もうすぐ始まる定期考査に頭を悩ませながら校舎を出ると、向かいの第一校舎の自動ドアから赤司くんが出てくるのが見えた。あ、と思うと同時に周囲の学生も彼に注目したのがわかる。そりゃそうだ、学内一の有名人だものね。
こないだ実渕くんと同席して知り合ったものの、以降懇意にしているわけもなく、一度も会話をしていない。別れ際「見かけたら遠慮せず声をかけてくれていいから」と綺麗な笑顔で言ってもらったけれど、まさかこんな注目されてる人に駆け寄ってやっほーなんて言える度胸はない。高嶺の花ってやつだ。一人苦笑いをもらし、校門へ足を進める。彼も帰るらしく、構内の広い道幅を距離を空けて歩いていた。
「赤司やっほー」
度胸ある人いた!思わず横を振り向く。男の人が数人、彼に歩み寄るのが見える。友達だろうか。声を掛けられた赤司くんは戸惑う様子もなく慣れたようにやあと応答し、歩きながら何かを話しているようだった。立ち位置的に友達に挟まれたため彼の姿は見えなくなってしまい、ちょっと残念な気持ちになる。今まで探したこともなかったけど、同じ学部なのに講義は被ってないみたいだしほんとに見かける機会は少なさそうだ。これはいよいよ一度限りのご縁だったと諦めざるを得ない。
すっかりミーハーになってしまったなあと自嘲しながら校門をくぐる。友達に合わせたのか歩調が遅くなった赤司くんのことは抜いてしまった。最後にもう一度彼に振り返ると、校門を出て友達と別れるところだった。横顔に小さく口元に笑みをたたえ手を挙げる赤司くん。ほんとにいつもテレビで見る笑顔だ。かっこいいなあ。友達が彼に背を向ける。
その瞬間、彼の上がっていた口角が下がる。横顔がまったくの無表情だと気付いた瞬間、急激な悪寒に襲われた。同時に、頭の奥で薄氷の割れる音が響く。
「……え」
気付くと辺り一面銀世界だった。とはいえ、空に太陽は見えないため積もった雪が銀色に輝くことはなく、薄暗い周囲は不気味な雰囲気を醸し出している。思わずぶるっと身震いする。……あれ、わたしなんでこんな……夢を見てるんだ?
やけにはっきりした意識で思い出してみるも、さっきまで家に帰る途中だったので寝るはずもない。でも寝る寸前の記憶ってないから、これは最後の記憶じゃないのかも。電車とかで寝たのかな、なんて結論を出し、両腕を抱きしめるように摩る。それにしても異常に寒い。夢が覚めるまでどこかに避難したい。
見ると、一面の雪に一本の道ができていた。先に何かあるのかもと思い、前に進むべきか後ろに進むべきか逡巡し、前だろうと決めて駆け出す。走った方が少しは温まると思ったのだ。
「……うわー…すごい」
三十秒くらい走った場所に、なんと氷でできたお城を見つけた。さっきまで見えなかったような気がするけど、夢だからなんでもありだ。どこまで続いているのかわからない城壁を一瞥し、迷わず目の前の門を押し開ける。思ったより重い。夢だから簡単に開くと思った。それに氷でできてるみたいに冷たいのだ。手がしもやけになってしまいそう。
全体重をかけてだいぶ踏ん張ってようやく、人ひとり通れそうな幅が開いた。力尽きる前に滑り込むようにくぐる。門は再び元の位置まで戻っていき、バタンと重い音で閉じた。わたしの荒い呼吸だけが残る。走ってきたのに加えて体力仕事。普段週一の体育くらいでしか運動しない身にはなかなか堪える。
気を取り直して正面のお城のドアに手を置く。そういえば、一応ノックとかした方がいいんだろうか?わたしの夢だからって礼儀とかまったく気にしてなかった。もしかしたらこのお城に、普段わたしが尊敬してる人がいるかもしれない。……とはいってもやっぱり夢だしなあ。
意味はないけど思いついたんだから、と形だけのノックをしてみる。が、案の定中からの応答はなかった。無性に恥ずかしい。これまた誰に見せるわけもなく肩をすくめて、ドアを引く。やっぱり重い。
「えっ」
ドアの隙間から見えた光景に瞠目する。城の中は外と同じく氷でできていて、開けた瞬間冷気が漂ってきた。そんなことよりも、奥の方に見覚えのある人がいたのだ。ドアの隙間に身体を滑り込ませ、覗くように屋内に入る。
「お、お邪魔していいですか」
