13

 面倒なので待ち合わせは学校の正門にした。八月の第一日曜日のことだった。

 約束の十分前に着くよう家を出ると、学校が見える頃向かいからの姿が見えた。なぜか駆け足のそいつを不審に思いながら、正門前でお互い足を止める。


「おはよー……」
「なんで走ってるんだ。まだ時間じゃないぞ」
「寝坊しちゃって……間に合わないかと思った」


 そうだとしても時計を見れば急ぐ必要がないことくらいわかるだろう。彼女の左手首に目を落とすとそれはしっかり身につけられていた。訝しむ俺に気付いたは、バッグからハンドタオルを取り出し照れ臭そうに笑った。その表情に若干の違和感を覚える。


「三輪くんが十分前行動するのなんとなくわかったから」
「……」


 今度は言葉に詰まる。何と返せばいいのか瞬時に思いつかなかった。こんなことでも見透かされたと思うのは、こいつからしたら今さらなのか。素直に頷くのも悔しい気がして居た堪れずに目を逸らす。


「べつに待つくらいどうとも思わない」


 この返事は適当かと疑念が生じたが、が笑うだけなので考えることをやめにした。
 何も持ってこなくていいと伝えた通り軽装の彼女の荷物は小さいショルダーバッグのみだった。襟のある白い半袖に紺色のスカートと全体的に清楚な印象を受ける服装は彼女なりの正装なのか。炎天下の中駆けてきたせいで暑いのだろう、じんわりと汗をかく彼女の首や額には髪が張り付いていた。
 こんな天気のいい日だから、の顔がよく見えた。


「顔色がよくない」
「へ、」
「寝てないのか」
「え、あ……き、緊張してしまって」


 正方形のハンドタオルを広げ目から下を隠す彼女に小さく溜め息をつく。会ったときから表情の固さに違和感があったが、それも緊張から来ているのか。とにかくそんな青白い顔をされては今日のような気温の中歩かせるのは気が引けるな。考えていると、は眉尻を下げ申し訳なさそうに身体を縮こめた。


「こんなので行くのはお姉さんに失礼だよね。ごめん……」


「姉さんの墓参りに来るか」誘ったのは俺からだった。深くは考えていなかった。ただ連れて行きたいと思ったのだろう。昨日の本部からの帰り道、別れ際にそう聞くと、目を見開いたはしばらくフリーズし、それからかろうじて頷いたのだった。

 あれからずっと緊張しているのか、こいつは。確かに先月の那須隊との試合前も挙動不審だった。今回は事が事なのですぐに呆れる気も起きなかったが、俺の心持ち次第で彼女の今にも倒れそうな危うさが払拭されるわけではなかった。


「どのみち花を買いに行くつもりだったからデパートで涼んでいけ」
「……うん」


 しおらしい雰囲気はどこへ行ったのか、くすぐったそうに笑うに居た堪れなくなり誤魔化すように足を踏み出した。





 駅前を通るとうちわを配る男がいた。横切ろうとしたタイミングでの前に差し出され、反射的に受け取る。扇の部分に電気屋の広告が印刷されたそれは通常より小さめだがこの天気には重宝できるものだろう。


「おー嬉しいね」


 言いながら、当然のように俺を扇ぎ出す。止まる気配がないので無言でそれを奪い取り、こちらから彼女を扇ぎ返す。
 と、笑ったままのそいつの顔が固まった。風で髪の毛が揺れ、真っ赤な耳が見えた。


「……大丈夫か」
「だいじょうぶ……あの、うちわ、」


 参ったというかのように両手で顔を覆う。暗におまえが涼むために使えと思ったのを行動に移しただけだが、悪化させただけだったかもしれない。


「自分に使え」
「三輪くんも暑いと思って」
「馬鹿」


 受け取った指先だけはひんやりと冷たく、真っ赤な顔には似合わないと思わせた。

 デパートの一階にある花屋の店主にはもう顔を覚えられている。花束を見繕ってもらう間、は店の前のベンチに座っていた。ひらひらとうちわを扇ぎながらデパート内を見回す彼女を一瞥し、すぐに花のガラスケースへ逸らす。体調はマシになってきている。途中の自販機で飲み物でも買って飲みながら行けば大丈夫だろう。そう考え、店主に呼ばれたためカウンターへと戻った。
 店内でしばらく涼んだあと、もう大丈夫だと言ったに頷いてデパートを出た。ここから十五分ほど歩いたところが目的地だ。花の入った袋を持つと言い出したを軽く流し、歩き出す。


