日も沈みかけのこの時間では街もガラッと顔を変えるらしく、日頃買い出しに出かける日中に比べて随分と印象が違うように感じる。昼には閉まっていた店が開き、木造二階建ての店頭にぶら下がった提灯に火が灯る。のれんの奥からは大勢の話し声が聞こえ、今また一組、腕を組んだ男女が出てきた。寄り添う二人が人混みに紛れてどこかへ向かうのを目だけで追う。都会と呼ばれるだけあって人通りの多さは昼も夕方も変わらず、今も目の前を右へ左へ行き交う人々が大勢見えた。
 女性三人組がわたしの真横を通り、背を預けていた建物へ入っていく。なんとなく振り向くと彼女たちは番台の女性に銭を渡し、女湯の方へ進んで行った。と、同時に番台を挟んで反対側の入り口から一人出てくる。


「お、すまん。待たせたな」


 小脇に着替えや手ぬぐいの包みを抱えた隊長が軽く手を挙げた。同じ荷物を持ち外の壁に寄りかかっていたわたしは迷わず歩み寄る。


「いえ。…髪まだ乾いてないですけど大丈夫ですか?」
「歩いてる内に乾くからええねん」


 背中を覗き込み、腰まで伸びる隊長の長髪を上から下まで流し見る。水気は拭き取られているもののいつものように軽やかに風になびく様子はなく、全体的にしっとりしている。それでも普段からの直毛っぷりは失われていないので、素直に羨ましい。
 銭湯はわたしたちの拠点の民家から歩いて三十分のところにある。賑わう通りに建つそこへは、外での目立つ行動を避けるため少人数で順番に行くことになっており、日ごとに希望順で組んでいる。今日は午後ずっと休んでいたわたしと、それに付き添ってくれた隊長が一番にやって来たのだ。隊長と一緒に来るのは初めてだったけれど、やっぱり髪が長い分お風呂に時間がかかるため、わたしの方がずっと先に出てしまった。隊長相手なら誰だろうと待つ羽目になるんだろう。リサや鳳橋隊長ならまだしも、これで六車隊長や白や有昭田副鬼道長だった日には、先に帰ってしまいそうだ。
 想像するとちょっと面白い。二人並んで帰路につきながら、声に出さず笑ってしまう。


「なににやにやしてん」
「いや……あ、そういえば、前に瀞霊廷の銭湯の近くで会ったことありましたよね」


 口に出してから、禁句だったかと背筋が冷えた。けれど隊長も明後日の方を見上げて「ああ、あったなァ」となんでもないように頷いたので、大丈夫だったと密かに安堵した。尸魂界での思い出が全部封印されてしまうのは悲しい。楽しかったことは何度でも回顧して浸りたい。だって実際に起きたことだものね。
 あれはもう六年くらい前だろうか。新しくできたという銭湯にリサたちと行き、外の温泉街を練り歩いていたら隊長に声をかけられたのだ。あのときはまさか、休日にも会うとは思ってなかったなあ。


は頬赤ァてかわええの変わらんなァ」


 湯上りで火照った右頬に、ふわりと隊長の手の甲がくっつく。反射的に首を反対側に傾けて避ける。その行動に既視感を覚え、当時も同じ反応をしたことを思い出した。つい苦い顔をしてしまう。隊長は隊長で、変わらずわたしを見下ろし楽しそうに頬を緩めていた。
 何て言い返そうか考えていると、彼の手が下に降り、両手で抱えていた荷物から剥がすように、わたしの右手を掴んだ。ドッと心臓が跳ねる。咄嗟に反応できなかったせいで、されるがままの右手はあっという間に隊長の左手へと収まってしまった。指と指が交互に絡んで繋がれる。さっきよりも近づいた距離に、首から上の熱が急上昇するようだ。な、何を、こんな、人通りの多いところで…?!我に返り離そうとするも力を入れて握り込まれてしまいまるで振りほどけない。


「た、隊長…こんな往来で、離してください…!」
「もうおまえの隊長やないから聞けへんなァ」


 そんな返事にギクッと身体が硬くなる。隊長じゃなくなったことを本人の口から聞くのは初めてだった。周知の事実だとしても、言わせてしまったことに罪悪感が募る。ぎゅっと口を噤み俯く。


「……」
「いや、そない思い詰めた顔せんといてや。違う呼び方してやーて言いたかっただけやねん」
「……違う呼び方…?」
「一個しかないやろ。真子て呼んでェな」


 背筋を曲げ覗き込むその顔は随分と楽しげだった。
 しんじ、心の中で唱えた瞬間、ますます鼓動が速くなる。これも、前あった。でもあのときとは全然違う。だって今は、わたしの恋人なのだ。「う〜…」無理だと悶えながら腕をバタバタさせるも強く握りしめられて離してもらえそうもない。言わないと解放されないやつだこれ。どうしよう湯上りで火照ってたのも相まってのぼせそう。片手で力一杯抱きしめた荷物に顔を埋めるように俯く。「……し、」