さっきまであんなに後先考えず行動していたのにここに来て及び腰になってしまう。許してほしい、だって予想外の人物だったのだ。
「赤司くん…」
ドアの向こうは広間になっていて、真正面には二階に続く階段があった。その中段あたりに座りこちらを見据える男の子、赤い髪にややつり上がった丸い目の、どこからどう見ても綺麗な顔立ちの彼は、俳優の赤司征十郎くんで間違いなかった。
壁だけでなく階段や手すりも氷でできているようで、それらにはある程度の透明感がある。冷たくないわけないのに平気そうにそこに腰を下ろす彼は、わたしの言葉が聞こえていないのか無反応だった。…ダメって言われてないから、いいかな。そろそろ冷たいドアに触れているのがつらくなったわたしは、おそるおそる入室することにした。背後で氷と氷がぶつかる音がする。
及び腰になりながらも、わたしの夢にしては幻想的だ、と思った。雪の世界、ぜんぶ氷でできたお城に、神さま顔負けの完璧な男の子が存在している。写真に撮って飾りたいところだけど、あいにく持ち物に携帯はなかった。
「か」
「えっ、…うん!」
唐突に呼ばれて驚く。今日の夢で初めてのコミュニケーションだ。いやはや、今回はいろいろ不可思議なことが起こるな。もしかしたら今までもこういう夢は見たことがあったのかもしれないけど、起きたらすぐ忘れてしまってるのかもしれない。こんなロマンチックな夢は忘れたくない、起きたらすぐメモしよう。それで、実渕くんに話してみよう。いいわねって言う彼を想像して楽しくなる。
「こんにちは赤司くん。外寒いからここにいさせてもらっていい?」
「ああ」
てくてくと歩み寄りながら、ふと違和感に気付く。赤司くんの表情が一切変わらないのだ。焦点は合ってるからわたしを見てるのは確かなのに、見てるだけでにこりともしない。実渕くんと三人でお茶したときと随分印象が違う。わたし赤司くんにこんな印象はなかったんだけどなあ。不思議に思って首をかしげる。
「何か疑問があるのか」
「あ、ううん…なんか赤司くんが真顔なの、見慣れないから驚いてしまって」
「驚く…」
赤司くんが目を伏せる。失礼なことを言ってしまっただろうか。とはいえやっぱり夢なので、そこまで罪悪感もない。赤司くんもべつに、傷ついた様子はない。
「いつも笑顔のイメージだからさ。わたしの夢だから想像でしかないんけど、なんか意外だ」
「ここはおまえの夢ではない。オレの世界におまえが来たに過ぎない」
「へっ?」
思わぬ部分で反論されてびっくりした。夢の中の人に夢であることを否定されるとは。あまりに流暢に反論されるから、「そ、そうなんだー…」と納得を示してしまったほどだ。頭ではまったく納得してないけれど。
……そういえば、ここも寒いから、さっきからずっと寒いな。指先が冷え切っていることに気付いて手弄りする。
ふと見てみると、左右の壁に仮面が飾られていることに気付いた。わたしの頭の少し上の高さあたりに無造作に並べられたそれらは喜怒哀楽、様々な表情を浮かべている。目と鼻と口が空いているのは共通しているものの、どれも微妙に違う表情になっている。それらを目で追っていくと、次第に悪寒を感じた。自分の顔が強張るのを自覚しながら、おそるおそる正面の赤司くんに視線を戻す。
表情豊かな仮面に囲まれる、肝心の赤司くんの顔には、一切の表情がなかった。
「赤司くん、あの…」
「この世界にオレ以外の人間が来るのは初めてだな」
「え、あの…」
「…怯えているのか」
口にした彼はしかし、わたしを案じたりはたまた気分を害した様子はなく、至って無表情に見つめ返すだけだった。
「以前にも思ったが、表情がはっきりと出る人間だな」
「……」
とっさに目を逸らす。どうしてだか、顔を見られたくないと思った。前に、「表情がはっきり出るところ、すごくいいと思うよ」って言ってもらったやつだ。言われて嬉しかったのを覚えている。でも今、淡々と言われた同じような台詞は、むしろ恐ろしさすら感じた。
「おまえがここに来たことには理由があるのかもしれない」
「り、理由…?」
「ああ。まだわからないが」
「うーん…そっか…」
