月曜の五限は移動教室だ。物理の教科書やルーズリーフなど教材一式を片手に抱え、席を立つ。後ろのドアから出た方が廊下へは近いがあえてそうせず、僕は遠回りの窓際の通路を通って前のドアへ歩いて行った。
ふと、通り道の席に座る黒羽くんが目に入った。机に寝そべる体勢のままの彼はなにやら携帯の画面と睨み合っている。その様子が少し気になり、彼の後ろからそれを覗き込んでみた。画面に映るのは敷き詰められた文字と一枚のカラー写真。どうやら新聞記事のようだ。
彼の見る「盗品だらけの美術館」という見出しの新聞記事には一昨日発覚した深山美術館の裏側について詳しく書かれている。同じような見出しは昨日も見たが、犯行が明るみに出て二日経った今日には館長であり深山商事社長でもある深山総一郎氏のさらに詳しい悪行が発覚していた。被害総額も馬鹿にならない。余罪もいくつかあるようだ。
もちろんこの距離では文章を読むことはできないが、その記事なら朝、家で読んできていた。内容もしっかり頭に入っている。僕は昨日のうちに捜査二課に出向いて詳しい話を聞いていたが、やはり当事者の彼も気になるのだろう。なにせ、自分の命を狙ってきた輩だ。
キッドに殺し屋を差し向けたのも深山氏だった。現金強盗を実行した学生時代の後輩に頼まれ、口封じをすべくあの二人を雇った。彼と殺し屋が逮捕された今、もうキッドの命を狙う者はいないだろう。思い、ふと息を吐く。


「君の清算もできたようでよかったよ」
「へ?」


僕に気付いていなかった彼はとぼけた顔で振り向いた。そして声をかけたのが僕だとわかった途端顔を歪め、パタンと携帯を伏せる。そんなことをしても無駄なんだけどね。
べつに言葉以上の意味合いはないさ。こちらとしても一安心だった。君を捕まえるのは僕だ。その前に誰かに殺されてしまうなんてことにはならないでくれたまえ。そう伝えると黒羽くんはやはり引きつった笑みを浮かべる。黒羽快斗のときは頑なに認めようとしないのだ。


「だから俺はキッドじゃねーって…」
「それから、僕は工藤くんとの面識はありませんよ。ご参考までに」


固まった彼の表情を横目に、隣を通り抜ける。彼がいつ工藤くんの存在を知ったかは定かではないが、もともと変装する予定のなかった人物なのだろう。彼と僕の関係すら調べていなかった。…とはいっても、そこに気付けなかった僕も大概未熟なのだが。

怪盗キッドといえば、彼の付けていたIDはまったく無関係の来客のために用意されていたものだった。これはホテルで確認したことだが、翌日のために用意していたはずのIDがあの事件の最中一つ紛失していたのだそうだ。
ちなみに最初に依頼を受けた際地下室で爆死したと思われていた竜探偵は、依頼人に金を積まれ芝居をしていただけだったらしい。次の日のニュースで警察に連行されている姿を目にした。茂木探偵と槍田探偵の名前もハッタリで、二人はこの事件に一切関与していなかったらしい。まあ、彼らも相当しぶとい探偵だから、そう簡単に死ぬとは思っていなかったが。

今度は黒羽くんの右斜め前に座るさんに目を向ける。そろそろ教室を出る頃合いなクラスの雰囲気に逆らわず、彼女も机から教科書などを取り出しているようだった。そのさんに近寄り、後ろから軽く覗き込むように声をかけた。


さん」
「あ、白馬くん!一緒に行く?」
「ええ」


彼女のお誘いににこりと笑い返す。隣では紅子さんも支度が終わったようで、席に着いたまま僕を見上げているのが視界の隅でわかった。教材一式を机に出し終えたさんはイスを引いて立ち上がる。その間に、僕は自分の教材を右腕に抱え直し、空いた左手で彼女の分を取った。「え、」目を丸くする彼女には笑みを崩さず笑いかける。


「持ちますよ」
「え、大丈夫だよ!」
「お気になさらず」


普段移動教室を共にすることはほとんどない。それなのに今日彼女に声をかけたのはこのためだった。さんの右の手のひらはまだガーゼで覆われており、自由に動かすことは禁じられている。指に力を入れるのも痛むそうで、日常生活はほとんど左手で賄っているらしかった。弁当もおにぎりとフォークで食べられるおかずにしてもらったようだし、朝、ロッカーから教科書類を抱えて戻ってくる様子を見て不便そうだと思っていたのだ。このくらいのことならいくらでも僕を使ってほしかった。


「頼まれたら?せっかくだし」
「う、じゃあ…ありがとう白馬くん…」
「いいえ」


申し訳なさそうに眉尻を下げるさんに返事をしながら、二人分の教材を束ね、ペンケースを上に乗せ両手で抱える。「さ、行きましょ」紅子さんの先導で歩き出し、教室を出て行く。そわそわと落ち着かない様子で僕の方を何度もうかがうさんに大丈夫ですよと苦笑いで返すと、彼女もひかえめに笑った。それから斜め前を歩く紅子さんに話しかけられ会話を始めた彼女から目を離し、廊下へと落とした。顔から笑顔は消えていただろう。

あのとき、他に方法がなかったとはいえ、ナイフに立ち向かってしまえる彼女に危うさを感じた。確かに彼女の言い分はもっともだった。あの状況では誰かが助けに入るとは期待できなかった。もし彼女が何もしなければ、ゲートを通りセンサーが反応し、腕のIDが爆発していた。手を切るより取り返しのつかない事態になっていた。だから彼女の行動は強く責められることではない。もしかしたら褒めたっていいのかもしれない。だが、問題はそこじゃなかった。

さんはいざというとき、のっぴきならない状況になったら、ナイフの刃を掴むような危険な行動を取れてしまうのだ。これは今回に限った話じゃない。京都でも単身で山奥の寺に乗り込んだ。日本刀の刃を見つけてそこが危険なところであると認識しながらも足を進めた。三ヶ月前は、自分も命を狙われている身でありながら紅子さんの身を案じて病院へ向かった。映画館のロビーで二本のコードが残ったときもそうだ。危険なことをしている。一歩間違えれば命を落としていた。
引き返そうとしない。自宅で待っていようとしない。二択の責任を自分が負おうとする。今回だって、ナイフの刃を握る以外に抵抗する手段は本当になかったといえるのか。所詮僕が述べているのは結果論だ。しかし、彼女のそんな一面を見過ごせなかった。

無鉄砲、向こう見ず。僕は、彼女がそういった行動を取る理由の一部を、自分が担っていることを自覚していた。


(素直に喜んでる場合じゃないぞ…)


自嘲気味に笑い、それからぐっと噤む。もう二度と、こんなことはさせまい。固く誓った。