03


 どうも黄瀬くんに嫌われてしまったらしい。木曜二限の大教室、最前列ど真ん中。誰にもバレないよう小さく溜め息をつくと、背筋を這い寄る悪寒にぞわっと粟立った。


 いくら冷めた一面を持つ黄瀬くんと言えど、さすがに真正面から嫌いと言ってきたわけではない。正直、いつ言われるのかビクビクしていた時期もあったけど、言われたことはない。というか、サークル見学以来まともに言葉を交わしていなかった。黄瀬くんとは大教室での講義がまるまる被っているらしく、意識して探せばほぼ毎回姿を見つけることができた。そうでなくとも高校時代からよく目立つ人だったから探すのは容易だったし、バスケサークルに入った友達もあっという間に同学部の有名人・黄瀬くんのファンになったらしく、黙っていても彼の情報が耳に入ってくる。その子によるとモデルの仕事はまだ続けているけれど、講義の欠席理由は仕事か、寝坊か、自主休講の三択なんだそうだ。
 そういえば結局、黄瀬くんもバスケサークルに入らなかったらしい。仕事で手一杯だからと断られてしまったと残念がっていた。女友達数人と学食でテーブルを囲むわたしは、黄瀬くんバスケ上手だったのにねえなんて会話に相槌を打ちながら、薄ら笑いする他なかった。


「みんなヘタクソ」


 限りなく本音に近い呟きだったと思う。何も惜しくない、目の前のバスケを楽しむ面々に少しの情もない横顔は、むしろ見下しているようにすら見えた。
 そう、あんな本音を聞かせる程度には信用してもらってるんだと自負していただけに、まさか嫌われてるのではと気付いたときの衝撃は大きかった。

 サークル見学の次の日、大教室に入ってきた黄瀬くんと目が合ってほとんど反射的に手を振ったら、素っ気なく会釈をされた。じっと見つめはされたものの表情に愛想はなく、どちらかというと人見知りの人間が初対面の相手に向ける眼差しに近かった。想像していたリアクションと違くて固まってしまったのも無理ないだろう。しばらく恥ずかしさに見舞われつつも、シカトされなかっただけよしとしようと嫌な脈を打つ心臓をなんとか慰めた。とはいえ、馴れ馴れしいのが良くなかったかと思い、わたしからあいさつするのはそれ一度きりでやめてしまった。
 それから間もなく、同じ講義を一緒に受けている友達の彼氏が黄瀬くんと仲良くなったらしく、大教室で会うと通りすがりにあいさつを交わしたり、講義が始まるまで談話したりするようになった。けれどそのときであっても黄瀬くんはわたしと目を合わせようとせず、「おはよう」「どうも」以上の返事をしようとしなかった。

 今日もそうだった。最前列を陣取るわたしたちの近くへ彼氏さんを含む三名でやってきて、主に彼氏さんと友達がしゃべっている間、黄瀬くんは携帯をいじって無言を貫いていた。居心地の悪さを全力で耐えていると、教授が入室してきたタイミングで三人は後ろへ移動し、いつも通り四列後ろの席に座った。「ここら辺でいい?」「いいけど黄瀬、大教室だと前の方座りたがるよな」どの講義でも前の席は不人気なのでガラガラだ。少し離れた背後から聞こえる会話を盗み聞くことも簡単だった。三人の関係は良好そうで、芸能人という特殊な人種の彼を必要以上に持ち上げたり嫌味を言ったりすることのない、健全なやりとりが毎回聞こえた。その事実にますます心労が積もっていく。

 面倒になるのは嫌なので、黄瀬くんと同じ出身高であることは伏せている。わたしと黄瀬くんについて他の人たちが追及してきたことはないので、多分黄瀬くんも言ってないと思う。むしろ嫌われてることを鑑みると、黄瀬くんから漏れることはないだろう。


「……」


 板書を写しながら口頭だけの解説をメモに取る。取りながら、やっぱり考えてしまう。まったく関わりがないならまだ諦めがついた。友達の友達なんて中途半端に視界に入る位置にいるものだから、気になってしまうのだ。
 しかも不気味なことに、あんなに徹底的に壁を作っているにもかかわらず、視界の端でときどきこちらを見ているのがわかる。それも生暖かいものじゃなく、監視されてるような、睨まれてるような冷たいものだ。今も四列後ろから見られている気がしてならない。
 ……正直、疲れる。まさかこれがずっと続くのかと思うと憂鬱でしかない。気がつくと追っていた教科書が二ページ分遅れていて、本日何度目かの溜め息をついた。



