月曜の放課後はいつもすぐに帰るのだが今日はそうせず、の委員会の居残り作業に付き合うことにした。とは言っても俺自身はただ待っているだけで、昼休みも頑張っていたようだが終わらなかったらしい彼女だけが今もせわしなく右手を動かしている。何かの表を書き写すとかなんとか、大雑把な説明を受けた結果急ぎの用であることだけはなんとなくわかった。部活もなくこのあとは家に帰るだけの俺は席替えをして中央列の後ろから二番目の席になったの前に座り、彼女の仕事が終わるのを眺めていたのだった。


「ごめんね早く帰りたいよね」
「いや。好きで残ってるんだから気にするな」


思ったことをそのまま口にするとは珍しくしおらしい態度で小さく笑った。カリカリとシャーペンを走らせる作業はどうやら単純な工程のようで、それでも今日中に担当の教師に渡さないといけない物だから家に持って帰ることもできないらしい。昼休み、提出期限をすっかり忘れてたと言った彼女をぼんやり思い出す。がっかりしたように「だから今日一緒に帰れない」と頭を垂れたにじゃあ待つよと即答した俺は我ながらベタ惚れだと思う。椅子に横に座り、教室に射し込む夕焼けに目を向ける。…こんな時間も悪くないと思えるくらいには。「優しいねゆりこちゃん」ちらりと横目で彼女を見ると、机の上の紙に俯きながら柔らかく笑っていた。
あえて相槌は打たず、すっと目を細める。手持ち無沙汰がそうさせたのだろう。俺はずっと気になっていたことを投げ掛けた。


「おまえいつまで俺のことゆりこちゃんって呼ぶつもり?」


がパッと顔を上げた。それから目をパチパチ瞬かせ、首を傾げる。「いけないの?」間抜けた切り返しに、俺は椅子の背もたれに頬杖をついたまま溜め息をついた。


「いくらなんでも彼氏にそのあだ名はないだろう」
「気に入ってるんだけど…」
「それおまえだけだからな」


大体笠松には普通に森山って言ったんだろ。それについては夏頃本人から聞いてすでににも確認済みなのだが、その際彼女は「伝わらないんじゃ意味ないと思って」と悪びれる様子も後ろめたさもなくへらりと言いのけてみせたのでそれ以上は追及しなかった。
だからというわけではなく、すでに慣れたとはいえ彼氏彼女の関係になった以上その変な呼び方を変えてほしいと思うのは当然なわけで、いつ言おうか考えていたところにこの時間だったのだ。思慮しているのだろうか、眉をひそめ斜め上を見遣るが特に機嫌を損ねているわけではないのはわかるが、いやおまえ、一体何を悩んでるんだ。


「…じゃあ何て呼べば」
「(…お?)」


思わず瞬きをする。前向きに考えてくれるのか。てっきり何か理由をつけてかわされると思っていたから拍子抜けしてしまった。そうか、変えるのか。最近ではすっかり慣れてしまっていたが、ようやくあれとオサラバできるらしい。嬉しいようなもの寂しいようなよくわからない心持ちになったが、ハッとして気を引き締める。そうだそうだ、何て呼べばいいのかだったな。ていうかべつにこれも、悩むことでもない気がするのだが。


「由孝」
「ええ、苗字呼び捨てとか失礼だよー」
「……おっまえ…名前だろうが。女優とごっちゃにすんのいい加減やめろ」


そういえば忘れていた。あのあだ名はこいつの好きな女優に由来していると。俺が強めの口調で言ってもは大口を開けて笑うだけで効力はない。こいつ、わかってるくせにとぼけてやがる。ジト目で睨みつけるがまるで気付かない彼女は愉快げな表情のまま偉そうに腕を組んだ。


「じゃあそういうゆりこちゃんこそ、いつまでわたしを苗字で呼ぶつもり?」
「は?」
「人に強要させるなら自分もそれなりの態度を見せてくれたまえよ」


なんだその口調は、と呆れながらも俺が返答する前に「あ、終わったよ」とに遮られた。「…ああ」納得いかなかったが話の腰は折られてしまったのだろう。仕方なしに立ち上がり、バッグを持ってと職員室に向かった。
二階の端にあるそこの前で待っているとすぐには出てきて、「お待たせした」とにこにこ笑った。いや、と短く返し、そのまま並んで帰路につく。正門をくぐりアスファルトの道を歩きながら、さっきの話は流れたのか、と考える。意図的に流されたのだろうか。こいつのことだから大した問題じゃないとか思ってすでに忘れてそうだ。推測できてもやはり納得はできず、もう一度切り出そうと決め振り向こうとした瞬間、

