にとった。紅茶は砂糖を入れたい派だったけれど、どうせ夢なので何でもいい。一口すする。
「おいしいです」
「お口にあって何よりです」
そう言って得意げに目を細める観月さん。予想通りのローズヒップティーに思わず笑ってしまいそうになったけれど、おいしいのは本当だ。観月さんの極端すぎるバラ推しに自分の想像の安直さを呪いながら、もう一度口につける。
ふと、テーブル上の花瓶に目がいった。十数本生けられたバラのうち、枯れたものが二、三本見える。あれは、なんだろう。
「人に紅茶を振る舞ったのは初めてだったので、喜んでいただけて嬉しいです」
「そうなんですね。おいしいですよ」
「ありがとうございます。さん」
バラから目を離し観月さんを見る。本当に嬉しそうだ。他でもないわたしが喜ばせているという優越感がむくむくと湧き上がってきて、不自然に口角がつり上がってしまう。すぐに、夢の中でいい気になりやがって、バカ、と冷静になったのだけれど。
「きっとあなたは他の人と違うんですね」
「え?」
観月さんがわたしをじっと見つめて言う。聞こえた台詞に思わず聞き返したのだけれど、何も説明してもらえず曖昧に笑い返すことしかできなかった。……やばいな、こんな内容の夢、いよいよ恥ずかしいぞ。
「さん、ずっとここにいてくださいね」
「…あ、いえ、そろそろお暇しようかと」
まさかいられるわけがない。かなりいい夢の部類だし、また見たいなと思うけど、夢は覚めるから夢なのだ。苦笑いでティーカップを置く。カチャンと食器のぶつかる音が響く。無音の中。
そういえば、わたし以外無音だと思っていたけど、観月さんからは音がするな。
「……どうしてですか」
「えっ」
唐突に聞こえた声。さっきまでと明らかに違う、低くて暗い声音はまるで、黒い靄を想像させた。顔を上げると観月さんと目が合う。眉間に力を入れ、悲しそうに、わたしを見ていた。
「せっかくこんなところまで来てくださったのに、どうして」
「え、えっと…」
なんだか観月さんの様子が変だ。さっきまでの楽しそうな表情から一変、さみしい男の子のように、心細そうにわたしを見つめていた。
「ま、また来るので!」
つい口をついた台詞だった。そうでも言わないと観月さんが可哀想で仕方なかったのだ。案の定彼はホッと安堵したように、「本当ですか?必ずですよ」と笑みを浮かべた。
「はい。…じゃ、じゃあわたしはこれにて…」
観月さんに必要とされてるみたいな都合のいい内容に居たたまれなくなり立ち上がる。そそくさと退散するように入り口へ足を進める。
「こんなに満たされた気持ちになったのは初めてです。また来てくださいね、さん」
部屋を出る間際、後ろでそんな台詞が聞こえた気がしたけれど、一人苦笑いをするだけで、振り返ることはしなかった。
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