「途中の自販機で飲み物を買うぞ」
「あ、いいね!欲しかった」


 夏休みの課題とそれを分担する上での陽介の頭の出来について議論しながら進んでいくと、道のりの中頃で目的の自販機を見つけた。立ち止まり先に緑茶を買ったあと、次のが財布を出すところを斜め後ろから見ていた。
 正午に向けて日差しは強くなるばかりだ。今も東の方角からの直射日光が容赦なくを照りつけている。帽子があればもっと楽なんだろうが。思いながら、何となしに花束と反対の手を動かす。


(……この辺りか)


 の代わりに持っていたうちわを掲げ、彼女の日差しを遮る位置まで持っていく。ガコンと音がしてが屈み、取り出し口からスポーツドリンクを拾う。「お待たせー」こちらを振り返りながら顔を上げた彼女に影がかかる。
 と、今度は全身を硬直させた。


「……」
「み、三輪くんさあ……」
「なんだ」
「わたしをどうする気なの?!」


 わっと顔を覆い出したに内心驚く。泣き出したわけじゃない、が、おまえの方がどうする気かと言いたい。


「おい……?」
「心臓がつらいよー……」
「意味がわからない。具合が悪いのか」
「うう……」


「優しいのありがとう……」言いながら、ペットボトルを持った手は顔を隠したまま、反対でうちわに手を伸ばした。言動が普段の二割増しで謎なのは体調不良のせいか。もう少しゆっくり歩いた方がいいなと考え、おとなしく彼女にうちわを返す。ゆっくりと顔を上げ、困ったように気の抜けた笑みを浮かべるの指はさっきよりも温かかった。


「三輪くん、何か変わったよねー」
「……変わってはいないだろ」
「わたしは最近よく死にそうになるよ。前もではあったけど!」
「おまえはもう少し相手に伝わる物言いをしろ」


「わーこれが無自覚ってやつだー」のんきな声は無視し、むりやり課題消化の計画を再開させる。もう八月に入っている。この調子だといつになっても陽介たちの言う勉強日は設けられないだろう。
 ランク戦で頭がいっぱいだと言うに甘えたことを抜かすなと窘めると、「それに最近、月見さんが厳しい気がする……」と神妙にぼやいた。心当たりはあるため、ようやく本性を見せたかと内心思う。あの人の戦術指導の日々はあまり思い出したくなかった。
 それから話題はいくつか移り変わったが、は冷えたペットボトルを額に当てへらへら笑っていた。ゆっくり歩いているのもあってか気付けばいつもの調子に戻ったようだ。頬の火照りは残っているが、夏の気温では仕方ないだろう。思いながら進行方向に向き直す。

 姉さんの墓に、誰かと行くのは久しぶりだった。この道をこうして誰かと言葉を交わしながら向かった記憶は年単位でない。同じ道のりでこうも違うものなのか。
こんな賑やかなのもたまにはいい。

 墓地が近くなるにつれてセミの声が騒がしくなってくる。夏真っ只中の今が書き入れ時なのだろう。アブラゼミか何かの鳴き声を耳に門をくぐり、何度も何度も訪れたそこへ向かう。後ろからついてくるがやや遅れたのを気配で感じ取り振り返ると、彼女は今朝会ったときと同じような顔で立ち尽くしていた。


「やっぱり緊張してきた」


 彼女らしかぬ感情の見えない顔。強張った頬と、本当に合っているのかわからない視線で俺と向き合っていた。


「大丈夫だ」


 口をついて出た言葉だった。自分でも何が大丈夫なのかわからなかったが、そう言うことでを助けられると直感したらしかった。予想通り、目の前の彼女は少しだけ表情を和らげた。

 墓石の前に花束を置き、手前に線香を炊く。独特の匂いが鼻腔をかすめ、煙は空へと昇っていく。それを見上げながら、ふと、俺は少なくとも、どうでもいいと思っている奴をここへ連れてきたりはしないだろうと、今更なことを考えるのだった。

 が墓石の前に膝をつく。ゆっくりと手を合わせ、目を閉じる。それを隣から見ていた。
 じんわりと赤くなっていく鼻が見える。きっと閉じた目に涙をたたえているのだろう。


(わたしの心の一部は三輪くんだから、)
 ――もしかしたらとっくのとうに俺も。


 手を合わせ、目を閉じる。

 姉さん、こいつどう思う。