◇◇



ちゃんって黄瀬くんと高校一緒なんだって?」


 大学の学食で向かい合った友達に突然そんな話を切り出された。さっきまで二限の最前列で一緒に受けていた子だ。大学に入って何人か女友達はできたけれど、一週間の時間割が限りなく近く、講義に対する姿勢が同じな彼女といるのが一番落ち着いた。相手もそう思ってくれてるのか、お昼を過ごす時間は自然と多かった。
 のんびりした雰囲気の彼女の口から発せられた疑問に、「えっ」と素っ頓狂な声を上げてしまった。慌てて口を押さえるも、周囲は学生で賑わっているため大して目立ちはしなかったようだ。


「……なんで知ってるの?」
「彼氏が言ってたよ」
「え、じゃあ黄瀬くんから聞いたの?」
「うん。高校の話になって、そういえばって」


「やっぱ隠してたんだ。ちゃんっぽい」クスクスと笑う彼女に変な笑顔しか作れない。頭の中ははてなマークでいっぱいだった。黄瀬くんが言った?なんでわざわざバラすの?わたしとの共通点なんて知られたくないんじゃないの?意味がわからない。
 黄瀬くんは周りの人間に対してちゃんと愛想よくできる人だ。ちゃんと冗談に乗って笑うし、腹が立ったからって自分勝手に場の雰囲気を悪くせず、ちゃんと空気を読むことができる人だ。「ちゃんと」してると思うのは、そういう処世術を、黄瀬くんがしたくてやってるんじゃないんだろうなと感じることがあるからだ。だとしてもできている以上角は立たないので、遠くから見てる分には特別気になったりはしなかった。
 つまるところ、黄瀬くんは空気が読めるので、わたしと同高という情報についても、本人は言いたくなかったのに言わざるを得ない状況に迫られたんじゃないかと思った。言いたくなかっただろうに、災難だったな、と案じる方向にまで達し、同情を遠くの彼へ飛ばすべきかと考えはじめたところで、友達は「あ、そうそう」と続けた。


「黄瀬くん、さん俺のこと何か言ってる?って言ってるらしいよ。結構何度も。同高だから気になるんだって」
「え、そうなんだ…?」


 つい間抜けた返事をしてしまう。言いたくなかったにしては妙な質問だ。しかも複数回に渡ると言う。なんだか、話を聞いてると、黄瀬くんが自ら暴露し、わたしの動向をうかがってるように感じてしまう。嫌ってるくせに普通そこまでする?ていうか、さすがにそこまで監視される筋合いない。
「やばいね。黄瀬くんに気にされるとか、どきどきじゃん」オムライスへスプーンを伸ばす彼女がにこにこ笑うのを、いや…と曖昧に誤魔化す。絶対どきどきする理由じゃない、とまでは言えなかった。



◇◇



 なんか、一周回ってムカついてきた。あの人、わたしが悪口言ってるとでも思ってるのか。頭にあったはてなマークは爆発し、今やすべてムカつきマークに変わっていた。ここ数週間ずっと監視されてる窮屈さにいい加減腹が立ってきたのだ。ただ世間話の一環、言葉の綾で聞いただけで悪意なんてないという可能性が0%とは言い切れないけれど、それにしては今までの黄瀬くんの態度はどう考えても不自然だった。


(原因は……)


 黄瀬くんがわたしに冷たい理由。思い当たるのは一つしかない。
 サークル見学のとき、彼を変な目で見てしまったことだ。すぐに逸らしたけど黄瀬くんが明らかに驚いていたのはわかった。あれから何を話していいのかわからなくなり、ずっと沈黙していたら試合が終わって人間の輪に飲み込まれたため、二人で会話をすることなく解散になった。
 あれは、氷嚢をもみくちゃにする彼と夢の彼が重なってつい動揺してしまっただけだ。とはいえ、不躾な視線は不快だったんだろう。反省点はある。後ろめたさもあるから、今まで黙っていたけれど。


(こんな遠回しにうかがわれる謂れはない……)


 図書室の勉強机に向かう姿勢のまま腕を組み、背もたれに寄りかかる。四限が始まるまでに二限のノートの清書をしたいのに、お昼から腹の底あたりがむかむかしてちっとも進んでいなかった。
 頭の中であーと叫んでから、気分転換に、べつに行きたくもないお手洗いに行くことにした。このむかむかを解消しないとずっと集中できない気がする。いっそ黄瀬くんに一言謝って、悪気はなかったって言えばいいのかな。わたしから謝るの、正直釈然としないんだけど。いや、かといって黄瀬くんの立場からしても、そっけない態度をとっただけで謝るほどのことか?って感じだ。だとすると、やっぱり原因の自分が謝らないと解決しないのかも。

