18

ふらふらと家に帰り着いたと思ったら、次に目が覚めたときには布団の中だった。昨日の朝から開けっぱなしのカーテンは窓からの日光を遮ってくれるはずもなく、そこから降り注ぐ光がわたしを強制的に目覚めさせたらしかった。……早起き、というわけでもないんだなあ。枕元の置き時計を見遣って何とも言えない気分になる。時刻は朝の九時を指していた。
布団に潜り込むまでの記憶を掘り起こしながら辺りをなんとなく見回していると、掛け布団の上に本が乗っかっているのに気が付いた。寝相が奇跡的によかったのか、床に落ちずに足の上でバランスを保っていたらしいそれを手に取る。…中級者への将棋。ぼんやり眺めていると、昨日のことがチカチカと思い出された。
シカマルに、なんだかとんでもないことを言われた気がする。いいや直接はっきり言われたわけじゃないけれど、というか、言われたことよりも、おでこ、……。
おずおずと、本を自分の額に当ててみる。するとあの瞬間の、シカマルとの距離とか体温とか、とにかく色々なものが瞬時に思い出され、わたしはわああああと情けない叫び声をあげて布団に倒れ込んだ。枕に顔をうずめて必死に落ち着かせる。昨日と同じくらい心臓がばくばく鳴っている。軽い気持ちで追体験みたいなことをした自分に、ばかやろうと心の中で罵った。
しばらくしてようやく落ち着いてきてから、はあ、と息を吐きながら顔を横に向けた。今度はちゃんと距離を置いて本と向き合う。…なんか、読んで頭に入れたこと昨日で全部飛んでった気がするなあ…見返すにももう二週間借りて、。


「そうだ!」


バッと起き上がる。この本の返却期限は昨日だ。だからシカマルの家から帰る途中に寄ろうと思っていたのをすっかり忘れてた。それも仕方ないだろう、あんなことがあったんじゃあ、とまたどきどきしてきそうになるのを落ち着かせて、首を振る。わたしにとってのっぴきならないかどうかは関係ないのだ。もう図書室は開いている。一日過ぎてしまったけれど、急いで返しに行かないと。すぐに身支度をし、家を飛び出した。

受付のお姉さんは温厚な人で、謝りながら渡すと大丈夫ですよと笑顔で受理してくれた。助かったとほっとしながら出入り口のドアを押し開ける。さて、用も済んだことだし、今日は一回帰って演習場に行こうかな。できればいのちゃんとかチエくん誘って何人かでやりたい。
ゆっくりと閉め、一歩踏み出したところで、進行方向の壁に寄り掛かって立っている人と目が合った。瞬間、固まる。


「よお」


シカマルだ。シカマルがいる。瞬時に昨日のことを思い出してしまい、その場であわあわとうろたえる。どうしよう、逃げ、たい、けど、逃げ道がない。

昨日多分わたしはあのあと完全にフリーズして、ようやくシカマルが離れて解放してくれたあとは「え、あ、わ、」とかよくわからない声を発しながらふらふら立ち上がって、「か、帰る、ね」と呟いてよろよろと帰った。顔はものすごく熱かったし、動悸は指先まで伝わってきて、後ろからシカマルの声がしたのかしてないのか定かじゃないくらいに混乱していたのだ。
あのときの空気がぶり返す。シカマルは動かないわたしにしびれを切らしたのか、呆れた様子でこちらに歩み寄ってきた。思わず一歩引くけれどもちろん後ろはドアで逃げられない。


「おい、逃げんなよ」
「う、」
「とりあえず、入り口邪魔んなるから。行くぞ」


そう言って手を引かれ、どこかへ連れて行かれることになった。頭の整理が追いつかないまま、数分歩いて着いたのは彼のお気に入りの休憩所だった。木製のベンチに座ったシカマルの左隣に、おずおずと腰を下ろす。どうしよう、ここまでついて来てしまったけど、まだ全然考えがまとまってない。昨日の、シカマルの言葉の意味も、全然、……。
空を見上げながら頭の後ろで手を組んだシカマルとは対照的に、すっかり緊張しきったわたしは借りてきた猫みたいにぴっしりと足を閉じて膝の上で手を揃えていた。……とにかく、何か別の話をしよう。何の解決にもならないとわかっていたけれど、とにかく今は沈黙が居た堪れなかった。


「し、シカマル、図書室に用があったんじゃあ、」
「あそこにはねーよ。おまえにあったんだっての」


どきっとする。別の話をと思ったのに、見事に本題に直結されてしまった。逃げるように俯いて、自分の手の甲ばかりに焦点を合わせる。「昨日のあの様子なら返却期限のこと忘れてるだろーと思ってよ。行ってみたら案の定おまえが入ってくの見えたから待ってた」普段通り冷静に、淡々と話すのがかえって余裕を奪う。わたしはそろそろキャパオーバーで、顔がかっかと火照っているのを感じながら、ぎゅっと目を閉じた。シカマルが手を解いたのが気配でわかった。
……期待、してしまうよ。いいのかな、だめだよね、わかってるんだけど、心臓が治まらない。

だって、シカマル、わたしのことすきなんじゃないかって、思ってしまうよ。


「こっち向けって」


どこか楽しそうな声が聞こえる。遅れて頬に、指の背中の感触が伝わった。ゆっくり、おそるおそる目を開く。それから横に向くと、やっぱりシカマルの表情は仕方なさそうに眉尻を下げて、けれど笑っていた。


「もうわかってんだろ」
「……で、でも、」


そんなことが、あるのだろうか。また目を逸らすわたしにシカマルはネガティブ治んねーな、と笑い、そのあと神妙に目を伏せた。うかがうように視線を彼に戻すと、同じタイミングで見上げたシカマルと再び目が合った。


「すきなんだよ、おまえのこと」


もう、深読みする余裕すらなかった。ほとんど涙目のわたしは口を一文字に閉じて、心臓に湧き上がる様々な情動を堪えた。わたしもだと言えたのは少し間を置いてからで、しかも声はとても震えていたけれど、シカマルは嬉しそうに目を細めて笑ったのだった。