「真子さん…」


 声に出した瞬間、口から心臓が出てくるかと思った。人の名前を呼ぶのがこんなに恥ずかしいなんて。死にそうになりながらも隊長の顔が見れずに俯いたままでいると、するっと繋がれた手が解放された。ホッとするような、いざ離れるとさみしいような不思議な感覚に陥る。
 すると今度は、背中から肩に腕を回され抱き込まれた。いよいよ動けない。足は止まり、人が行き交う足音だけが聞こえる。鼓動が全身に響き、隊長にもバレてしまってるんじゃないかと思わせた。


「妄想は散々しとったけど本物の破壊力は恐ろしいな…」


 はあ、と肩越しに息を吐く隊長を気配と聴覚だけで感じ取る。何を言ってるんだと思いながら、さっきよりも悪化してる現状に物申すと、今度はあっさり離れた。


「しゃーないなァ。恥ずかしがり屋のに免じて今日は何もせえへん」
「はず……何もって、もうした…」
「アホ、こんなんした内に入らんわ。て、俺と六年付き合うて何言うてんねや」


「あ、ちなみにもう隊長て呼んでも返事せえへんからな。ちゃんと名前で呼び」ニヤッと笑うその人に、真っ赤の顔をしかめて見せる。意地が悪い。でも隊長のことだから、そうでも言わないとわたしがずっと変えられないだろうことをわかっているんだろう。きっとちゃんと考えてくれてる。だとしても素直になれないわたしは、楽しそうな隊長の隣で口を尖らせたまま帰るのだ。家に着く頃には火照りが治まってるといいんだけれど。





 翌日の朝、起きて広間へ向かうと案の定誰もいなかった。昨日は昼寝もして半日ゆっくりしたので早く起きてしまったのだ。めでたく全員の虚化制御を達成したため、昨日からは各々すきな時間に就寝していた。
 修行の時間は変わっていないので、みんなもじきに起きてくるだろう。朝食の準備をしておこうと台所へ足を向けたタイミングで、今しがた入ってきた障子が開いた。もう起きてる人いたのか。振り向き、すぐさま目を瞠る。


「たっ…?!」
「おーおはようさん。早起きやな」


 たい、ではなく、真子さんだった。彼が普段こんなに早起きだとは聞いたことがない、から、わたしと同じようにたまたまなんだろうとは思う。そもそもわたしが驚いてるのは、何も彼が早起きだったからではない。瞠目したまま彼の顔を凝視する。


「え、た、髪の毛……」
「おお、さっき切ってみてん。どや、似合うやろ」


 そう言って得意げに顔まわりの髪の毛をつまんで見せる真子さん。昨日まで腰まであった髪の毛は、なんと顎よりも上でバッサリと切られていた。長かった髪を真横に切ったように毛先はぴっしりと揃えられ、一本の跳ねもない。たしかに彼らしくはある。似合ってるかもしれない。けれど、あまりの変化に動揺は隠せない。


「な、なんで突然…?お風呂が面倒だからですか…?」
「今さらそないな理由で切るかい。……ただな」


 真子さんは一度言葉を切り、わたしを見つめた。まっすぐ射抜かれ思わず息を飲む。真剣そのものと言わんばかりの表情だ。もしかしたら、のっぴきならない理由があるのかも。それこそ藍染副隊長絡みのような……。


「前の髪型やとな、洋服が似合わへんねん」
「……はい?」


「ほら、街歩いてるとおんねやろ、首詰まった服着てる奴。ネクタイもかっこええなァて、ずっと着てみたかってん」ケロッと表情を変え、首下でネクタイを結ぶポーズをしながら嬉々として語る彼に呆気にとられる。……そういえば、尸魂界にいたときも洋装に興味があるって言ってた気がする、なあ…。身構えたよりずっと能天気な理由に脱力してしまう。


「そんな理由だったんですか…」
「まあな」


 なぜか得意げに笑う真子さん。どうやらこの髪型をお気に召しているらしい。今はまだ着流しを着ているけれど、そのうち彼お気に入りの洋服を着るようになるのだろう。それはちょっと、見てみたいと思う。そんなことを考えてるわたしの頭もずっと能天気なのかもしれない。
 でも平和だ。潜んでいる身であるからこそ警戒しっぱなしじゃ息苦しいから、楽しいことは多い方がいい。散々辛酸を舐めた上にこの先果たすべき使命は大変なことで、きっと苦痛を伴うだろう。ならばこの生活の中で少しでも多くのことを楽しみたい。きっと真子さんも同じことを思っている。彼の心は前を向いているのだ。それがなんと心強く、安心することか。自然と笑みも浮かぶものだ。


「服はもう買ったんですか?」
「まだや。せやから今度一緒に見に行こな」
「はい、ぜひ」


 二人でへらりと笑う。真子さんの、短い髪にもすぐに慣れるだろう。そう時間はかからない。だって明日も明後日もその先も、ずっと一緒にいるのだ。同じ時間を過ごし、良いも悪いも共有し、少しずつ、少しずつ、わたしがあなたのものに、あなたがわたしのものになっていったらいいと思う。
「それじゃあ朝ご飯の支度一緒にしましょう」台所へと踵を返すと、「おー」後ろからゆるい返事が聞こえる。畳を踏みしめる二つの足音に、自分は今も幸せの中にいるのだと感じた。


18│top│おわり