ぐいっとカーディガンの裾が引っ張られた。不意打ちのあまりぎょっと体が跳ねてしまう。


「なん、」


そして隣の彼女に振り向いたとき、左手に何かが触れる感覚がした。反射的にそっちを見ると、その光景に俺の思考は停止した。


「(……は)」


に手を掴まれていたのだ。軽くだけれどしっかり握られている。辛うじて足は止めなかったが、突然のことに動揺して何も言えなかった。
は隣を歩いているとき、用があると声を掛ける前にワイシャツや何かしらを引っ張る癖があった。付き合う前にもやられたことは何回かあったが、当然ながら予期しないタイミングで仕掛けてくるそれに俺は未だに慣れないでいる。大体は呼び止めるための手段であるように思っていたのだが、……今のはもしかして、手を繋ぐためにやったのか。
心臓がバクバク鳴り出す。やばい、ときめいた。空いている右手で顔を隠し、真っ赤になっているであろう顔がバレないことを祈る。変わらず歩き続けてこそいるが体は硬い。いきなりなんてことをしてくれるんだ、と若干恨めしく思いつつ指の隙間からちらりとを見てみたが、当の本人はなんでもなさそうに前を見て歩いているだけだった。大胆なことしておいてこいつ…。また俺だけが振り回されている気持ちになる。これも何度目のことか。
そうして俺は、その気持ちになるたびに、こいつに何か仕返してやりたいと思うのだった。動悸はまだ収まらないが、顔の熱が引いただろうというところで、少しだけ手に力を込める。


「おい、……


ピタリと足を止めた彼女に引っ張られるように俺も立ち止まる。手は繋がれたまま振り返ると、俺を見上げた彼女が目をまん丸に見開き、顔を真っ赤にしていた。それにある種の感動を受けていると、は途端に俯いて顔を隠してしまった。こんなことは三度目だ。さすがに慌てない俺は、彼女の表情をうかがうべく腰を曲げた。


「なに照れてるんだよ」
「だって、い、いきなり…」
「……」


最近になってわかったことだが、こいつは割とすぐに顔が赤くなる。自分のすることにはまるで恥じらわないくせに、受け身になった途端こうだ。極端にもほどがある。とかいいながら俺は、こういう反応をするを大変可愛いと思っているのだが。
しばらくしたのち、左手がぎゅうと握られた。心臓が跳ねる。「…わかった」わかった?聞き返す前にが勢い良く顔を上げた。


「よしたかくん」


……………。
一時停止、の末、俺は彼女の目を手で覆い隠した。突然の行動に驚いたらしいは声を上げたけれどその意味を理解したのか「ずるい自分だけ!」と俺の手を剥がそうとした。それにうるさいとだけ返し、自分の顔が最高に赤いのをなんとかバレまいとする。ああでも、指まで動悸が伝わってる気がするからバレてるかもしれない。


「ねえ、これからほんとにこう呼ぶの…?」


目隠しされたままか細い声でそう零す彼女にハッと我に帰り、自分も結構大胆なことをしていることに気付いて内心慌てた。ゆっくり手を離すとは顔を真っ赤にしていて、更に言うと少し泣きそうだった。言い出しっぺは俺だしずっとそうしてほしいと思っていたけれど、これはさすがに、まずい。


「…いや、慣れるまでは二人だけのときにしよう」


頷ければよかったのだが、無理だ。俺もこいつも、こんな顔晒せない。「わ、わかった」どこかほっとしたように乱れた前髪を手ぐしで梳かす彼女を見下ろす。耳まで真っ赤だ。まだ繋いだままの手も意識してしまう。こんな調子で、いつになるだろうか。黄瀬に対する懸念も払拭されてようやく余裕が持てると思っていたのにこれだ。一歩歩み寄るのにどれだけ時間掛けるつもりだよ、俺。