なんとか相槌を打ちながら、密かに太ももをつねる。痛みは感じるのに目が覚める気配はない。何で、もう嫌だ。ここは寒いし、目の前の赤司くんも普段と違くて怖い。ずっといたらおかしくなりそう。ここにいるくらいなら一人でいた方がましだ。
「あ、赤司くん、わたし外に行くね」
あまりに不自然だったけれど踵を返す。もういい、どうせ夢の中の赤司くんだ。どう思われても構わない。半ばやけくそになって走り出し、ドアノブに手をかけた。
瞬間、後ろから伸びてきた手が自分のそれに重なる。背後の気配。赤司くんだ、と思うと同時に、夢の世界で一番の寒気を感じた。
重ねられた手が氷よりも冷たいなんて。芯から冷える悪寒にぞわっと鳥肌がたつ。
「――っ!」
後ろで赤司くんが息を飲んだのを気配で感じ取り、振り向こうとした瞬間、さっきも聞いた破砕音が響いた。
次に気がついたときには生暖かい空気に包まれていた。道行く人々の気配に無意識に安堵し、息をつく。……夢、覚めた。
「大丈夫かい?さん」
「!」
ぎょっと顔を上げる。目の前に、赤司くんが立っていたのだ。さっきまで対峙していた能面のような彼がフラッシュバックし身体が硬直する。
「さん?…驚かせてしまったかな」
「…えっ、やっ、なんでもないよ!」
「そうかい?こんな道端で立ち止まっているから、具合でも悪いのかと」
「全然、元気!」
慌てて取り繕う。びっくりした。赤司くんの言う通りここは校門を出てすぐの道端で、駅へ向かう学生が何人も横切っていく。そんな場所で立ったまま気絶してたなんて、ありえないなわたし。とりあえず通行の邪魔にならないよう端っこに寄る。と、なぜか赤司くんも一緒についてきた。
周りの人の目も気になったのでお別れでもよかったんだけど、と思ってしまった心の汚さにショックを受ける。どれもこれもさっき見た夢のせいだ。赤司くんから見えないように苦い顔をする。不思議なことに夢の中で感じていた寒気の名残があり、鳥肌の腕を摩る。本当に風邪でも引いたのかも。
「ここからなら駅より大学の救護室が近いし、ついていこうか」
「いっ、いい!」
反射的に拒否する。やば、感じ悪かったかも。赤司くんは親切で言ってくれたのに。顔を上げると、覗き込む姿勢の彼と目が合う。赤司くんはわたしの非礼に気分を害した様子もなく、「そうか?」と再度問うただけだった。
特別変でもないし、わたしにとっては都合のいい反応だった。にもかかわらず、寒気がした。
……優しいだけだ、赤司くんは心が広いから滅多なことじゃ機嫌を損ねない人なんだ。自分に言い聞かせながら、にこっと笑顔を作る。もちろん、それに対して赤司くんが表情を変えることはなかった。
「……あ、じゃ、じゃあ、帰るね!」
居た堪れず踵を返す。ちょっと、夢の影響受けすぎだ。赤司くんが変みたいに見えてしまう。今日はこれ以上関わらない方がいい。逃げるように足を踏み出す。
「待っ――」
後ろから腕を掴まれる。瞬間、夢が覚める間際、背後に立った赤司くんを思い出した。ドッと心臓が跳ねる。冷や汗が背中を伝う。
しかし赤司くんの手は夢の彼ほど冷たくはなかった。むしろほんのり温かく、人の体温が直に伝わってくる。だからわたしもすぐに硬直が解け、振り返ることができたのだ。
「な、なに?……?」
見上げると、赤司くんは目をまん丸に見開いていた。視線の先は自分から掴んだ手を見下ろしている。見るからに瞠目する彼をおそるおそるうかがうも、驚いたまま時間が止まってしまったみたいに動かない。
「赤司くん…?」
「……! ああ、すまない」
彼は我に返るとすぐさま手を離した。目を見開いたまま自分の胸に手を当て、何か考えたのか、改めてわたしを見た。そのときにはすでに、赤司くんはいつもの優しげな笑顔を浮かべていた。
「さん。もしよければ、連絡先を交換してくれないか?」
「えっ!なんで…」
「君に興味があるんだ」
そんな顔の赤くなるセリフを恥じらいもなくまっすぐ目を見て言われる。まんまと恥ずかしくなったわたしは、一抹の不安を覚えながらも頷くことしかできなかった。
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