 学習スペースから離れ、規則正しく並んだ書架と書架の間を通り抜ける。選択講義で使いそうなジャンルがあるなと横目を滑らせながら、女子トイレまであと書架三つ分というところで、左手の通路から目の前を人が横切った。それが誰だかわかった瞬間、思わず立ち止まる。


「…あ」


 それは向こうもだった。通り過ぎることなく目の前で立ち止まる。金髪と高い身長、長い足、整った顔立ち。どこにいても目立つ彼は、目下悩みの種の黄瀬くんだった。
「ども…」彼の会釈に反射的に返してしまいそうになり、かろうじて堪える。黄瀬くん今一人だ。周りに人もいない。チャンスだ。わたしは何のシミュレーションもなしに、彼を呼び止めた。


「あの」
「…なんスか?」


 潜めた声に彼も小さく低い声で応える。やっぱり他の人に接する態度と明らかに違う。到底、わたしだけだなんて特別感に浮かれることのできる代物じゃない。「はっきりさせておきたいんだけど…」「え、」黄瀬くんの表情が明らかに強張る。


「黄瀬くんわたしのこと嫌いなんだよね?」
「……は?」


 途端、呆気にとられる黄瀬くん。絵に描いたようにぽかんと口を丸く開けたではないか。思わずえっと動揺してしまう。まさか言い当てられるとは、というより、そう言われること自体予想外だとでもいうかのようだった。


「…え、べつに嫌ってないっスけど」
「え、いや、気遣わないでいいから。もうわかってるし…」
「いやいや!」
「しっ」


 ボリュームの上がった声を窘めると咄嗟に口を押さえる黄瀬くん。「……誰かが言ったんスか?」すぐに落ち着きを取り戻し、潜めた声でうかがう。射抜くような疑いの目をしているけれど、わたしに向けられたものじゃないことはわかった。いよいよ解せない。


「や、普通に、黄瀬くんわたしにすごい冷たいから…」
「そっ……れ、は」


 途端に動揺を見せた黄瀬くんにズキッと心臓が痛む。やっぱ自覚あるじゃん、ほら。強がるように口を尖らせる。散々予想してたけどいざ本人に認められると傷つくらしい。一度は否定されてホッとしていたのかもしれない。


「…いや、嫌いだからじゃないっス。ただ、さん、俺のこと…バスケの見学してたとき、変な目で見てたのが、気になって……」


 みるみると歯切れが悪くなっていく黄瀬くん。顔色も悪くなっていくようだ。……怯えてる?なんで?
 今度はわたしが呆気に取られる番だった。具合でも悪くなったのかと心配になるほど、黄瀬くんの様子は異様だった。何も知らない人が通りがかったらわたしがいじめてるように見えそうなほど。
 そこでようやく気がつく。黄瀬くんのわたしに向ける視線の意味。黄瀬くんはわたしを監視しているのではなく、警戒しているのではないかと。


「え、あの、ごめん。…あれ実は、直前に見た変な夢に黄瀬くんが出てきて、つい重ねて見てしまったってだけ、なんだ」


 まさか自分が彼にストレスを与える加害者だったとは知らず途端にバツが悪くなる。不快とかそういうレベルの話じゃなかった。言い訳がましく事実を少し掠めた理由を説明すると、黄瀬くんはわかりやすくパッと顔を上げた。


「はっ?それだけっスか?」


 そう、そう、何度も頷くとますます表情を明るくする。心から安堵しているようにも見え、今考えたことは限りなく正解だったんだと確信した。まさかあんなことで黄瀬くんが怯えるに至るなんて、思ってもみなかった。どちらかといえば図太いと思っていたけれど、もしかしたら彼は途方もなく繊細な人間なのかもしれない。


「なんだ、心配して損したっス」
「ごめんほんと」
「いや、俺こそ。俺てっきり――…」


 そこではたと一時停止した黄瀬くん。「え?」思わず覗き込むように首をかしげると、彼はすぐに笑顔を作った。


「――なんでもないっス。いやーでも誤解が解けてよかった。さん同高だし仲良くしたいと思ってたんスよ」
「そ、そうなんだ。ありがとう…」


 ケロッといつもの調子で笑う黄瀬くんにそれ以上追及することはできず肩をすくめる。「早速なんスけど、水曜の二限のノート見せてもらえないっスか…。先週休んじゃって」「いいけど…」バツが悪そうに頬を掻く彼のお願いにも大して考えることなく頷いた。
 なんだか気が抜けたな。こんなあっさり問題が解決するとは。彼との関係が思わぬ場所に着地して現実感がなかった。喜びというより安堵の気持ちが大きい。ふわふわした心持ちのわたしは結局、黄瀬くんがなぜあんなことで過敏になっていたのか、聞くタイミングを逃したのだった。




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